ユニフォーム・コレクションVol.6 ~永久欠番編6~ 王貞治 | いつもごろごろきまぐれ日記

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ユニフォーム・コレクション第6弾で、永久欠番シリーズ(公式)の最後となりました。

「世界の王」王貞治さんのユニフォームです。

 

私が物心付くか付かないかの頃に、王さんが引退されたので、現役時代の記憶は全くありません。

当時不思議な感じがした王助監督、王監督の頃が、私が知る王さんです。

 

今回も「巨人の星」のネタを・・・(今回も長いのですっ飛ばしていただいても構いません。

ちょっと記憶が曖昧なので、間違っていたら指摘してください。

王さんと飛雄馬のエピソードは、それほど多くありませんが、ちょこちょこと重要な場面に絡んできます。

子供の頃に草野球で王さんと対戦し、王さんにホームランを打たれます。

これが飛雄馬にとって、最初の被弾となり飛雄馬は悔しがります。

プロ入り後、速球投手としてやっていけない事がわかり、苦心の末、大リーグボールを取得した頃、一軍選手が調整のため、多摩川グラウンドで練習を行うことになりました。

その時、コントロールの良い飛雄馬が打撃投手として一軍相手に投げます。

それは、もう気持ちよく打たれて、一軍選手の調整にもってこいでした。

なぜか多摩川の土手で、その様子を見ていた一徹は、手塩にかけて育てた我が子が打撃投手に甘んじ、にこやかに投げてる姿に、愕然とし悶えます。

その練習後に、飛雄馬が川上監督に「王さんと勝負させろ」と直訴します。

川上監督から怒られますが、王さんがそれに応じます。

結果は内野ゴロでしたが、打った王さんは一塁へは走らず打席で座り込んだまま。

川上監督が練習終了を告げ、記者は引き上げていきます。

正気に戻った一徹はそれをみておらず、何が起こったかわけがわからず苦悶します。

誰もいなくなった後で、飛雄馬が投げたボールの種明かしをします。

それが、打者が構えたバットに当てる大リーグボール1号の初披露でした。

つまり、王さんが大リーグボール1号の実験台にされたわけです。

 

月日は流れて、「新・巨人の星」の時代・・・

右ピッチャーとして再起を果たした飛雄馬は、豪速球を身に付けたもののノーコンで困り果てます。

その時に王さんがやってきて、自身が高校の頃にコントロールが悪く、ノーワインドアップから投げていたと実践して見せます。

飛雄馬がやってみると、見事にストライク!

ただ、スピードは王さんとトントンでした。

王さんの助言を元に飛雄馬は右ピッチャーとして、一軍のマウンドに帰ってくるのでした。

更に時は進み、飛雄馬が遂に大リーグボール右1号を編み出した時、その時も王さん相手に初披露し見事に王さんを打ち取ります。

つまる所、王さんは大リーグボールの実験台として、「巨人の星」「新・巨人の星」の重要な役割を担うことになったわけです。

 

それでは・・・

 

 

こちらは、5000勝記念として2007年に発売された永久欠番のユニフォームです。

ジャイアンツがOB選手のユニフォームを発売するのは、大変珍しい事なんです。

レプリカのユニフォームにネーム、背番号を入れる時も、現役選手に限られます。

このユニフォームは、2008年のレジェンド・デーでも再販されました。

サイズはOサイズです。

 

さて、黒沢俊夫さん長嶋茂雄さんのユニフォームでも説明しましたが、このシリーズは一桁の背番号を二桁用の背番号で製作しているため、番号が細くなっています。

それに、実際の王さんの背番号1は、単に一桁用に幅を広げただけで無く、縦棒が太く作られています。

これは、ネームがOHと二文字のため、バランスを取るために太くしたと言われてます。

そういうわけで、その時の背番号を再現してもらい、背番号の張り替えを行いました。

 

王さんの一本足打法のようにどっしりとした佇まいの、背番号になっています。

このOH 1は、1976年~1988年まで使われました。

実に13年間も王さんの後ろで輝いていたんですね。

 

王選手は、世界のホームラン王という事で認知されてると思います。

また、ホームランの世界記録を達成した時に、国民栄誉賞の第一号を受賞しています。

王さんの背番号の由来は、台湾語で王の事をワンと発音することから付けられたという、ウソのようなホントの話。王さんの本で読んだことがあります。

他にたまたま空いていたという説もありますが、当時の関係者でないと真実はわかりませんね。

最初は投手として入団しましたが、すぐに打者へ変更。

卒ルーキーとしては異例の開幕スタメンとして出場するも、金田選手に対して2打数2三振(1四球)、王さんも長嶋さんも初対戦はスワローズの金田選手で二人とも打ち取られてます。

但し、王さんも長嶋さん同様、金田さんとの相性は悪くなく、打率こそ3割を切るものの13本のホームランを放ってます。

初打席か26打席ノーヒットで迎えた、27打席目の初安打がなんとホームラン。

これが世界のホームラン王のスタートとなる、868本のホームランの内の1本目となりました。

しかし、期待されながらも入団から3年間は鳴かず飛ばずの成績。

3年目(1961年)オフに、荒川コーチとの出会いが王選手の転機となります。

「一本足打法」を引っ提げ、1962年に初タイトルであるホームラン王と打点王を獲得します。

この年から1974年まで12年連続でホームラン王を獲得し、これはプロ野球記録として残っております。

この記録を超える選手は今後出ないのでは無いでしょうか?

1973年、74年に史上初となる2年連続三冠王を獲得。

1977年に世界記録を塗り替える756号を放ち、1980年の引退までに868本のホームランを打ちました。

1975年にホームラン王を逃してからは、セ・リーグのホームラン王争いは群雄割拠の時代を迎え、タイガースの掛布選手、カープの山本選手との争いを引退まで続けます。

1980年に30本のホームランを打ちながら、打率がセ・リーグ最下位となり、「王貞治のバッティングができなくなった」と引退しました。

ただ、本人はまだ現役続行の意思は少なからずあったようです。

1980年は長嶋さんが監督を解任され、王さんが引退をし、ONが同時にグラウンドを去るという事態になりました。(王さんは助監督としてチームに残りましたが)

 

引退後は王助監督として、藤田監督を支えますが、後に「助監督と言っても何もすることが無かった」と述懐しています。(これは原さんが野手総合コーチとして、ジャイアンツに復帰した時のコメント)

1984年に満を持して王監督が誕生するのですが、1984~1988年の5年間でリーグ優勝1回、5年連続Aクラスという成績でしたが、日本一になれなかった事から監督を辞任することになります。

 

その後、長嶋さんがジャイアンツの監督に復帰した際に、「ジャイアンツで監督をする機会はもう無い」と悟り、ホークスの誘いを受けて監督になります。

ただ、万年Bクラスから脱しきれないホークスの選手からは、勝利に対する貪欲さが無かったと言ってます。

有力な若手選手の獲得などで戦力を整え、監督就任4年目(1998年)で、ホークスとしては実に20年ぶりのAクラスまで引き上げ、翌年に日本一となります。

2年連続優勝で迎えた2000年、世間はミレニアムで大騒ぎの年、その記念の年に遂に実現した日本シリーズでのON対決。(実はON初対決は、1995年に新大分球場で行われたオープン戦であり、その試合を観戦しています(ちょっと自慢ニヤリ))

この年はホークスが、日本シリーズの期間の福岡ドームを抑えておらず、てんやわんやの変則日程で行われました。

王ホークスは、長嶋ジャイアンツに敗れ、2年連続日本一を逃してしまいます。

1970年代後半から万年Bクラスであったホークスを、1998~2007年まで10年連続Aクラスにし、常勝軍団へと仕立て上げます。

ただし、2004年、2005年はパ・リーグのわけのわからん制度で、勝率1位ながらポストシーズンで敗れ優勝には至りませんでした。

そのわけのわからんシステムさえなければ、三連覇を果たしていました。

また、2006年にはWBCの監督として、初代王者に輝きました。

しかし、その年、胃がんのためチームを離れ、2007年に復帰するも、その年から導入されたクライマックスシリーズで敗れたため、2008年に監督辞任を示唆する発言をします。

2008年は結果を残せず、宣言通り監督を勇退することとなりました。

監督最終年は最下位で監督生活に幕を下ろしました。

余談ですが、2008年に南海ホークスの復刻ユニフォームを身に付けて指揮を執りましたが、こう言っちゃなんですが似合って無かったと思います・・・(すいませんショボーン

 

退任後はホークスの球団会長となり、ジャイアンツのOB会長になるも、もう完全にホークスの人になった感じがして、ジャイアンツファンとしては寂しい限りです。

 

王さんは現役時代からファンサービスが大変良い方でした。

「僕のサインなんてたくさんあるから価値なんて出ないよ」とおっしゃるくらいサインを書いていたようです。

ちょっと前まで、タイミングが合えば自宅でもサインをしていました。

夜中まで帰宅するの待っていたファンがいたとか、サインしたものをオークションで売ったとか噂は色々とありますが、プライベートではサインをしなくなったようです。

ホークスのキャンプ地ではしてるのかな?

マナーの悪いファンが自ら首をしめる・・・ そんな典型的な例です。

 

通算成績(打率:.301、打点:2170、本塁打:868)

 

1994年に野球殿堂入り

1977年、国民栄誉賞を受賞

 

さて、これでユニフォーム・コレクションも永久欠番シリーズ(公式)が終わりました。

次回を期待しないでお待ちください。

 

あと、次回からは長々と文章を書きません。

最初の沢村さんのユニフォーム紹介の時に、思う事をつらつらと書いてしまったので、引くに引けなくなってしまい、川上さんの辺りからエスカレートしてしまいましたガーン

調べればわかる範囲の事ですので、次回からはやりません口笛

 

ではではウインク