愛鷹山に眠る文明の解明スタート!第一話 | ひなさんのブログ

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みなさま

 

長らくお待たせいたしました?!

 

ブログの更新が実に久しぶりになりました.!

 

いつも思っていたのですが、私から発信することがかなり先のこと、そうだなあ、5年は先のことかも。。。そんな内容でした。笑い泣き

 

でも最近は、すぐに必要だった結果が表れるようになったようです。爆  笑

今回の内容は、今からすぐにでも必要なことに直結する重要な事柄だと確信しましたドキドキ

 

本当に必要なことなのかを調べながら、起きる結果を待っていました。だからブログUPまで少し時間がかかりました。。。照れ

 

私の住んでいる中部地方では、ここ30年間、災害もなくとても穏やかです。

なぜだろう・・・と考えていました。東海大地震も来ない。大雨による災害もない。

 

何かに守護していただいている?!でも証拠がない。

 

もし何かに守られていたとしたら、何かの役目をしなくては大変なことになるのではないか?

 

そして過去に出会っていた静岡県内にある「古墳」から、また生前「加茂喜三」という愛鷹文明の謎に挑戦していた先生から、また富士山の守護をしてくださっていた「大石喜作」先生から、受け継いでいたことがあることに気が付いたのです。

 

それがどんなに重大な、そしてコアな、微細なことだったのかと・・・メラメラ

 

うまく伝えられない点はどうぞお許しください。

 

また私は考古学者でも宗教家でもなく、新興宗教でもなく、ただの普通の一人の女性。

 

そんな一人のか弱い(一応ねー。。。)女性が、どこかの星から指令を受けていた役目を、父方の曽祖父から夢で受け取り、その作戦に見事にはまりにはまってしまったということなのか?

 

それは血筋とはまた違うようなのです。

 

そして『富士文書』と『ほつまつたゑ』の第一人者、研究者と出会いかのら、今まで身の上に起きた数々の出来事が、これから行う実験のためにあったんだということがようやく理解できました合格

 

私は元来、疑い深い性格です真顔

特に神、宇宙、天、祈り、祝詞などという単語が出ればさりげなく斜め目線で見て、蔑視していたように思います。

 

尊敬してもいいかな?と思った人にも、相当な年月と試しをさせていただいてから、自ら学び実体験した結果が同じでなければ離れていきました。また相手側から毛嫌いされたり、煙たがられたり・・・そりゃあ当然ですよね。ほんと、嫌な性格なのです汗

 

そんな根性悪の性格の私。今も変わっていません・・・あせるごめんなさい・・・DASH!これも個性だと思っていただければ幸いかと・・・グラサン

 

もう何十年経ったのでしょう。

師匠がこの世を去ってから、「加茂喜三」先生との出会いがありました。

もう加茂先生もこの世にはいらっしゃいませんが、今改めて加茂先生の本をすべて読ませていただいて、今更ながらこの「山」の存在に気が付いたのです。

 

恩師から次の尊敬する方へ・・・この出会いは、富士山とこの山をつなぎとめることの意味があったのだと。

 

私にとって、二方の恩師の遺された思い、生き様。そして手元に残された「あることば」(呪文)・・・

この恩師の功績と、出会うべきして出会った繋がりなどの話はまだ次回書こうと思います。

 

ちなみに、大石先生と加茂先生は、お互いに知り合いではありません。生きている内は何の交流もなく、接点もありません。でも今ようやく、二人が相談し合って、疑い深い私を何とか動かそうと、あの世で指令しているかもしれないな、と思える出来事が起き始めたのです。

 

さて、その山は「富士山」ではありません。そのもっと前にできた山です。

 

その山とは・・・

 

 

「愛鷹山」(あしたかやま)

 

 

 

愛鷹山という存在があって富士山ができたことを知って欲しいのです。

その下に何が遺されているのか・・・何かの意思が眠っています。文明のかけらと共に。。。

 

愛鷹山だけでなく、箱根山、小御岳山などの火山噴火も共にありました。そのきっかけは伊豆諸島が海から衝突したからでした。

 

そして出来たのが現在の富士山。富士山は四階建て。何回も噴火を繰り返してはキレイな円錐型の山になったのですが、そんな富士山の影の存在が愛鷹山なのです。

 

 

<span style="color:#0000ff;">愛鷹山ハイキングガイドより</span>

 

 

愛鷹山という難解な古代文明と、現在学び中の『ほつまつたゑ』との接点をさまざまな角度から調べに調べ、ようやく持論の予測がもしかしたら正しいかも?と思い、これを実証するために行動を起こす決意を固めたのでご報告いたします。

 

 

この日本列島は、ある大きな「意志」により動き、成長し続けていることはすでに皆さんの感覚でお分かりでしょう。

 

何もなかった海底から隆起した「龍」の形の日本列島。

 

文明を築いていく内に、様々な発展がありました。

その中で最も忘れてはならないのは、「言葉」の始まりでしょう。

 

「をして」という文字には、一音一音意味があります。その一音素の集合体が「単語」になって名称化させていると書かれているからですが、これも正しいのかさえわかりません。それをこれから実験していくのですけど・・・

 

 

現在、人類は欲望を満たすために闘争をして、人同士殺し合いをし、物を奪い、人を奪い合うようになったのです。残念ながらこのような残酷な出来事は過去から何も変わりません。

 

戦争はいつの時代になっても無くなりませんね。

 

それは「文字」による伝達法ができたからだと私は思うのです。

文字はあくまでも形しかありません。その奥に潜んでいる「音」に直結していることを知るべきです。

 

言葉を出せば「音」として伝わります。言葉に出さなくても文字に含まれる意味が発動します。ただし音を出した方がより効果があります。

 

その音には一字一句、意味があり、届く場所も違います。

 

 

初めに大陸に降りた「とほかみゑひため」という八人の皇子がいました。

「とほかみゑひため」とは、人種の祖先の頭文字を表した言葉です。

 

太古から日本の宮中では、「とほかみゑひため」に祝詞を伝えている重要な儀式が続いています。世界の国の中で、日本以外には残されていません。

 

私はこの八神が人種の種だと思っています。日本には二人が来ています。これが「ゑ」と「と」の神「干支」(ゑと)となり、現在でも暦として使われています。「ゑ」が兄、「と」が弟です。

 

 

古代の日本は、「大八州(おおやしま)」と言われていました。「とほかみゑひため」という宮中八神の「八」つの意志を持った人間の文明の創始者たちが、それぞれ世界中に降り立ち、八つの意志を基に世界中に文明をもたらしたのです。


 

日本という陸地は、弥生時代・古墳時代を経て、飛鳥時代に至るまで渡来人たちがもたらした文明のおかげで、現在までこの日本を支えてきました。

 

しかし渡来人たちは、自国の歴史の中に八神たちがそれぞれの国に遺してくれた大切な「何か」を文明発展の中で捨て去ってしまったのです。

そしてついに殺し合いや奪い合いという「マイナスの感情」を蓄積していったのです。

 

中国では秦の始皇帝がまとめる前や後も、為政者がらみの殺し合いが続きました。

 

また朝鮮半島でも同じです。(三国時代と言われた高句麗、新羅、百済など)

 

民たちだけの犠牲だけでなく、王やその臣たちは暗殺され、国は乱れ、その関係者たちや皇子はこぞって国を捨てて日本へ逃げてきました。それが弥生時代中期あたりから始まっています。

 

 

日本に逃げて来た渡来人たちを古代日本人は快く受け入れました。

 

古代日本人の統治者は、渡来人たちを「あめなるみち」という天の精神を教え、それを守らないものには地(国)の罰則で抑えました。

 

さらに言葉に含む「祈り」や「音」には宇宙に届く調和と和合と尊威なる力があることをじっくり教えたのです。

 

渡来人たちはきっと、自分たちの祖国で尊師たちから習ってきたことと同じだったことを思い出したことでしょう。

 

同じだったということ、その意味は、「とほかみゑひため」という人類の種の八神とは、みな同じ親から生まれた方々だったという点でした。

 

私は渡来人が日本に逃げてきて和合していったというその時代は、ニニキネ(瓊瓊杵尊)の時代(弥生時代前半~)だったと思います。

弥生式土器や、水耕栽培が始まったころと推測しています。

 

明らかに縄文時代とは異なる文化が入ってきたからですし、民の数も異様に増えています。それは古墳に出土した食べ物の種の数からもわかります。

食べ物の種類もかわったのです。

 

しかしニニキネのお子さんが皇子三人生まれ、その後分裂していきます。この分裂の時代が弥生時代後半ではないかと思います。

(三人の皇子の母親は富士浅間大社の女神、このはなさくや姫です。)

 

ニニキネの長男の「ムメヒト」(ホノアカリ)はハラミの国(現在の関東から富士山周辺)を守りました。

 

次男「サクラギ」(ホノススミ)は現在の滋賀県高島の「ウカワ宮」に移りました。

 

三男「ウツギネ」(ヒコホヲデミ)は、栃木、滋賀県大津、福井、鹿児島、熊本阿蘇、福岡、宮崎などを点々とし、最後は滋賀県の大津「シノ宮」で余生を終えます。遺言によりお墓は福井にある「気比神宮」に眠っています。

 

海幸彦と山幸彦は、このニニキネの三つ子の内、次男(海幸)と三男(山幸)との兄弟争いの話なのです。

なぜか長男のことは『ほつまつたゑ』でもあまり触れていません。

何かを消そうとしているのか、富士山中心であった皇統は次第に薄れていきました。

 

 

このように、ニニキネの三つ子のお子さんの時代からどうも兄弟争いがあったようです。ここには渡来系の関与があった可能性があります。

 

そして、長男の皇統が正当だと思うのは私だけでしょうか?

 

これを裏づけるように愛鷹山の麓から、「高尾山古墳」が出たのですびっくり(この記事の最後に写真付きで載せてあります。当時の新聞記事にあったものです。)

 

古墳から出た土器の中から、伊勢湾周辺と交流があった証拠が出ました。

 

さらに注目したのは、九州地方独特の土器は一切出ていない点です。これは九州周辺にあった女王の国、邪馬台国との交流はなかったということになり、更に古墳時代前期の土器も出土しています。

 

出土した土器から、邪馬台国の時代よりもう少し前の時代となるので、「高尾山古墳」は邪馬台国と敵対していた男性を首長としていた王の墓ではないかということです。

 

古墳前期は、男性の王たちが日本を分担して小国を築いていたとされていて、その後九州あたりから邪馬台国ができたというのが現在の学者たちの見解です。

 

とすれば、愛鷹山周辺には、邪馬台国より古い古墳時代初期に、かなり強い権力の王が存在していたことになります。

 

そして、高尾山古墳の王は、九州で興きた新しい国、邪馬台国と敵対していたと推測すれば、それはニニキネの時代(私は弥生時代中期と予測)より少し後になります。

 

それは渡来人が入り込んだ後の時代。当然、文化の違い、宗教観の違い、価値観の違い、ことばのすれ違いが起きたでしょう。

 

こうして日本列島は、「女王」を中心とした九州・近畿地方と、「王」を中心とした本州(後に滋賀県から奈良県あたりに王権が集中)とが、トップに立つ男女を中心に争いが続いたのかもしれません。

 

 

古墳時代には、呪術を中心とする女王が治める国ではなく、ヤマト王権による武力による制圧で国が誕生したのです。

 

これが後に「ヤマト朝廷」と呼ばれるようになりました。

 

この日本の混乱を一つにまとめるため、、後に「神日本磐余彦」(『日本書紀』の表記)、つまり「神武天皇」が立ち、日本を東征したのです。

 

しかしその戦乱は長年にわたり続きました。特に東北地方の反乱はものすごく、あの有名な武勇、景行天皇のお子さん「ヤマトタケ」(『日本書紀』では日本武尊)の犠牲もありました。

 

とにかく古墳時代には日本は戦乱の世でした。

 

 

その根本原因はやはり「言葉」や「文字」による穢れが発生し、欲望が渦巻き、そのぶつかり合いだったと思うのです。

 

いくら「言葉」がちがっても、移籍した先の国にあった思想や価値観を受け入れていけば何の問題も生じないはずです。また入った者たちも新しい思想を受け入れることをしていれば・・・

 

でも文字には必ず「穢れ」が発生します。

 

それがまして天皇や王というお立場なら、日本古来からあった「音」を大切なさっていれば・・・でもそれが異国から来た人に天皇や王の座を奪われていったら?

 

それも皇后という立場を利用して皇子を設けて、その子に異国の思想を植え付けていったとしたら?

 

古代日本の音に新たに自分たちの文字を当てはめてしまえば、その古代の音は消え、新しい当てはめた文字の意味の音にすり替わってしまいます。

 

為政者が変われば音に文字を当てはめる。そんなこと簡単です。

 

さらに生前の偉大さを永遠に遺すため、巨大なお墓(古墳)を遺せば、死者の魂はこの地に残り、永遠に欲望を地上に振りまき、後世の子孫が祈りを捧げる度に、穢れは続くのです。

 

昔の聖地は必ず「禁足地」だった理由はここにあります。

 

言葉や祈りによる穢れを発生させないように地上を守るためです。

 

 

現在、「やまとの民の心」がどこかに消えてしまいそうな、そんな危機感を感じているのは私だけでしょうか?

 

いいえ、そんなことはないと思いたい。

 

神社へお参りする方が増えてきたり、神代文字を学ぶ方も多くなっていることを知っているからです。

 

でも、その神代文字も「文字」なのです。文字は文明から生まれましたが、元は宇宙の意思と通じ合うための手段のために編み出されたもの。初めはその文字に天に通じる力があったのだと思います。

 

しかしその文字も渡来系の文字が入り、ミックスされてしまった神代文字。または現代の文字も同じ。

 

「をして」という研究者の間では古代文字と言われている文字も、その一つなのかもしれません。

 

「をして」が古代から存在していたとしたら、なぜ古墳や遺跡に残されていないのでしょう?ここは疑いたくなる点です。

 

また他の神代文字にしても同じです。埋葬品の創作ものなら見たことありますが・・・

 

ここから私は、太古の日本には「文字」など必要なかったのかもしれまい、だから元から日本には「音」だけがあったのかもしれないと思うようになりました。

 

それは縄文初期の旧石器時代のお話です。

 

私はこれから「音」を通じて、聖地とつないでいこうと思います。

 

しかし、縄文より後の時代に、日本で起きた人間の感情思想の変化も知らなければ、太古の意思と通じるわけないと思います。

 

 

「愛鷹山」の底に眠っている遺跡の存在はご存知でしたか?

 

また、その文明は愛鷹山が噴火して鎮静化した後と、富士山が大噴火した間に栄えた文明であった可能性もご存じでしたた?

 

さらに、沼津市には、保存された「高尾山古墳」があります。

この古墳は、愛鷹山の南に延びた丘にあります。

 

まさにこの古墳が証明してくれているように、「するがの国」には独自の王がいて、その王の力は偉大だったので、ヤマト王朝は「するがの王」に協力依頼を申し立て、その後、東へと日本を統一していったと考えられるのです。

 

IMG_3875

 

「高尾山古墳」の画像検索結果

 

photo:12

 

この高尾山古墳は、一時壊してしまう方向になったのです。

それは交通渋滞を解消するための道路建設工事の真上を通っていたからでした。

 

東名沼津インターを降りると、伊豆へ向かう車と、国道一号線へ出る車で、一般道が大渋滞を起こしていました。

 

住民たちの悩みの元でした。

 

そこで伊豆へ向かう車のために、東名を出た後、新たに伊豆へと直結する道路を作る計画があり、かなり昔からインター周辺の立ち退きが始まっていました。

 

この古墳が発掘されたのは、この古墳の上に建てられていたお寺の横に隣接していた神社移転の時でした。

 

昔はお寺と神社は同じ敷地にあったので、このお寺の真横にも神社がありました。

 

その神社は「熊野神社」でした。そして熊野神社の後ろには「高尾山穂積神社」がありました。時代的には熊野神社の方が先にあったそうです。地名も「東熊堂」(ひがしくまんどう)といい、熊の字が残っています。

 

さて、お寺のご住職さんも知らなかったそうなのですが・・・

まさか敷地内からこんな古墓が出てきたなんて・・・

 

 

一説には先ほど書いたように、出土した土器の古さからいえば、卑弥呼伝説のある女王の権力者を埋葬した「箸墓古墳」をしのぐ古さだということです。(西暦230年~250年ごろ)

 

そして出土した土器には近畿内の製造土器は一切出土されていない点が不思議です。権力に屈していない強者の匂いがします。

 

私もこの古墳が何とかそのまま残されるように祈り、署名をしました。

 

なぜなら、この古墳に本格的な発掘調査が入る前、なぜかここに導かれ、こっそり古墳に侵入し、祈りを捧げた経験があるからです。

 

あの日、私はこの古墳の主の思いをしっかりと受けて帰りました。

 

この主の言うところには

 

「私はまだ下の階級の者にすぎない。私などよりも更に格の高いお方の入った山があの山なのだ。

私が壊されることで済むのならそれで構わない。しかしあの山の上に存在するお方の眠る場を荒らされるのだけは決して許さぬ。」

 

この確固たる決意を聞いて私はその主に返答しました。

 

「何を言うのですか。あなたはそのお方の元で守っていらっしゃる身分も格もある方ではないですか。あなたもあの山(愛鷹山)に眠る方も残らなくてはだめです!

私はそのためにここに呼ばれて来たのでしょう。

諦めてどうなるのでか。

私は諦めませんからね。あなたも愛鷹山に眠る者も必ず残します!!」

 

そう言った数年後、この古墳の保存を巡って議論が起きたことをまた思い出しました。

 

壊されてしまうと決まった決議の後、何度も市民運動が起こり、メディアでも取り上げられたおかげでようやく計画中止があり、保存の方向になりました。

 

その保存決定に際し、日本考古学協会の存在があったことを知りました。

 

「貴重な文化遺産を壊すことは日本国民共有の文化遺産として将来にわたり保存、活用すべきだ」

 

と、日本考古学協会の会長が意見を出してくださったそうです。

 

会長声明を出したのは奈良県の高松塚古墳、広島県の鞆(とも)の浦

に続き三例目だそうです。

 

 

このように「愛鷹山には貴重な文化遺産が眠る山。

 

古代からこの山には謎が多く、富士山の噴火とともに埋まっている遺跡が数々あります。

 

高尾山古墳の年代以前にも、さらに海から入ってきた文化があったはずです。

 

それは「加茂喜三」先生の著書に書かれていますように、海にも残されている巨石を見れば南の島から入った海族がいて、関東あたりから入ってきた人や、伊勢周辺から入った文明との多民族融合文明があった可能性があります。

 

愛鷹山文明は縄文初期、石器時代かもしれません。

とすれば東北にある遺跡(三内丸山遺跡、大湯環状列石など)の人たちとのつながりがあったかもしれません。

 

熱海の海底に沈んでいる「海底遺跡」も沖縄の与那国島の海底遺跡ととてもよく似ています。

 

南の島から渡って来た海族と、北海道から東北へ南下して来た山族との融合が縄文時代初期のような気がしています。

 

その時代に通じる「音」があるかもしれない。。。

 

それは海底にも通じる「音」なのだと信じています。

 

その音を通して、現地「愛鷹山」関連の場に行き、実験する試みですチョキ

 

 

【1】7月16日(月)祭日

「古代人との対話」~愛鷹山に眠る遺跡の意味

 9:30~終日


 

午前中は講習。午後、現地へ

場所は講習の中でお知らせします。

静岡県周辺です。

大切なことなので、こういう文章の中では書けません。

 

 

また、もう一つお知らせがあります。

 

【2】7月7日(土)

「古代の音」セミナー

 20:00~21:30

料金 無料

 

この講座は、『ほつまつたゑ』の「十種なる振る祈詞」の正しい発音と、5月に行った講師「白龍」さんのセミナーをわかりやすく解説した講座です。

 

 

 

ここまで来るまでに何十年かかったのか・・・

色々な学者や研究者さんたちと出会い、本を読ませていただいたり、現地へ調査へいったり、聖地へ命がけで入ったりもしました。

 

まずは天国にいる恩師へ感謝の思いを届けます。

そして今もこんな失敗だらけの人生だった私に、信頼を寄せてついてきてくれている仲間、そのご家族の方たちに、本当にありがとう!励ましてくれたり、叱ってくれたり、一緒に喜んでくれたり、共に泣いてくれたりしてくれています。感謝しきれません。

 

そして私を生んで育ててくれた両親にも感謝します。

 

最後に、私自身の命へ。

 

ありがとう!

いままで肉体を酷使してきてしまってごめんね。

それでも健康を維持してくれる・・・

魂の故郷にいつもジョイントしてくれている。

 

ありがとう!

ありがとう!

 

今、人間だけが忘れてしまったことがあると思います。

自然の流れに沿いながら、人類の歴史や人としての想念を守り続けている自然界の法則があってこその人類史、文明、国家でなければいけないんだと。。。

 

個人レベルでできることをしていこうと思うので、これからもどうぞよろしくお願いいたしますウシシ

 

 

 

「私はなぜ生まれてきたのだろう。」

 

 

「人はなぜ生まれてくるのだろう。何の目的で苦しみのあるこの世に生まれて来ることを選んだのか?」

 

 

この問いには、今こう答えたい。

 

 

「人は感情のコントロールの実験をするために生まれて来たのだろう。」