家康と天海僧正の仕掛け | ひなさんのブログ

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こんにちは!

今回は日本に仕掛けられている八方位についてお話します。

少し歴史的なお話しをします。

天海僧正と家康のお話しです。

天海↓
「天海僧正」の画像検索結果

家康↓
「家康」の画像検索結果

このお二人が有名ですが、なぜかその元には触れていないので、ここはひとつ、家康さんの供養にもなるので進めていきます。

静岡県に深い縁がある江戸幕府を開いた徳川家康はある法則を守り、ついに戦乱の世を鎮め、天下を治めた人です。

※ちなみに、次回の朝日TVカルチャーの「算命術」金曜クラスでは、徳川家康を読み解きます!(ユリウス暦を今のグリゴリオ暦に直し、ユリウス暦当時の春分を計算して求めます。)
数奇な運命の持ち主の家康公。。。算命術ではどう出るか?楽しみです~


家康は幼少の頃から艱難辛苦を味わいながら56歳の時に天海僧正を得て参謀にしました。
この天海僧正は、最澄の弟子「円仁」が開いたお寺「喜多院」(無量寿寺)の第27世住職となりました。このお寺は関東の天台宗本山です。

円仁↓
「円仁」の画像検索結果

最澄が得られなかった「金剛界曼荼羅」を、弟子の円仁に託します。


難波の末、ようやく唐に入り、聖地「天台山」を目指します。しかし許可が降りるどころか帰国を迫られた円仁。

何回も願い出ても許可が降りず、ついに不法在唐を決意します。つまり隠れて唐に住もうとしたのです。

隠れ生活をした円仁の気持ちはどんなだったのでしょう

そんな時、円仁に救いの手が伸びました。当時天台山で既に留学していた僧「敬文」が、日本から高僧が入国しているらしいという噂を聞きつけ、最澄から聞かされていたあの円仁さまではないかと確信し、天台山から会いに来たのです。

こうして敬文は円仁の世話をしていましたが、苦難は続くものです。また怪しい僧だと思われ、仲間のいる入唐船の場所に連れ戻されます。

しかしまたまた救いの手が・・・

新羅出身の僧から天台山は諦めて「五台山」で修行するように勧める。

実はこれが天台宗の最大のお土産になる。

ここで最澄の後、誰も解決できなかった法華経と密教の違いと重なり合いを見事に解決案を見出しました。

五台山をはじめ、標高3000メートル超の山々を巡礼し、ついに「文殊菩薩」を見たらしい。

そしてまだ金剛界曼荼羅を得ていない大仕事に取り組みます。

円仁は都、長安を目指しました。そして大興善寺の元政和上から灌頂を受け、ついに金剛界大法を得ました。

空海も灌頂を受けた青竜寺で胎蔵界も会得しました。

こうして密教の両曼荼羅を得て、ついに金剛界曼荼羅を長安の絵師に描いてもらった晩、夢枕に最澄が現れて、曼荼羅を手に持ち、涙ながらに喜んでいたので、円仁が最澄に手を合わせ礼拝しようとしましたが、それを制した最澄は、逆に円仁に手を合わせて深々と頭を下げたと言います。

ようやく唐で密教のすべてを得て帰国しようとした円仁に、またもや苦難が待ち受けていました。
帰国を願い出てみましたが、許されなかった円仁は、その間サンスクリット語を習いました。そして時を待ちました。

(それが今回私が知った釈尊の「縁起」の法則なのです。)

円仁は思いました。

(私がこんなにも危険を犯してまでも、自分の中から湧き出る情熱の赴くまま、こうして最後の入唐を果たした、師匠(最澄)が叶えられなかった両部(金剛界・胎蔵界)の曼荼羅を得て、北斗妙見である『宿曜経』の日本にまだない経典も手にしたのには必ず理由がある!

これは必ず私は生きてこれらの教えを日本に持って帰るのだ!それが私の希望であり、心の奥から湧き上がる情熱なのだから)

こんな風に帰国できることを確信した円仁だったのでしょう。


当時の唐の政況が不安定で、治安は最悪、唐での政治は廃仏に傾きました。そこで外国の僧は全て殺されてしまうという情勢の中、新羅人の貿易船に密航して、朝鮮半島経由でついに帰国!90日間の長旅でした。

円仁の入唐からずっと書き綴っていた日記があります。

『入唐求法巡礼行記』

という記録書は今では世界的にも大変評価を得ています。

私は空海の真言宗を学んでいますが、最澄の志しにもその弟子達の活躍と情熱に非常に心を打たれます。

特に円仁が『宿曜経』や金剛界曼荼羅を天台宗にもたらしたことで比叡山が後の日本の天文学や暦に発展し得たのです。

円仁は唐へ『宿曜経』を求めに行った最後の遣唐使です。

円仁が天文の規則をもたらしたと言っても良いでしょう。
当時の日本の暦では、日蝕の日の計算が合わない事態が生じていました。

『宿曜経』には星の運行と月日と曜日の吉凶で天変地異を予測し、国を安定させる術が書かれています。

また、それらを後々研究して風水術、算命学に発展し、それらを利用したのが徳川家康でした。家康の知識は、円仁の開いたお寺「喜多院」(無量寿寺)に入った天海僧正からのものです。

そして日光東照宮や久能山東照宮を建てた理由はここに見出せます。

八方位の力はそれぞれ役割があります。それを統括するのが文殊菩薩であり、その文殊菩薩が語ったとされる『宿曜経』は、正式名、『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』といいます。

まさに円仁が五台山で見た文殊菩薩なのです。

私の推測ですが、空海は『大日経』を求めに唐へ入った。これは天の法則。
最澄は後世の人々のための基盤造りの先駆者。その名高き高僧の位を使い、日本の科学の学校、比叡山を開いた。(仏教のみならず、天文学や数学の分野でもある)


その後、最澄の弟子たちが素晴らしい活躍をした。その中でも「円仁」のもたらした『宿曜経』は、空海が初めて請来した『宿曜経』には欠けていた「方程式」のようなものが書かれていたのではないかと思います。

空海だけでは密教は広まらなかった。最澄と空海が陰陽の関係でセットだったのでしょう。
直感派の空海と学問派の最澄。

左 最澄            右 空海
「最澄」の画像検索結果

日本の密教はこうして残されたのだと思います。

空海は最澄と縁を切ったと言われていますが、調べれば調べるほど、お互いにやるべき役割分担を淡々とこなしたのがわかります。後に互いの宗派同士で勝手なことを言い合いますが、二人には密教を日本に残さなければならない重要な役割があったことを知っていたように思います。

だから『宿曜経』という経を、初めは空海が、その不完全な部分を最澄の弟子、円仁などの弟子たちが持ち帰ったのです。
『宿曜経』は文殊菩薩が語ったという伝説の架空の経典ではなく、より具体的な天地の法則だったのではないかと思います。それも北を中心とした方位の法則です。

『宿曜経』と言えば後に正確な暦を作るのに読み解く必要になった経文でもありますが、暦と言えば「一行禅師」というお坊さんの存在があります。

一行禅師は唐の中期の時代の僧ですが、密教のお坊さんでもあり、天文学第一人者でもありました。一行禅師が計算した「大衍暦」(だいえんれき)は、恐ろしく正確な暦でした。

空海は残念ながら一行禅師の計算したものを持ち帰っていません。
一行禅師と対にいた、唐の密教僧、「不空三蔵」に教えを受けたのが空海でした。

空海は不空三蔵の霊能に帰依したのでした。不空三蔵は唐の天帝に仕えていた高僧でした。

しかし、正確な数学を大成したのは、かの有名な不空三蔵ではなく、地位もなく無名の一行禅師でした。

推測ですが、円仁が一行禅師の数理、数学、天文学を学んで帰ったとしたら・・・

天海上人は円仁の開いたお寺を任された僧です。当然円仁の数学や天文学的な知識は知り得た立場だったでしょう。

天文の分野では、真言密教の中で栄えず、天台密教の中で栄えました。

その代表的なものが妙見信仰でした。北極星を仰ぎ(北辰)、その周りの九つの星の配置通りに地上にも作る。
それが天地一体の構図だったのです。


この北斗妙見法は天台宗で最も盛んになったのです。

これを家康が利用し、今でも神社などの地の動きやすい箇所には抑えをしてあるそうです。

しかし家康の時代からではなく、日本では元々天地の安定(地鎮祭)を行っていた世界で最も古い国なのです。

鬼門、八方位にはそれぞれのエネルギーを噴出させる法則があることを知った天海僧正と家康。

こうして日光東照宮から江戸城のある関東一帯と、久能山東照宮から富士山一帯の静岡県内に妙見曼荼羅なる構図を作ったのでした。

これは古代に見る「とほかみゑひため」という八方位と、その中心「あめみおや」を合わせた九星と同じ配置。

これを紙面上に表したのが「金剛界曼荼羅」の構図です。

この九星位置には主要なる神社が配置されています。
この位置を動かせない富士山を中心に置くとなんと古代の主要な場所と一致します。

家康は富士山で修行していた仙人「藤原角行」と出会っています。対談した石は今でも人穴の奥に残されています。

角行に出会って天下を取るべき宿命を持っていることを聞かされたその後の家康は明らかに何かに守られていました。

熊本の地震から巨大地震に発展し、南海トラフ地震が来るかもしれないとか、都内直下型の地震が来るとか、東海沖に巨大地震が起きて富士山が噴火するなどという噂や予言が飛び交って、世の中を不安にしていますが、未来に不安を描けば本当にそうなってしまいます。

過去にも巨大地震が起きました。しかしその度に人々は乗り越えてきました。
そしてその度に主要な場所にある古代のエネルギーポイントに気持ちをおき、大切にしてきました。

この先の未来は必ず来るのです。地震が悪いことだと認識することは違います。不幸は幸せと紙一重なのだと私の師匠は常に語ってきました。

人は苦しみから喜びを得る、智慧を得るのだと・・・

秀吉は巨大地震の真っただ中にその震源地近くに居て、右往左往し、腰を抜かして立てなかったそうです。それを家臣におんぶされ、救ってもらったとか・・・


家康は晩年になってから運が開きました。家康は途中からそれを知って実行しました。

最近のニュースを見ていると不安を仰ぐことしか伝えません。今後、先が無い暗い日本のような印象を植え付けてしまう伝え方です。

しかし今も昔も全く同じことが繰り返し起きているだけです。良い時も悪い時もあるでしょう。でもその見方は片一方から見れば悪い事でも、違う方から見たら良いことかもしれません。

円仁というお坊さんにしても、空海というお坊さんにしても、家康という将軍にしても、世の中を堂々と渡り歩いた先達者たち。

その方々の共通点はみな悔い無き人生を歩んでいます。

肉体は老いて朽ちても、志しや情熱は自分が消さない限り誰にも消せません。

過去を悔やみ、過去の検証をしたり、念を飛ばしたりせずに、前だけを見て、今起きている事柄を楽しみたいですね。

過去の検証は、未来の夢が叶った時、「ああだからあの時こうなったのか!」
と分かる時まで考えなくていいのではないかという、最近の私流の結論です。

次回は、お釈迦さまの縁起について書こうかと思います。

未来と現在と過去の関係を悟られたお釈迦さま。

未来を叶えるために今起きている事柄がある。それが本当の縁起です。
過去のカルマ取りや因縁などありません!

それは奈良時代の制限だらけの仏教の毒に侵されている仕掛けにはまっています。

お釈迦さまの本当の仏教を書きたいと思います。

もうそろそろ、過去の結果による不安を解消する時代になったと思います。

良きも悪しきもなく、今は在る!

いつも読んで頂いてありがとうございます!