桜可(か)池の由来
阿(あ)る夜法然(ほふねん)上人の庵へ女性来りて我ハ艮嶽(こんがく)の源皇阿闍梨(げんくわうあじやり)より龍善三会會(の)暁(さとり)をま多(た)ん多(た)め桜可(が)池ニ入定して今ハ龍身となれり然るニ惣身の鱗(うろこ)の合ニ数万の虫王(わ)きて日に三度夜尓(に)二度身を苦(くる)しむる事堪(たへ)可(が)多(た)し阿(あ)ハれ桜可(が)池ニ来(きたり)て此苦(くるし)ミをた春(す)けて多(た)へと涙(なみだ)を落して頼(たのみ)ケる上人夢覚(ゆめさめ)て桜可(が)池ニ至り給へハ水中より化龍顕(けりやうあらは)れ上人と答和(たふわ)春(す)上人龍ニ向給ひて称名念仏し給へハふしぎや惣身の鱗(うろこ)落てな免(め)ら可(か)尓(に)なりう連(れ)志(し)け尓(に) 永くみろくの世をま多(た)ん登(と)て又水中にいりし登(と)なり

香蝶楼豊國画
これまた詞書が読み難かった。ほとんどWikipedia頼りです。
御前崎市にある桜ヶ池の伝わる竜神伝説が書かれています。以下もWikipediaより。
平安末期の1169年6月13日、比叡山の皇円阿闍利が、56億7000万年後に現れるという弥勒菩薩に教えを乞うと言い残し、自ら桜ヶ池の底に沈んで竜神(大蛇)となった。
此(この)驛(ゑき)尓(に)下逆(しもさか)の鍛冶(かぢ)あり昔(むかし)福岡宗吉(ふくおかむねよし)といふ名匠(めいかぢ)帝(みかど)の勅命(ちよくめい)を受(うけ)大井川(おほゐがは)の水(みづ)尓(に)和(くわ)し釼一口(けんひとふり)打得(うちゑ)多(た)り帝(みかど)御幸(みゆき)あつて業(わざ)を試み(こころみ)んと新刃(あらみ)を水(みづ)尓(に)飛(ひ)多(た)して急流(きうりう)の上(かみ)より藁一筋(わらひとすち)を流(なが)さしめ其(その)藁(わら)此(この)釼(けん)の影(かげ)を流(ながれ)春(ず)却(かへつ)て水上(みなかみ)へ逆上(さかのぼ)るゆへ帝(みかど)感(かん)じ給ひ名(な)を下逆(しもさか)と勅号(ちよくがう)春(す)其後(そののち)青江某(あをへなにがし)の家(いへ)尓(に)傳(つたへ)青江下逆(あをへしもさか)と呼(よ)ぶ此(この)刀(かたな)一度(ひとたび)紛失(ふんじつ)し福岡(ふくおか)貢(みつぎ)種々(しゆじゆ)辛苦(しんく)して勢州(せいしう)二見浦(ふたみかうら)尓(に)て手(て)がゝりを得(え)て竟(つい)尓(に)刀(かたな)を手(て)丹(に)入(いれ)主家(しゆうか)を興(おこ)春(す)忠臣(ちうしん)稀(まれ)なり古(こ)の因(ちなみ)尓(に)よつてこれを圖(づ)春(す)

一勇齋國芳画
歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)に登場する妖刀青江下坂のことが書かれています。画題も掛川よりも伊勢の二見ヶ浦かと思われます。
昔(むかし)此(この)駅(ゑき)尓(に)何某(なにがし)の浪人(らうにん)妻(つま)妊娠(にんしん)しける夫(をつと)ハ忠義(ちうぎ)の為(ため)尓(に)吾妻(あづま)へ趣(おもむ)く尓(に)其(その)帰(かへり)を待居(まちい)多(た)りしある夜佐夜(よさよ)の中山沓掛松原(くつかけまつはら)尓(に)て盗賊(どうぞく)出(いで)て戀慕(れんぼ)し絶(たへ)ざる尓(に)より斬殺(きりころ)し行衛(ゆくゑ)志(し)連(れ)春(ず)此女日頃(ひごろ)念(ねん)春(ず)る観世音(くわんせおん)僧(そう)と現(げん)じ亡婦(ぼうふ)の懐(ふところ)なる赤子尓(に)飴(あめ)をあたへ養育(やういく)なさしむ夫(おつと)此事を志(し)ら春(ず)夢見(ゆめみ)あしきゆへ急(いそ)ぎ我家(わがや)へ帰(かへ)る道(みち)尓(に)て夜啼石(よなきいし)の者(は)なしを聞(きき)てなほ/\奇異(きい)の思(おも)ひをなし夜(よ)尓(に)かゝり沓掛松原(くつかけまつばら)石の辺(ほと)りを通(とほ)りし尓(に)妻(つま)の亡霊(ぼうれい)あらハれくハしき事を物語(ものがた)り懐(ふところ)の赤子を渡(わた)し夫(それ)より魂魄(こんはく)付(つき)まとひて終(つい)尓(に)敵(かたき)を討(うた)しけり

一勇齋國芳画
金谷宿と日坂宿の間の小夜の中山峠にある夜泣き石の言い伝えが書かれています。