ガリレオくんのブログ

ガリレオくんのブログ

e-とちぎどっとこむ、Yahoo!と続けてきたブログもこちらへ統合しました。

とちぎの那須塩原で市民インターネットラジオ(テレビ?)に参加しています。
月曜夜8時の「げつはち」改め
金曜夜8時の「キンヨウ8(オイト)」をよろしく。
http://radio-aquas.net

綾尓(に)し起(き) 織連(れ)流(る)ミや古(こ)盤(は) 多(た)てぬき尓(に)
ゆき可(か)ふ人も 志(し)けき大橋
 梅喜

三條大橋(さんしやうおほはし)ハ東國(とうごく)より平安城(へいあんじやう)尓(に)至(いた)る候口(こうこう)尓(に)して貴賤(きせん)の行人(こうじん)常(つね)尓(に)多(た)へ春(ず)皇都(くわうと)の者(は)んく王(わ)この橋上(きやうじやう)尓(に)見(み)へ多(た)り四方(よも)の山川(さんせん)名所(めいしよ)旧跡(きうせき)遠近(ゑんきん)尓(に)徒(つ)らなり眺望(てうぼう)尽(つき)ることなし

廣重画

Wikipediaの画像が小さく詞書が良く確認できない。でも、「展望」ではなく「眺望」だと想う。画中の名所の名前も「清水」「八坂塔」あるがすべては確認できない。「大仏」っていつまであったのだろう?調べてみたら1973年(昭和48年)に火災で焼失したとのこと。僕の生まれた後まであったのじゃないっ!?(;゚Д゚)
絵柄としては、最初の日本橋と良い対になっているように感じます。d(へ”の)
これにて「東海道五十三対」完了っ!d(へ”の)
 

大津繪の 筆能(の)者(は)じ免(め)盤(は) 何佛
 者(は)せ越(を)

應需廣重写

土佐又平 又平妻

一勇齋國芳画

画中人物の名前があるのがありがたい。土佐又平で検索するとWikipediaのこちらの解説がヒットする。
『傾城反魂香』(けいせいはんごんこう、契情反魂香とも)は歌舞伎・人形浄瑠璃の演目。三段構成のうち、現在は上の段の「土佐将監閑居の場」、通称「吃又」(どもまた)がよく上演される。
もとは、近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、宝永5年(1708年)に大坂竹本座で初演されたと推定される。享保4年(1719年)大坂嵐三右衛門座で歌舞伎化された。
狩野元信の150回忌を当て込んで書かれた作品で、絵師狩野元信と恋人・銀杏の前の恋愛に、正直な絵師又平(岩佐又兵衛がモデル)の逸話と、名古屋山三と不破伴左衛門との争いから来るお家騒動をないまぜにしたものである。
歌舞伎の初演で三代目嵐三右衛門が又平をつとめて以来、多くの役者によって又平の人間像が練り上げられた。「片岡十二集」の一つである。
さらに、この作品の場面も記載されている。
何をやっても認められない。これも自身の障害のためだと絶望した又平は死を決意する。夫婦涙にくれながら、せめてもこの世の名残に絵姿を描き残さんと、手水鉢を墓碑になぞらえ自画像を描く。「名は石魂にとどまれ」と最後の力を込めて描いた絵姿は、あまりの力の入れように、描き終わっても筆が手から離れないほどであった。水杯を汲もうとお徳が手水鉢に眼をやると、何と自画像が裏側にまで突き抜けているのであった。「かか。ぬ、抜けた!」と驚く又平。お前の執念が奇跡を起こしたのだと感心した将監は、又平の筆力を認め土佐光起の名を与え免許皆伝とし、元信の救出を命じた。

大津(別版)

大津絵の 筆能(の)者(は)しめ盤(は) 何本(ほ)とけ

廣重戯筆

別版があり、詞書は同じ芭蕉の俳句だが一緒に描かれているのは画題の土佐又平と想われます。その一方で詞書に描かれていた大津絵がメインの画題の方へ移っています。これは2枚揃っていると3倍面白いですネ。
大津絵(おおつえ)とは、滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。
大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲(大津絵節)、大津絵節を元に踊る日本舞踊の一種(大津絵踊り)にも、「大津絵」の名がついている。
 

延喜八年(えんぎはちねん)秀郷(ひでさと)勢田(せた)の橋(はし)を過(すぐ)る尓(に)龍(りう)婦女(ふぢよ)と化(け)して三上山(みかみやま)の百足(むかで)を亡(ほろは)し給ハ連(れ)と願(ねが)ふよつて秀郷(ひでさと)かの蚣(むかで)を射(い)るすなハち其(その)恩(おん)として龍宮(りうぐう)へ伴(ともな)ひあまたの宝(たから)をおくる

龍女 田原藤太

一勇齋國芳画

Wikipediaにあった画像は小さくて詞書が読めませんでした。他のサイトで確認させていただきました。「蚣」は僕の使用している漢和辞典に出ていなくて「コウ」と読むのだろうと想い見つけました。以下藤原秀郷についてWikipediaの説明を引用します。
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。藤原北家魚名流。下野大掾・藤原村雄の子。別名は、俵(田原)藤太。
下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し、近代に正二位を追贈された。
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山を八巻きした大百足退治の伝説で有名。滋賀県大津市の瀬田唐橋に銅像がある。
さらに、大蘇芳年が「新形三十六怪撰」にこの場面を描いた「藤原秀郷龍宮城蜈蚣射累(る)の図」が掲載されています。