幸福な結婚生活を送った、ハプスブルグ家フェルディナント1世とアンナ・ヤエロギでしたが、その子供たちの運命をたどってみます。
 
2人の最初の子供であるエリーザベト・フォン・エスターライヒ(1526年~1545年)はポーランド王太子ジグムンドに嫁ぎました。もちろんがっつり政略結婚です。
引っ込み思案で体が弱かったエリーザベト・フォン・エスターライヒ
当時のポーランド王はジグムンドの父ジグムンド1世で彼の長兄はハンガリー王及びボヘミヤ王ウラースロー2世です。
 
1515年ウラースロー2世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は同盟を結び、お互いの子供・孫たちを結婚させました。
それが、エリーザベトの両親フェルディナント1世とマリア・ヤエロギ、ラヨシュ1世とマリアです。
1526年ラヨシュ1世戦死。ボヘミア、ハンガリー王位はハプスブルグ家へ転がり込みました。
 
ポーランドとすれば、ハプスブルグ家に持って行かれたボヘミヤ・ハンガリーを奪いたいし、ハプスブルグ家すれば、ポーランドを手に入れたい。そんな思惑から、カール5世の後押しでエリーザベトがポーランドに嫁ぐことになりました。
英雄だか知らないけど・・・ジグムンドは2世
夫となったジグムンド(のちのジグムンド2世)は名君として歴史に残っている人物ですが、一生を通じて貫たことがありました。
それは、リトアニアの有力貴族ラジヴィウ家の娘バルバラ・ラジヴィウヴナへの愛でした。
当時ヨーロッパ世界の中でも有数の美女と言われていました。
ジグムンドはバルバラとの結婚を強く望んでいましたが、母ボナ・スフォルファをはじめ周りから激しく反対されたため結婚には至らず、のちに彼女は他の人と結婚しましたが、5年後夫が亡くなり未亡人になりました。
 
ジグムンドはエリーザベトと結婚しましたが、バルバラを熱望しました。
その上、義母のボナ・スフォルファは過去の因縁からハプスブルグ家を憎んでいたので、あからさまにエリーザベトを毛嫌いしました。
そんな中で、元来体の弱かったエリーザベトは病に倒れ、1545年18歳で亡くなってしまいます。
 
夫のジグムンドは、エリーザベトの息があるうちに彼女の持参金を手に入れるためにクラクフに向かっていたというのですから、一人寂しく病床を過ごしたのでしょうか。
 
エリーザベトが亡くなるとジグムンドは、未亡人になっていたバルバラと2年後に再婚しました。2年経ってたら、そろそろいいんじゃない・・・。
いえいえ、すぐにでもしたかったようですが、再び反対の嵐が起きてなかかな結婚できなかったようです。
 
自分に嫌悪むき出しにする気の強い姑と、ヨーロッパ世界で有数の美女と言われる女性と結婚したがって夫。内気で引っ込み思案だったというエリーザベトは10代半ばから亡くなる18歳までをじっと耐えるしかなかったのではないでしょうか。
寂しかっただろうと思うと、胸が痛くなります。
 
*画像はお借りしました。ありがとうございました。