神聖ローマ皇帝フェルディナント1世と王妃アンナには4男11女の子供が授かりました。
そのうち長女エリーザベトと五女カタリーナの不幸な結婚についてはコチラから。
末娘ジョバンナ・ダズブルゴの結婚も決して幸せとは言えないものでした。
幼さの残る、ジョヴァンナ
彼女は1565年12月トスカーナ大公フランチェスコ1世に嫁ぎました。1521年以来、フランスとハプスブルグ家は北イタリアの利権をめぐって争っており、メディチ家との縁組は両国で盛んに行われていました。
ジョバンナの姉たちもマントヴァ公やフェラーラ公に嫁いでいます。
 
12月の極寒の中、盛大な結婚式が行われましたが、フランチェスコはジョバンナを「痩せていて陰気でまるで魅力がない。」と決めつけ、はなから無視。
しかもこれまたフィレンツェに来ていたヴェネチアでも有名な美女ビアンカ・カッペロを街で見初め、愛人にしてしまいます。
う~ん、やっぱり妖艶ですね ビアンカ・カッペロ
才色兼備で亜麻色の髪に豊かな体を持つビアンカにフランチェスコは夢中になり、1567年ビアンカのためにパラッツォ(宮殿)を購入し足蹴く通いました。
そして1574年父コジモ1世が死去すると、公然と入り浸るようになります。
フィレンツェに馴染めず、夫からも無視されるジョヴァンナは、自分は神聖ローマ皇帝の娘でありトスカーナ大公妃であるというプライドから対抗意識を燃やし、ますます孤立して行きました。
 
フィレンツェでは孤独な生活でしたが、義父のコジモ1世はジョヴァンナに優しかったそうです。彼女のためにベッキオ宮殿の庭を飾ってくれたりました。
 
その間ジョヴァンナは8人の子供を儲けましたが、マントヴァ公ヴィンチェンツォ2世・ゴンザーカと結婚したエレオノーラ、フランス王アンリ4世と結婚したマリーアを除いてはほとんど夭折しています。
1577年ビアンカを引き離す切り札として男の子フィリッポを出産しました。
そして翌年も妊娠しましたが、ディカル宮殿の階段から落ちたことが原因で翌日男の子を出産、母子ともに亡くなってしまいました。
 
ジョバンナが亡くなった2ケ月後に、フランチェスコとビアンカは結婚しましたが、1587年10月メディチ家の別荘で2人は相次いで急死しています。
絵なんだから、もう少し画きようがあると思いますが・・・。
ジョヴァンナは、夫の行動を改めさせようと、義父コジモ1世や神聖ローマ皇帝に訴えたり、前年に男の子を生んだビアンカに対抗して妊娠を試みたりと、結構気の強いところを見せています。またプライドが高く、周囲に対して傲慢であったという記録もあります。
 
頑張ったんだけどね・・・。
ビアンカが相手では、役者が一枚も二枚も上手だったようです。
フランチェスコ1世亡きあとは、弟のフルディナンド2世が大公を引き継ぎました。女しか生まないと言われたジョバンナの娘マリーアは、アンリ4世との間にルイ13世を儲けフランスは絶対王政最盛期に入っていきます。
 
次はビアンカ・カッペロについてもう少し掘り下げてみたいと思います。
 
 
*画像はお借りしました。ありがとうございました。
 
ポーランド王太子ジグムントは、一番目の妻ハプスブルグ家フェルディナント1世と従妹マリア・ヤギエロの娘エリーザベトと死別しました。エリーザベトの寂しい結婚生活はコチラから。
その2年後ついに思いを果たし、愛しのバルバラ・ラジヴィウヴナを2番目の妻といたしました。バルバラは、当時のヨーロッパ世界における有数の美女と言われ、すらりとしたスタイルに金髪と白い歯の持ち主で、その上数か国語が話せる才媛だったという事です。
 
しかし、この結婚はジグムントがポーランド王に即位する直前に秘密裡に行われたもので、発覚するやいなや、貴族たちが猛反発。その中心は母ボナ・スフォルファと元義父ドイツ王フェルディナンド1世だったようです。
せっかくなので横に並べてみました。バルバラとジグムンド。
なぜここまでバルバラとの結婚が反対されたのか?
カトリック信徒が大多数を占めるポーランド・リトアニアで、バルバラは少数派のカルヴァン派信徒であったこと、そしてこの結婚は政治的には何の効果もない恋愛結婚であったことなどがその理由でした。
母のボナ・スフォルファにとってはその両方を満たす前嫁エリーザベトも気に入らなくて虐めていたのですから、どっちみち気に入らないんでしょうね。
 
ポーランド議会で結婚解消の協議が続く中、それでもジグムンドは1550年バルバラをポーランド王妃として戴冠します。
バルバラはどんな性格をしていたのか気になったのですが、それを表す記述は見つけることが出来ませんでした。特に野心的だったり傲慢だったりしたら、多少のエピソードが残っているだろうと思うので、案外流れに身をまかす普通の人だったのかもしれません。
しかし彼女が王妃になってから、実家のラジヴィウ家はポーランド・リトアニアでの権勢を高め要職についたので、彼女もまた一族のための使命を担っての後押しがあったのでしょう。
 
いずれにしても、バルバラ王妃はその後5か月ほどで亡くなってしまいます。もちろん王は激しく打ちのめされ悲嘆にくれました。
 
しかし、はたと考えると今のところ跡継ぎが生まれていません。これまでバルバラ熱に浮かれていたジグムント2世も危機感を覚え、政治的な必要性からフェルディナンド1世の娘で1番目の妻の妹カタリーナを3番目の妻としました。
カタリーナ・フォン・エスターライヒはフェルディナント1世とアンナ・ヤギエロの5女で、1549年にマントヴァ公フランチェスコ3世と結婚しましたが、4か月後にフランチェスコが亡くなってしまいます。
 
そして4年後、姉の夫であったジグムント2世と結婚いたしました。
ハプスブルグ側もエリーザベトの悲壮な結婚生活を知っていながら、政治的とはいえどうしてまたジグムントと結婚させたのでしょうか?不幸の元凶だったバルバラがいなくなっていたので、今度は大丈夫と思ったのかしら。
 
残念ながら、今度の結婚もカタリーナにとっては不幸な結果になりました。
カタリーナは、1年後妊娠しましたが流産してしまいます。ジグムントはこの結婚で子供を儲けるのは絶望的だとして、結婚を無効にしようと教会に申し立てたりしています。
その理由が、義理の姉妹との結婚が教会法に違反するんじゃない?
って今さら言いますか・・・。
 
この時代に生まれた宿命だとしても、エリーザベトとカタリーナ姉妹に対する扱いはあまりにも酷すぎて、どこかに救いはないのかと思いましたが、本当にないんですよね・・・。
 
結局カタリーナとは離婚できず、愛妾に男子を生ませようとしましたが、宿願果たせず。
1572年カタリーナの死去で再び独身に戻ったジグムントは、その半年後跡継ぎを残さず死去いたしました。
そしてヤギェウォ朝は断絶。
1573年の国王自由選挙において、選出されたのはハプスブルグ家ではなく、フランスのシャルル9世の弟で後のアンリ3世・ヘンリクでした。とさ。
 
エリーザベトもカタリーナも歴史のかなたに沈んでその人生や人となりは誰も知る由がありませんが、名門のお姫さまに生まれて夫婦仲の良かった両親と大勢の兄弟姉妹たちと育った世間知らずの2人は、周りをかき乱すことなく使命を全うしたと思いたいです。
 
またバルバラはその容姿から、今でもポーランド・リトアニアの伝説の美女として、映画や物語で活躍されています。
 
*画像はお借りしました。ありがとうございました。
 
 
 
幸福な結婚生活を送った、ハプスブルグ家フェルディナント1世とアンナ・ヤエロギでしたが、その子供たちの運命をたどってみます。
 
2人の最初の子供であるエリーザベト・フォン・エスターライヒ(1526年~1545年)はポーランド王太子ジグムンドに嫁ぎました。もちろんがっつり政略結婚です。
引っ込み思案で体が弱かったエリーザベト・フォン・エスターライヒ
当時のポーランド王はジグムンドの父ジグムンド1世で彼の長兄はハンガリー王及びボヘミヤ王ウラースロー2世です。
 
1515年ウラースロー2世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は同盟を結び、お互いの子供・孫たちを結婚させました。
それが、エリーザベトの両親フェルディナント1世とマリア・ヤエロギ、ラヨシュ1世とマリアです。
1526年ラヨシュ1世戦死。ボヘミア、ハンガリー王位はハプスブルグ家へ転がり込みました。
 
ポーランドとすれば、ハプスブルグ家に持って行かれたボヘミヤ・ハンガリーを奪いたいし、ハプスブルグ家すれば、ポーランドを手に入れたい。そんな思惑から、カール5世の後押しでエリーザベトがポーランドに嫁ぐことになりました。
英雄だか知らないけど・・・ジグムンドは2世
夫となったジグムンド(のちのジグムンド2世)は名君として歴史に残っている人物ですが、一生を通じて貫たことがありました。
それは、リトアニアの有力貴族ラジヴィウ家の娘バルバラ・ラジヴィウヴナへの愛でした。
当時ヨーロッパ世界の中でも有数の美女と言われていました。
ジグムンドはバルバラとの結婚を強く望んでいましたが、母ボナ・スフォルファをはじめ周りから激しく反対されたため結婚には至らず、のちに彼女は他の人と結婚しましたが、5年後夫が亡くなり未亡人になりました。
 
ジグムンドはエリーザベトと結婚しましたが、バルバラを熱望しました。
その上、義母のボナ・スフォルファは過去の因縁からハプスブルグ家を憎んでいたので、あからさまにエリーザベトを毛嫌いしました。
そんな中で、元来体の弱かったエリーザベトは病に倒れ、1545年18歳で亡くなってしまいます。
 
夫のジグムンドは、エリーザベトの息があるうちに彼女の持参金を手に入れるためにクラクフに向かっていたというのですから、一人寂しく病床を過ごしたのでしょうか。
 
エリーザベトが亡くなるとジグムンドは、未亡人になっていたバルバラと2年後に再婚しました。2年経ってたら、そろそろいいんじゃない・・・。
いえいえ、すぐにでもしたかったようですが、再び反対の嵐が起きてなかかな結婚できなかったようです。
 
自分に嫌悪むき出しにする気の強い姑と、ヨーロッパ世界で有数の美女と言われる女性と結婚したがって夫。内気で引っ込み思案だったというエリーザベトは10代半ばから亡くなる18歳までをじっと耐えるしかなかったのではないでしょうか。
寂しかっただろうと思うと、胸が痛くなります。
 
*画像はお借りしました。ありがとうございました。