昭和25年 (1950年) 6月25日、
朝鮮戦争が勃発。
北緯38度線をはさんで、北朝鮮 (朝鮮民主主義人民共和国) と韓国 (大韓民国) の間で激しい戦闘が繰り広げられた。
南下した北朝鮮軍は一時ソウルを占領、韓国軍を圧倒して南東部の釜山 (プサン) 前面まで迫ったが、
9月になると、韓国軍を支援する国連軍が、ソウルに近い西岸の仁川 (インチョン) に上陸して反撃に転じた。
※仁川上陸作戦で “レッドビーチ”に
強襲上陸する米第5海兵連隊ロペス小隊
アメリカ、イギリスなどから成る国連軍の総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、
これに続き、38度線を越えて北朝鮮東部の元山 (ウォンサン) への上陸作戦を計画した。
仁川と元山から攻め進み、北朝鮮軍を挟撃しようというのだ。
しかし、周辺海域では北朝鮮軍の敷設した多数の機雷 (機械水雷) によって、
国連軍艦船が沈没するなど被害が相次いでいた。
そのため、
元山上陸作戦は、機雷が除去されるまで延期せざるを得なくなった。
※ダグラス・マッカーサー元帥
(革ジャンで双眼鏡を持つ人物)
機雷には、いくつか種類がある。
敷設状態による分類で、
係維機雷 (けいいきらい) は、海底に沈めたアンカーとワイヤーでつながっている海中アドバルーンのような形状で、
一定の水深下にある機雷部分が艦船と接触することで爆発する。(触発式)
沈底機雷は、海底に沈めるタイプの機雷で、目標に直接接触せずとも、海上を通過する艦船が発する音・磁気・水圧を感知して爆発する。(感応式)
効果水深は30〜50mまでとされる。
他にも、アンカーで繋留されることなく海上・海中を浮遊する浮遊機雷があるが、
移動の規則性がないため、敵味方、第三者の区別なく無差別に被害が生ずるおそれがあり、
事実上、国際法で禁止されている。
さらに、
これらの種類の機雷に、またそれぞれバリエーションがある。
国連軍は、上陸作戦の障害になる機雷をすみやかに取り除く必要に迫られたが、
国連軍の対機雷戦部隊が未整備で、掃海能力に限界があった。
そこで目を付けたのが、日本の掃海艇部隊だった。
日本の掃海艇部隊には、
膨大な数の機雷を除去してきたという実績があったのだ。
当時、日本近海には1万2千個以上の機雷が敷設されていた。
これは、太平洋戦争 (大東亜戦争) 中にアメリカ軍が日本の補給線封鎖のためB-29から投下したものや、
日本軍が連合軍艦艇の接近に備えるため敷設したものだった。
戦争が終わってからも、
残っている機雷に触れて沈没したり損傷する船舶が後を断たず、
海路運ばれてくる食糧や復興のための物資が滞る事態となっていた。
※Mk26機雷 (磁気感応式沈底機雷)
を投下するB29爆撃機
旧日本海軍の掃海艇部隊は、終戦によって一時活動を停止していたが、
戦後、航路啓開※注釈1を急ぐアメリカ軍の指示によって、
海軍省軍務局 (残務整理のため11月30日まで存続していた) 掃海部として再開された。
その後、第二復員省、復員庁、運輸省と所管替えを繰り返し、
朝鮮戦争の頃には、新設間もない海上保安庁に所属していた。
日本の掃海艇部隊は、尊い犠牲を出しながらも掃海活動を進め、
海運に必要な水路を啓開していった。
皮肉なことに、
アメリカなどの敷設した機雷を除去して得られた日本の掃海技術を、
アメリカ軍も評価していたのだ。
10月2日、アメリカ極東海軍の参謀副長アーレイ・バーク少将は、
海上保安庁の大久保武雄長官を極東海軍司令部に呼び、朝鮮半島水域の掃海支援を要請した。
だが、大久保長官は、
非軍事組織と定められた海上保安庁の掃海艇を、今まさに戦争が行われている朝鮮半島に送ることに、
「海上保安庁長官は、この決定を下すわけにはいかない。決定できるのは首相だろう」
と答えた。
そして、ただちに吉田茂首相に報告し、指示を仰いだ。
※吉田茂首相 (手前)
(1951年のサンフランシスコ講和
会議にて)
報告を受けた吉田首相は、
すでにアメリカ軍との傭船契約で、日本人船員がアメリカ兵や物資を韓国に輸送しているという事実は承知していたが、
機雷掃海はこの契約外のことであり、実施に消極的だった。
とはいえ、
アメリカなど連合国の占領下という状況にあっては、アメリカ軍の要請には逆らえない。
おりしも、日本の再独立がかかった連合国との講和会議が控えており、
掃海に参加しないことで不評をかって、平和条約締結に悪影響を与えたくない。
また、
新憲法 (日本国憲法) の第九条で禁止された “武力の行使” にあたるとして、
内外の批判を浴びる事態も避けたい。
吉田首相は、
この非常にデリケートな案件を、極秘裏に実行することを決断した。
こうして、高度の政治判断により、
一級運輸事務官で元海軍大佐の田村久三 航路啓開本部長を総指揮官に任命し、
日本特別掃海隊が編成された。
佐世保港や横須賀港で定期パトロールにあたっているものを除き、
出動可能な日本国内の掃海艇が下関に集められた。
これらの中の掃海艇 (MS)20隻、巡視船 (PS) 4隻は、
田村総指揮官が乗る掃海母船※注釈2『ゆうちどり』(MS-62) をフラッグシップとして、
第一次派遣の特別掃海隊を構成した。
海保旗、煙突の二本線マーク、船体番号などが確認できる
特別掃海隊は日章旗の替わりに、
国際信号旗のE旗 (特別任務) を燕尾形にした日本商船管理局 (SCAJAP)※注釈3 の旗を掲げた。
これは、占領期の日本船舶が、領海外での日章旗の掲揚を禁止されていたためであるが、
さらに、船体から海上保安庁のマークを取り外し、船体ナンバーや煙突の識別塗装も塗り消した。
こうして特別掃海隊の掃海艇は、
外見上、日本の海上保安庁の船であることが隠された。
“無国籍の存在しない部隊”=日本特別掃海隊は、アメリカ海軍の掃海戦隊に編入され、
国連軍の上陸作戦の露払い (機雷の掃海) を行うことになったのだった。
元山上陸作戦のDデイ(10月20日) に間に合わせるため、
第一次派遣の掃海部隊は5隊に分けられ、順次朝鮮半島水域に向かった。
各掃海隊は4〜5隻の掃海艇と1〜3隻の巡視船から成っていた。
掃海隊が行う掃海の方法としては、
係維機雷の処理の場合、
掃海艇が曳航する掃海具のカッターで海中のアンカーから機雷を切り離し、
海面に浮かび上がってきたところを、巡視船から小銃や機銃で射撃して爆破処理する。
(掃海イメージ∶触発式係維機雷の例)
これが、通過船舶の磁気や音に感応する沈底機雷の場合は方法が異なり、
艦船を模した磁気や音響シグナルを出す掃海具を曳航し、あたかも艦船が通ったと欺瞞して機雷を自爆させる。
10月7日 正午、第1掃海隊 (山上亀三雄隊長) は、
先陣を切って掃海艇4隻、巡視船1隻の編成で下関を出港した。
ところが、隊の掃海艇2隻が機関故障を起こして他の艇と交替している間に、
翌8日早朝に出港した第2掃海隊に追い抜かれる形になった。
第2掃海隊 (能勢省吾隊長) の掃海艇5隻、巡視船3隻は、田村総指揮官座乗の掃海母船『ゆうちどり』を先頭に、
10日午前8時に予定会合地点の元山港外に到着した。
遅れていた第1掃海隊も、
10日午後5時に仁川湾外の予定会合地点に到着、
アメリカ、イギリス、フランスなど各国艦艇と連絡した後、即日、北朝鮮南西部の海州 (ヘジュ) 沖に移動した。
そして、
第1掃海隊はイギリス海軍と、第2掃海隊はアメリカ海軍と協同して、
※日本掃海艇の掃海の様子
(磁気掃海電線を海中に流している)12日朝、第2掃海隊は元山港前面の永興湾 (ヨンフンマン) の掃海を行うため、
アメリカ海軍第32掃海隊とともに同湾に進入した。
この日、最初に航空機による機雷除去が試みられ、
午前9時より、39機の艦載機が500ポンド爆弾を海中に投下したが、効果は上がらなかった。
爆撃終了後、掃海艇による水路の掃海が開始された。
まず、アメリカ海軍の掃海艇が掃海水域に入り、
日本の第2掃海隊は処分艇として、単縦陣を組んでこれに続いた。
午後12時9分、
先頭の掃海艇『パイレート』(AM-275) が、湾内の薪島 (シンド) の手前で触雷して爆沈した。
この乗組員を救助しようと停船した二番艇『プレッジ』(AM-277) が救命ボートを降ろしていると、
薪島の島影の北朝鮮軍砲台から砲撃を受けた。
掃海艇『プレッジ』と掃海駆逐艦『エンディコット』(DMS-35) は3インチ砲で応戦。
すると、麗島 (ヨド) からも小火器による射撃が開始され、撃ち合いとなった。
この時、『プレッジ』が反転しようとして触雷、これも沈没した。
『エンディコット』と掃海艇『インクレディブル』(AM-249) は、薪島と麗島に対する砲撃を継続しつつ救助活動を続けたが、
その途中、『エンディコット』が機関故障で航行不能となった。
※『エンディコット』の同型艦
(グリーブス級駆逐艦『マコーム』=後の護衛艦『はたかぜ』)
形勢不利と判断した日米掃海隊は、掃海作業を中止して撤退した。
結果として掃海作業は進まず、
アメリカ掃海隊が、掃海艇2隻沈没、駆逐艦1隻放棄、死者13名、負傷者79名の損害を出し、
この日の掃海作業は失敗に終わった。
紛争地域での掃海は、このように機雷自体の危険性に加え、
敵から攻撃される可能性があり、非常に危険をともなう。
10月17日からは、
予定上陸地点海域の西半分をアメリカ掃海隊が、東半分を日本の第2掃海隊が担当することになった。
当日早朝より、第2掃海隊は行動を開始した。
午後3時21分、第2掃海隊が麗島前面を航行中、
最も岸に近かった掃海艇 MS-14が係維機雷に触れた。
MS-14は沈没し、行方不明者1名、重軽傷者18名を出したが、
負傷者を含む乗員22名は、駆けつけたアメリカ軍のLCVP(上陸用舟艇) によって救助された。
この型の日本の掃海艇 (外洋漁船型) は、
機関部がある艇尾側の吃水が深く、ここが触雷することが多かった。
そのため、掃海時には極力遠隔操縦とし、乗員は比較的安全な前甲板に集合するようにしていたが、
この時は、たまたま中谷坂太郎烹炊長が後部の烹炊室に降りており、行方不明になってしまった。
犠牲者が出たことで、
第2掃海隊の各艇長からは、掃海作業を打ち切って帰国すべきだとの意見が出された。
田村総指揮官は、母船『ゆうちどり』で能勢隊長や艇長たちと協議し、
妥協案として、喫水の浅いアメリカ軍のLCVPなど小型艇が先行して海面近くの機雷を掃海した後、
日本の掃海艇が進むという方式で安全性を高めるよう、アメリカ軍側に進言することにした。
翌朝、この提案を持って訪れた田村総指揮官に対し、アメリカ水雷戦隊司令官アラン・E・スミス少将は、
作戦の予定が遅れていて余裕がなく、また貸与できるような小型艇もないとして提案を却下した。
田村総指揮官は、戻って再び艇長たちと協議した結果、
このまま掃海を続行すれば、触雷は必至であるとして全員が掃海作業を拒否した。
これを田村総指揮官から聞いたスミス少将は、
「日本掃海艇3隻は15分以内に出港して内地に帰れ。そうでなければ15分以内に出港して掃海にかかれ」
と返答した。
要するに、“やるのかやらないのか早く態度を示せ” というわけだ。
(15分以内に行動しなければ砲撃すると言ったという説もある)
能勢隊長指揮の第2掃海隊の掃海艇3隻は帰国を決定、
田村総指揮官もこれを許可した。
急速抜錨して元山沖から下関に向かう第2掃海隊の3隻の掃海艇は、
途中、元山に向かう第3掃海隊とすれ違った。
このあと、帰国した第2掃海隊の能勢隊長と3名の艇長は、
極東海軍司令部からの指令で解任される前に辞職した。
なお元山海域では、
18日までに近接水路から海岸に至る係維機雷の掃海はほぼ終了していたが、
同日、韓国海軍の掃海艇が磁気機雷に触れて沈没し、
死者15名、負傷者11名を出した。
新たに磁気機雷の脅威が出現したことで作戦はさらに遅れ、
元山上陸作戦は10月25日に延期となった。※注釈4
※韓国海軍の掃海艇YMS-516触雷の瞬間
10月20日 午前9時、
第2掃海隊と入れ違いに第3掃海隊 (石飛矼隊長) が元山海域に到着し、
残留している母船『ゆうちどり』および第2掃海隊の巡視船と合流した。
第3掃海隊は、これら巡視船 (PS-02・04・08) を合わせて指揮することになった。
現場海域は、新たに磁気機雷の存在が確認されたことから、
第3掃海隊は、元山港内外の磁気掃海を実施するなどして11月26日まで活動を続けた。
(その後11月22日に到着した第二次-第1掃海隊と交代して下関に帰投)
第4掃海隊 (萩原旻四隊長) は下関集結後、佐世保のアメリカ海軍掃海隊指揮官から、
韓国北西部の群山 (クサン) 方面の掃海を命じられ、その命令書を受領した。
10月17日、悪天候の中を出港した第4掃海隊は、
10月19日早朝、群山沖に到着した。
同地で第4掃海隊は、韓国海軍掃海隊に編入され、
韓国海軍の掃海艇 (YMS-513) 艇長の指揮下で掃海を行うことになった。
この韓国海軍の艇長は、掃海の知識がなかったため、
萩原隊長に一切を任せるので、司令部には自分が指揮したことにしてくれと頼んだ。
萩原隊長は快く功績を韓国軍艇長に譲ったが、
この艇長の命令の他、違った作戦命令が、同海域のイギリス海軍や佐世保のアメリカ第3掃海隊司令部、現地の特別掃海隊総指揮官などから出され、
指揮系統が統一されていない現場は大いに混乱した。
これは、急きょ寄せ集めた多国籍の混成部隊ではよくある話で、萩原隊長は、
「全作業を我々に任せてくれたら、我々自身のペースでもっと容易に掃海作業を実施できたと思う」
と報告書で述べている。
10月27日、
第4掃海隊の掃海艇MS-30が座礁して沈没するというアクシデントが起きたが、
幸い死傷者はいなかった。
掃海艇1隻を失った第4掃海隊だったが、
11月3日まで任務を続行し、
群山港に至る航路の係維機雷及び磁気機雷の掃海を行った。
この間、イギリス海軍フリゲート艦『モーカムベイ』艦長が来訪し、
マッカーサー司令部の命令なので、北朝鮮西部の鎮南浦 (チンナムポ) の掃海にあたるよう申し入れてきた。
これに対して萩原隊長は、持っていたアメリカ海軍掃海部隊の命令書を見せ、
「(正規の指揮系統に基づく) 田村総指揮官の命令がなければ動かぬ」
と断った。
イギリス軍の艦長はなおも、
「給料を3倍払うから行ってくれないか」
と頼み込んできたが、萩原隊長は、
「私は国のため働いている。金を稼ぎにきたわけではない」
と突っぱねたという。
※『モーカムベイ』の同型艦
(ベイ級フリゲート艦『ビッグベリーベイ』)
11月4日、群山での任務が終了した第4掃海隊は、機関不調の掃海艇2隻のみを帰国させ、
他の4隻 (MS-10・12・22・57) は、予定されている第2次派遣の掃海部隊に編入し、鎮南浦に移動して掃海を行うことになった。
萩原隊長がその旨を『モーカムベイ』艦長に伝えると艦長は感謝し、
部下の機関科士官を派遣して故障艇の機関を修理してくれた。
第二次特別掃海隊-第2掃海隊 (石野自彊隊長) は、
11月3日に下関を出港して鎮南浦を目指していた。
途中、群山で第4掃海隊 (萩原隊) が残置していった掃海艇4隻 (MS-10・12・22・57) を編入し、
7日午後に鎮南浦に到着した。
同海域では、まずアメリカ海軍の水中処分隊が機雷を捜索拘束し、
次いで、LCVPによる略掃を行い、その後に日本の掃海艇による精密掃海を実施するという手順で掃海作業が進められた。
驚いたことに、
これは、元山で第2掃海隊の能勢隊長が提案して却下されたやり方だった。
その後11月15日、
悪天候や機関故障などで遅れに遅れていた第一次-第5掃海隊 (大賀良平隊長) が、鎮南浦に到着して合流した。
これにより鎮南浦の日本掃海隊は、
朝鮮半島水域における最大の掃海部隊となった。
また同日には、試航船※注釈5『泰昭丸』が到着した。
この船には、野菜類や日本人好みの貯蔵品類が多数積み込まれており、
中でも、現地で不足していて補給を受けられなかった新鮮な野菜は、掃海隊員にとくに喜ばれた。
※試航船『若草丸』(後の『泰昭丸』)
だが同日、元山沖では、
大型曳船LT-636が触雷して沈没。
アメリカ軍に徴用されていた日本人船員27人中22名が死亡した。
朝鮮半島水域が、まだまだ機雷の危険にさらされていることに違いはなかった。
日本特別掃海隊は困難に屈せず、
極寒と波浪に悩まされながらも、 指示された海域で勇敢に掃海を続けた。
12月15日、アメリカ極東海軍から、
朝鮮半島水域での掃海作業終了の指示が出された。
これにより、日本特別掃海隊の編成は正式に解かれ、各艇はそれぞれの母港へと帰投していった。
日本特別掃海隊は、のべ1200名が
元山、仁川、海州、群山、鎮南浦などの海域で2ヵ月以上にわたって掃海作業にあたり、
300㎞におよぶ水路と600㎞²の泊地を啓開した。
日本特別掃海隊が処分した機雷は29個に過ぎなかったが、国連軍からは大きく評価された。
アメリカ太平洋艦隊の報告書には、
「日本の掃海艇は、作戦の成功に大きく貢献した」と記されている。
アメリカ極東海軍司令官ターナー・ジョイ中将からは、
海上保安庁の大久保長官に対し、特別掃海隊への賛辞が伝えられた。
※特別掃海隊員たちに慰労の言葉を述べる大久保長官
しかしながら、
特別掃海隊の派遣が、日本国憲法第9条に抵触するとの批判が出ることを恐れた日本政府は、
特別掃海隊の存在と派遣を秘匿した。
殉職者である中谷烹炊長の遺族には、
アメリカ軍から約400万円 (現在の金額で約3200万円相当) が支給されたが、
これは、事実上の口止め料だった。
日本国内での掃海作業でも多くの殉職者が出ていたことから、
昭和27年 (1952年) に、香川県琴平町の金刀比羅宮に掃海殉職者顕彰碑が建立された。
碑に刻まれた79名の殉職者名の中には、中谷烹炊長の名前もあったが、
朝鮮半島水域での殉職であることは知らされなかった。
朝鮮戦争での日本特別掃海隊の活動は、
歴史の表舞台から消し去られてしまった。
しかし、
危険を顧みず、人知れず命をかけて掃海作業に従事したプロフェッショナルがいたことを、
心のどこかに留めておきたいと思うのである。
【注釈】
1. 航路啓開とは、戦争や災害で港や航路に沈んだ障害物 (沈船、瓦礫、機雷など) を撤去して、船舶の通行安全を確保する作業のこと。
掃海と同じ意味。
2. MS=掃海艇 (Mine Sweeper)、PS=小型巡視船 (Ptrol Vessel Small)。
『ゆうちどり』(MS-62) は、元は旧日本海軍の飛行機救難船だった船で、
戦後は掃海艇 (MS) と類別されたが掃海能力は持たず、掃海任務の指揮船として用いられていた。
そのため、本稿では “掃海母船” と表記した。
3. 日本商船管理局は、アメリカ極東海軍司令部の管理下にあった。
4. 結局、韓国の地上部隊が10月11日に元山を解放していたので、
元山上陸作戦は戦闘を伴わない管理輸送上陸となった。
5. 試航船とは、掃海作業の完了した水面をまんべんなく航行し、残留機雷がないことを調べるための船舶。
残留機雷があって触雷した場合は、自らの船体でその爆発を受け止める。
触雷の衝撃が大きい場合は沈没することもあり、モルモット船とも呼ばれた。
【おことわり】
本文中に使用しました写真や図表は、
Wikipedia のほか、防衛省、中国新聞、西日本新聞、Weapons School、乗りものニュース、などの関連サイトから引用させていただきました。