この国の精神  ―思考停止社会 序― | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神  ―思考停止社会 序―

秋 隆三

 

 私に残された時間も僅かとなってきた。かつて、若い頃には、時間を感じるということはほとんどなく、無限にあると思っていたが、老いてみると、時間が目の前に迫ってきて、狭い空間に閉じ込められているような感覚に陥る。

 こういった時空感覚に対して、思考には制約がない。一つの「なぜ」が次ぎの「なぜ」を生じさせる。思考を停止したときに「死」がやってくるのだろう。カントの言う、無限の理性の本質はどうもこの辺にあるらしい。

 

<コロナ後遺症>

 コロナ感染症もそろそろ終焉を迎えそうだが、これでコロナウイルスがなくなるわけではない。有史以来、日本人には4種のコロナウイルスが住み着いていることは、かつて説明したが、これに1種が加わり、5種のコロナウイルスが未来永劫住み続けることになった。

 コロナワクチン(mRNA)の後遺症に関する論文が文芸春秋4月号に掲載された。1年半前から、私が体感したことに見事に一致する。参考までに、一部を引用しておく。括弧内は、論文数である。

  「ワクチンによる副作用の上位10疾患は、

   (1)血小板減少(557)、(2)頭痛(455)、(3)心筋炎(344)、

   (4)血小板減少を伴う血栓症(328)、(5)深部静脈血栓症(241)、

   (6)ギラン・バレー症候群(143)、(6)静脈洞血栓症(143)、

   (8)アナフィラキシー(140)、(9)リンパ節腫大(132)、(10)血管炎(129)」

 私の症状は、溶連菌感染症、筋力低下、心房細動である。ギラン・バレー症候群の軽い症状に似ているが、ギラン・バレー症候群と断定するためには、それこそ大変な検査が必要になるので、病院は診断しようとはしない。血栓症も同様である。よほど重篤にならない限り検査はしない。コロナ感染症対策が、果たしてこういった後遺症の発症と比較して適正であったかどうかの評価は難しいが、mRNAワクチンについては今後も研究が必要であろう。

 

<ウクライナ情勢>

 ウクライナ、ロシア双方とも弾切れで膠着状態に入った。「もしトラ」の影響からか、EUが防衛費の増額、武器・弾薬の域内生産の増加を相次いで実施した。当たり前だろう。このEUなるものの、言い換えればヨーロッパ民主主義のいい加減さは驚くべきものである。NATO予算の40%以上を米国が負担しているというから、トランプでなくとも「いい加減にしろ」と言いたくなるのは当然だ。これは、日本に対しても同じである。バブル経済の崩壊以後、金融引き締めと円高で最悪の事態を招き、デフレが30年も続いた要因の多くは、日本の経済学者・財務官僚なるものの似非科学にあることは明らかであるが誰も責任をとろうとはしない。これも民主主義である。それはさておいて、ウクライナ戦争をどのように終わらせるかが問題である。ロシア本土攻撃もこうなってはやむを得ないかもしれない。ロシア国民においても戦争の悲惨さを共有するしか方法がないのかもしれない。国家のリーダーの責任である。

 

<政治思想とは何か?>

 

 コロナパンデミック、第三次世界大戦の危機をはらむウクライナ戦争、パレスチナと、この数年の間に世界を震撼させる出来事が相次いでいる。

 

 戦後生まれの私は、昭和の高度経済成長、バブル後の長期デフレ経済の両方を体験した。さらに、上記の二つ世界事変である。天変地異も、阪神・淡路大地震、東日本大震災と二つの大震災を目にした。70年以上生きるということは、何時の時代でも、この程度の出来事に直面することである。

 さらに、今、中国経済が危うい。これも経済学者が、日本への影響は少ないと言うが、経済は経済システムの価値認識だけで動くわけではない。大きく変化するのは、経済合理性という価値観以外の価値判断・認識によるものである。ケインズも言っている。経済学は科学ではない。倫理学だと。

 

 中国経済の低迷は、不動産不況が直接の原因ではあるが、それは目に見える一部の現象にしか過ぎない。要は、マンション需要を遙かにこえて建設したことだが、それだけではない。例えば、鋼材の生産量は既に世界需要を遙かに超えている。太陽光パネル、リチウム電池、白物家電品、衣料品、素材・部品等々、ほぼ全ての工業製品・部材・日常品が過剰に生産されている。足りないのは食品・農水産物ぐらいだ。経済装置にブレーキがついていないのである。ブレーキとは、精神である。

 

 中国共産主義は、かつてのソ連のような計画経済であった。ところが、かの鄧小平が、改革開放を宣言し、共産主義国家でありながら資本主義経済を導入した。それが、中国の経済成長につながったことは言うまでもない。

 中国の資本主義システムには、シュムペータが言うように、ブレーキ機構が内在されていない。シュムペータは、資本主義システムが自ら変化し、経済を加速させ、新たな経済システムへと転換していくのは、ブレーキ機構があるからだと言う。ブレーキのない自動車を想像してみよ。アクセルペダルを踏むなどは、恐ろしくて到底出来ない。ブレーキ機構が備わっていて、それが正確に作動することを前提条件にアクセルペダルを踏み込み、加速させることが可能なのである。経済を加速させるためには、ブレーキ機構がなくてはならない。

 中国経済は、経済システム内にブレーキ機構が存在しないのである。こういったシステムを資本主義システムと呼べるかと言えば、ノーである。強いて言えば、共産主義体制における半自由経済システムである。民主主義は、資本主義システムを前提条件に成立する。資本主義システムは、あらゆる社会政治システムの前提条件なのである。共産主義を前提条件として資本主義システムが成立することは、論理的にも、感情的にも成立しないことを中国経済は示している。

 

 さて、ここでわからないのが、共産主義、社会主義、民主主義、資本主義と、常識のように報道されるこれらの社会・政治思想の真の意味である。19世紀後半以来、これらの良いこと(主義)については、多くの思想家によって論じられてきた。しかし、真の意味、真の定義が存在するかどうかは甚だ疑問である。真の意味が存在するのであれば、その意味は具体的に何か、存在しないのであればなぜ存在しないのか。

 19世紀欧米の大衆社会において、これらの主義が当然の如く大衆によって叫ばれ、知識人は煽るように○○主義、シュギ、しゅぎと唱えてきたが、果たしてどこまでこれらの思想の真実を伝えられていたかは、いくつかの文献をあたってみても見当たらない。

 

 社会主義、民主主義、法治主義、資本主義、自由主義等々は、人間個人の問題ではない。もちろん、人の生においてこういった思想とその制約は様々に関連する。人の生の制約として関連するものは、国家経営、つまり政治でありその思想は政治思想そのものである。

 民主主義は、すべての先進国が民主主義だと言われているが本当なのか? 民主主義の具体とは一体何なのかは誰もわからないのではないか? 資本主義はどうなのだ。1991年のソ連崩壊をもって社会主義が失敗し、資本主義が勝ったと言うが、本当なのか?

 マルクスは、資本主義は自己崩壊を起こし、社会主義へ移行すると予言した。逆の現象が真であったのか?

 

 資本主義とは一体何者なのか?

 

 21世紀に入って金融資本主義が世界の悪のように言われ、資本主義経済システムが生み出す格差社会が問題となり、金融資本が世界を支配すると言う。

 

 最近、トランプが盛んに演説の中でディープステートと叫んでいるが、某衛星放送の報道番組が、このディープステートを取り上げた。この放送では、ディープステートは陰謀論であることを前提として報道していた。日本の報道番組もここまで落ちたかと呆気にとられた。ディープステートなるものの存在は確かに疑わしい。Qアノンなどと同じように、でっち上げ、嘘、フェークまみれかもしれない。ネット社会の中で、出ては消える噂話といえばそうかもしれない。報道の姿勢として、仮にも前米国大統領、現最有力大統領候補が発した言葉であるからには、陰謀論であるか否かは別としても、ディープステートなるものが生まれた背景、実体の存在についての疑義についての考究がなくてはならない。さらに言えば、政治思想における陰謀論的推論は、何もディープステートに限ったことではない。第二次世界大戦前夜のドイツ・ヒットラーの演説においても同様の手法はあった。日本においても、臥薪嘗胆、五族協和、八紘一宇等々、陰謀論といえなくはない用語は新聞紙上に踊っていた。最近では、プーチンのナチズムや、米国におけるパレスチナ擁護派における反ユダヤ主義等であろう。

 

<思考停止社会>

 

 スマホ社会だ。わからないことがあればネットで検索すればたちどころにわかる。さらにAIの登場である。ネットがあれば、この世の中でわからないことは何もないという錯覚に襲われた。

 話は変わるが、以前、マイクル・クライトンの「自由にものがいえない社会」について論じた。1992年の地球温暖化問題以後、世界の民主主義国家では、温暖化について自由にものが言えない「恐怖の時代」を迎えた。自由にものが言えない社会は、個人の思考を停止させ、社会全体が思考停止社会へと向かう。SDGsなどは、その典型的な例である。

 

 日本では、バブル経済の崩壊と地球温暖化問題が同時に起こった。偶然といえば偶然である。世界は、1995年のウインドウズ95の登場でネット社会へと移行し、2007年のApple iphoneの登場以後、本格的ネット社会が始まった。実質的にはこの10年間がネット社会である。あまりにも社会変化のスピードが速すぎる。考える暇もなく、社会が変化する。社会全体ではなく、情報社会の変化でしかないのだが。情報社会が変化すれば、人間関係も変化すると人間は錯覚する。

 

 政治思想の真の意味とは何かを考える前に、こういったネット社会という現代を思考停止社会という観点から様相を少し探る必要がある。なぜなら、思考停止した人間は、感情で動くことになるからである。果たして、社会は、感情で動いているのか、それとも知性が働いているのか。

まず、感情とは何かから考究する必要がある。

 

2024/07/14