この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和33年~昭和41年― | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和33年~昭和41年―

秋 隆三

 

<昭和30年代とは>

 

  なぜ、昭和33年から昭和41年までを一つの区切りにしたかと言えば、まず、昭和33年には売春防止法が施行されたことがある。

  売春は、江戸時代にも禁止令が出ているが公娼制度は、取り締まり外地区として存在し、この売春防止法が施行されるまで、公娼制度は存在していた。ちなみに、小笠原諸島では昭和43年まで、沖縄では昭和47年まで公娼制度があった。世界では、売春の合法化が進んでいる。組織的売春は人権問題はあるが、個人が売春をビジネスとするのには問題はないという考え方である。ヨーロッパのピューリタニズム、プロテスタンティズム等の厳格なキリスト教徒ではかつて、夫婦となるのは子供を生むためであり、夫が性欲を満たすためには売春宿に行っても良いという風習も存在したようであるから、売春が社会的に公認されていたのであろう。結果として、梅毒が猛威を振るうのだが。

  売春はさておいて、大衆の倫理観に大きな影響を与えたと考えられる年が昭和33年である。

 

  昭和41年は、戦後20年の一つの区切りと考えたからである。昭和22年生まれの団塊世代が高校を卒業し、就職、大学へと進んだ年である。大量の団塊世代が東京、大阪に集中する。一極集中が本格的に始まった。

 

  戦後20年を経た昭和40年代に入ると、戦後社会、戦後思想とは何か、日本人とは何ものかをテーマに多くの著作が発表されるようになる。昭和46年には、丸山真男の「日本の思想」が出版されるが、これは昭和32年から34年頃に書かれたものである。昭和47年には、会田雄次の「日本人の意識構造」が出版された。これも昭和40年から41年にかけて書かれた論文を編集して出版している。

  会田雄次の「日本人の意識構造」(講談社現代新書)の前半部90%は、ほとんど読む必要はないが、後半176ページ「日本ロマンティシズムの復興」あたりから、会田雄次の本領が発揮される。

 

  会田雄次は、富永健一が戦後20年を、5年毎の4期に分けて論じた四段階区分論を取り上げて、戦後20年を次のように論じている。「昭和20年から25年までの第一期は、アメリカの占領政策そのものも「容共」的であって、日本の思想界は社会主義社会の実現のため確実に歩をはこんでいると自覚された」と言う。会田は、昭和24年の自らの体験、「大学生がたずねてきて、大学の授業で教授から「君達が卒業するときには日本が革命が起こっているだろう」と言われたが先生はどう思うか」と尋ねられたことを挙げている。経済の混乱が、革命が起こるという錯覚を起こさせたと言う。次の第二期は、体制派が自信を取り戻し、極左との闘争の時期にあたり、現実政治に埋没して思想にまでは達しなかったとしている。進歩的知識人という言葉も生まれている。この時代の社会学者、思想家の特徴は、戦前からの論壇人が容共的左派思想やリベラリズム、あるいは体制的ナショナリズムと右往左往し、思想的究明の方法を見付けられずいたことである。

  清水幾太郎、日高六郎、福田恆存、丸山真男、小林秀雄等々、この時代の知識人なるものを挙げるとキリがないほどに多数に上り、それも全て戦前からの知識人と言われる人達である。この時代のかれらの著作を読むと、最終的には思考停止状態で終焉を迎えている。オルテガに言わせれば、自分の中に「思想」を見いだしはするが、考える能力を持たない状態に陥る。意見は言うが、意見を主張するための根拠を見いだしてはいない。こんな思想は、「恋愛詩曲のように言葉に身をつつんだ欲望」だと、オルテガが切って捨てる。これが大衆の「思想」なるものなのである。無常なるものを追求するのであれば、坊主にでもなればよいのだが、それも出来ずにいた。

  話はそれるが、小林秀雄の「本居宣長」という著作があるが、彼は、この著作において何を主張したいのかさっぱり解らない。また、数学者の岡潔との対談集「人間建設」に至っては、双方、まったくかみ合わない。岡潔が、研究心の衝動を情動というのに対し、小林は何の反応も示さない。自然科学の究明心を、小林は自らの情動で理解できないのである。

 

  話を元に戻すとしよう。こういった、右往左往する思想について、会田は、「もともと日本の学問も思想も、自分自身で思考できず、独立できず、たえず先進国の権威に依存しなければならぬという性格を持っていた」と言う。そのとおりである。

  昭和30年代に入ると、これまでの左派の思想が急速に後退する。スターリン批判、東欧圏の反ソ運動が要因であるが、社会主義社会に対して不安を抱き、保身に走る知識人が多く存在したことも事実である。この時期は、朝鮮特需もあり飛躍的に経済成長し、所謂サラリーマンと呼ばれる新たな階層が出現する。やっと、オルテガの言う大衆が日本に出現しはじめたのである。

  会田は、「病的なまでの日本人の戦争反対感覚・・・・アメリカへの従属体制に反対するナショナリズム」が、様々な思想をもつものを一つにまとめたと言う。

  それにしてもだ、この右往左往する知識人や教育者に教えられた若者達の思想というものが、ほとんど瞬間的とも言える時間で喪失する昭和戦後中期というのは、実に不思議な時期である。戦前から続く、日本の学問、思想的究明の浅薄さが、この時期に全て露呈したのである。オルテガが言うように、教養は思想であるが、この時期の若者はその教養さえ教えられなかったとは言えないだろうか。

  現代ではどうだろうか。論文を英語で書くのだそうだ。日本語もろくに書けない研究者が英語で書いてどうするのだ。時代は変わっても、日本の学問業界は、何も変わっていないのではないか。このことは、会田も後段で語っているので、その時にまた論じることにしよう。

  会田は、昭和35年以降の思想について、「日本人が求めつつあるものは、日本人同士の互いに肌のあたたかみを感じるような連帯感であり、共同感覚である。それは日本というものへの誇らかな賛歌であり高らかな希望の歌」だという。日本人が共通に抱く感情であるが、感情だけに浸ってられなかったのもこの時代の事実であり、現実世界は、この時代以後、近代資本主義、自由主義、民主主義と大衆を取り巻く思想は、めまぐるしく変化する。

 

<60年安保と歌謡曲>

 

  昭和35年、日米安保条約を巡り、全学連は、安保阻止のため国会突入の大規模デモを決行する。これに対して、岸政権は、警察では人手が足りず、やくざ・暴力団・右翼に協力を要請した。これが、日本の組織暴力団を生み出すきっかけとなった。自民党と反社会組織との関わりはここから始まると言って良い。バブル経済の崩壊、つまり、昭和末期までこの関係は続くことになる。

  この政党と組織暴力団との関係というものは、日本だけではなく欧米も似たり寄ったりである。最近では、ロシアのプーチンとオリガルヒ、ワグネルとの関係みたいなものである。

 

  安保闘争の前年は、皇太子殿下の結婚があり、開かれた皇室として広く国民に宣伝される。

昭和39年には、東京オリンピックが開催された。東洋の魔女、柔道、体操日本等々、日本の活躍は、否応無しに国民大衆の愛国心・ナショナリズムをかき立てた。

 

  ところで歌謡曲と言えば、東京オリンピックに関しては、テーマソングである東京五輪音頭ぐらいであり、時代の変化を感じさせるような曲は全くと言って良いほど見られない。

占領政策が終わり、社会主義思想の流行に陰りがみえ、工業生産が活発となり、労働者がサラリーマン化し、資本主義・自由主義思想が盛んになるにつれて、大衆の共感を得るような歌謡曲が売れ始める。それも、全ての国民に向けてではなく、例えば「高校三年生」の団塊世代向けの青春歌謡、戦前世代向けの演歌といったように市場が絞られるのである。昭和41年に、マイク眞木による「バラが咲いた」がヒットし、フォークのはしりが登場する。洋楽も全盛である。

 

  とりあえず、私が選んだこの時期の歌謡曲である。

 

<昭和33年~昭和41年の歌謡曲>

(67)おーい中村君(昭和33年)

作詞:矢野 亮 作曲:中野忠晴 歌唱:若原一郎

新婚サラリーマンのハッピーな歌謡曲である。サラリーマン時代の始まりである。

https://www.youtube.com/watch?v=Ysu1HXk9bcE

 

(68)だから言ったじゃないの(昭和33年)

作詞:松井由利夫 作曲:島田逸平、松山恵子

恋病にはめっぽう強くなった女の歌である。

https://www.youtube.com/watch?v=Ce2m476JrsI

 

(69)星は何でも知っている(昭和33年)

歌:平尾昌晃. 作詞:水島哲. 作曲:津々美 洋

後に新しい昭和歌謡の代表的作曲家となる平尾昌晃の歌手デビュー曲である。

昭和35年には「ミヨちゃん」がヒットし合計200万枚を突破した。

https://www.youtube.com/watch?v=EH52VsFaJ60

https://www.youtube.com/watch?v=EH52VsFaJ60

 

(70)無法松の一生(昭和33年)

作詞:吉野夫二郎、作曲・編曲:古賀政男 村田英雄のデビュー曲である。

この年にはヒットせず、昭和37年の「王将」がミリオンセラーとなってこの曲も相乗効果でヒットする。歌謡浪曲のはしりとなる。

https://www.youtube.com/watch?v=qe4fSip2Abc

https://www.youtube.com/watch?v=a3K32Tk8fYo

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=mjhUg_ltPh8

 

(71)泣かないで(昭和33年)

和田弘とマヒナスターズ 作詞:井田誠一、作曲:吉田正

ムード歌謡の始まりである。

https://www.youtube.com/watch?v=075vKtVHAy4

 

(72)あいつ(昭和33年)

旗照夫 作詞:平岡精二、作曲:平岡精二

歌謡曲というよりも、日本版シャンソンといった方がよいが、歌謡曲の新しいタイプが登場する。ちあきなおみ版がすばらしい。

https://www.youtube.com/watch?v=AgIK-_264To

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=GG4zjEFcaTA

 

(73)大利根無情(昭和34年)

作詞:猪又 良 作曲:長津義司歌手:三波春夫

どちらかと言えば、戦前のリバイバル的な歌謡曲である。実は、この時期は、戦前の歌謡曲が爆発的にヒットする。軍歌、演歌等が、戦前世代が歌い始めた。製造業、金融業、土建業等々、企業規模の拡大に伴う日本的経営・組織管理において、戦前の共感が最適であったのである。

https://www.youtube.com/watch?v=AzaLvd4MMQY

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=gn2WwDdTg8k

 

(74)黄色いさくらんぼ(昭和34年)

作詞は星野哲郎、作曲は浜口庫之助 スリー・キャッツ

昭和34年最大のヒット(25万枚)。NHKは、歌詞に使った「ウフン」を卑猥と判断し、放送禁止とした。それにしても、とんでもない曲が出てきたものだ。浜口庫之助は、新しいタイプの歌謡曲を次々と生み出したこれも昭和を代表する作曲家である。

https://www.youtube.com/watch?v=uggdCW52YLU

 

(75)ギターを持った渡り鳥(昭和34年)

作詞:西沢爽/作曲:狛林正一、小林旭

https://www.youtube.com/watch?v=4YODCtSQVlk

 

(76)黒い花びら(昭和34年)

永六輔作詞、中村八大作曲で水原弘が歌って大ヒットとなる。八六コンビの誕生である。

「黄昏のビギン」も同時に創られたが、黄昏のビギンがヒットするのは10年以上経ってからである。

https://www.youtube.com/watch?v=INGcQ3CsVmg

 

(77)古城(昭和34年)

三橋美智也 作詞:高橋掬太郎,作曲:細川潤一

三橋美智也の曲は、この時期に多く発売され全てヒットしている。この曲は、発売年300万枚を突破し、おそらく日本記録ではないだろうか。三橋美智也のレコード販売枚数は、累計で1億600万枚に達したという。

それにしても、こんな曲が何故ヒットしたのか良くわからない。明治末から大正年代の人達に爆発的に受けたのかもしれない。単純に郷愁とは言いがたい。この時期、戦前には確かに存在した何かが失われつつあったのである。

https://www.youtube.com/watch?v=_ky9DxHeb_o

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=7D4ckxeY9X4

 

(78)南国土佐を後にして(昭和34年)

作詞・作曲: 武政英策、ペギー葉山

ご当地ソングのはしりとも言えよう。

https://www.youtube.com/watch?v=1JcGhhPM3YQ

ペギー葉山のヒット曲には下記の曲もこの時期である。

学生時代(昭和39年)

作詞・作曲: 平岡精二(作詞・作曲) ペギー葉山

https://www.youtube.com/watch?v=UEnsPCL9bAY

 

(79)僕は泣いちっち(昭和34年)

守屋浩 作詞:浜口庫之助,作曲:浜口庫之助

浜口庫之助の、これも変わった歌である。守屋浩というのは独特の歌い方をする。

https://www.youtube.com/watch?v=O_8vnblfDMo

 有り難や節(昭和35年)

作詞=浜口庫之助/採譜=森一也/補作・作編曲=浜口庫之助、守谷浩

これは面白い。ふざけているのではないかと思うかもしれないが、浜口は、おそらく世相を笑い飛ばしたのである。

金がなければくよくよします。女にふられりゃ泣きまする。

腹が減ったらおまんま食べて、命つきればあの世行き。

デモはデモでもあのこのデモは、いつもはがいてじれったい

早く一緒になろうと言えば、デモデモデモと言うばかり

 

安保反対デモで世の中が騒がしくなった時期であるが、大衆にとっては、またデモか程度だったのかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=7oZq9SLr96k

 

(80)山の吊橋(昭和34年)

春日八郎、作詞:横井 弘、作曲:吉田矢 健治

https://www.youtube.com/watch?v=nbSuqmATyQc

 

(81)哀愁波止場(昭和35年)

美空ひばり、作詞:石本美由起、作曲:船村徹

演歌に「哀愁」はつきものになる。美空ひばりがうまい。

https://www.youtube.com/watch?v=S0WqvSXazdk

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=gND5TjN9ieM

 

哀愁出船(昭和38年)

作詞:菅野小穂子 作曲:遠藤 実 オリジナル歌手:美空ひばり

美空ひばり版

https://www.youtube.com/watch?v=8RD4sSVZdsc

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=17Ih-PfkGzs

 

ひばりの佐渡情話(昭和37年)

作詞:西沢爽、作曲・編曲:船村徹 美空ひばり歌

美空ひばり版

https://www.youtube.com/watch?v=A1R0vxMHAzA

 

(82)アカシアの雨がやむとき(昭和35年)

作詞 : 水木かおる/作曲 : 藤原秀行 西田佐知子の歌謡曲デビューである。

https://www.youtube.com/watch?v=Mvu9_zDrYBQ

この曲の前にコーヒールンバを歌っている。

井上陽水版

https://www.youtube.com/watch?v=LTbaGdPiN1s

 

(83)潮来笠(昭和35年)

作詞:佐伯孝夫/作・編曲:吉田正 橋幸夫のデビュー曲である。

この年には、ダッコちゃんブームが起きる。何とも不思議な社会現象である。何の変哲もないビニールの人形が爆発的に売れるのだから、世の中というものはわからない。

https://www.youtube.com/watch?v=NGTEOCsd5kg

 

(84)ガラスのジョニー(昭和36年)

作詞:石浜恒夫、作曲・歌:アイ・ジョージ

https://www.youtube.com/watch?v=u0A2E-YnuaQ

 

(85)誰よりも君を愛す(昭和34、35年)

作詞:川内康範、作曲:吉田正 松尾和子・和田弘とマヒナスターズによるムード歌謡。

https://www.youtube.com/watch?v=YkaPTZIkCkA

 

(86)月の法善寺横町(昭和35年)

作詞:十二村哲、作曲:飯田景応、藤島桓夫が歌った。関西弁が登場する歌謡曲はこれが最初ではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=jyVF-DeOD4s

 

(87)上を向いて歩こう(昭和36年)

作詞:永六輔、作曲:中村八大、坂本九が歌い、世界で1300万枚以上売れた。

NHK「夢であいましょう」でテレビ初披露された。玉置浩二版が面白い。

坂本九 版

https://www.youtube.com/watch?v=SPWDhYiHl44

玉置浩二版

https://www.youtube.com/watch?v=yNwj9Yoilik

 

同年、「見上げてごらん夜の星を」もリリース。

作詞:永六輔 、 作曲:いずみたく

島津亜矢版

 https://www.youtube.com/watch?v=7R0y7b2TD28&pp=ygU244Gh44GC44GN44Gq44GK44G_44CA6KaL5LiK44GS44Gm44GU44KJ44KT5aSc44Gu5pif44KS

 

(88)おひまなら来てね(昭和36年)

作詞:枯野迅一郎、 作曲:遠藤実、五月みどりが歌ってヒットした。この時期以後、昭和を通して、夜の商売、新宿・銀座がはやり出す。

https://www.youtube.com/watch?v=WO6RLTTvoTc

 

(89)川は流れる(昭和36年)

作詞:横井弘、作曲・編曲:桜田誠一、仲宗根美樹が歌いヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=3O5zNfaC7kI

 

(90)北上夜曲(昭和36年)

作詞:菊池規、作曲:安藤睦夫

ダークダックス、多摩幸子&和田弘とマヒナスターズ、菅原都々子の競作。

リバイバルブームに火をつけた。前述のようにこの時期から戦前の歌がはやりだし、旧制高校寮歌等が歌われた。歌声喫茶でもはやった。

https://www.youtube.com/watch?v=3120-ipPwLU

 

惜別の歌

作詞:島崎藤村,作曲:藤江英輔、中央大学学生歌

小林旭版

https://www.youtube.com/watch?v=Cw0Gpv_kgWY

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=7MC3n4hh_J4

 

(91)刃傷松の廊下(昭和36年)

作詞:藤間哲郎、作曲:桜田誠一、浪曲師の真山一郎が歌ってヒットした。歌謡浪曲のはしりである。

真山一郎版

https://www.youtube.com/watch?v=a5nJ5NIrNMw

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=Sl-3QoiZVk8

 

 歌謡浪曲は、三波春夫が昭和39年から忠臣蔵を題材に爆発的なヒットとなる。

 

(92)スーダラ節(昭和36年)

作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶、ハナ肇とクレージーキャッツが歌い大ヒット。昭和のサラリーマン世相を表現した。

https://www.youtube.com/watch?v=Y-_AKuZefSM

 

(93)寒い朝(昭和37年)

作詞:佐伯孝夫、作曲・編曲:吉田正 吉永小百合のデビュー曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=ezQUhHyFdps

翌年には、「いつでも夢を(昭和37年)」がリリースされる。

作詞:佐伯孝夫、作曲・編曲:吉田正 吉永小百合、橋幸夫の歌

https://www.youtube.com/watch?v=0jknQa9Ipws

 

(94)なみだ船(昭和37年)

作詞:星野哲郎、作曲:船村徹 北島三郎の実質デビュー曲である。

北島三郎版

https://www.youtube.com/watch?v=AAFyzw74BrM

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=r0hSdELHtPI

 

ギター仁義(昭和39年)

作詞:嵯峨哲平,作曲:遠藤実 

北島三郎版

https://www.youtube.com/watch?v=wGfuDpmEuN8

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=huOYJ6mnvC0

 

函館の女(昭和40年)・・・・ご当地ソングの代表的作品。

作詞:星野哲郎,作曲:島津伸男

https://www.youtube.com/watch?v=-9zU8Rk6f_g

 

(95)美しい十代(昭和38年)

作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正 三田明

御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)につづく歌手の登場である。

https://www.youtube.com/watch?v=TGZBCg7wMRg

 

(96)高校三年生(昭和38年)

作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実、舟木一夫が歌い、高校生に市場を絞って累計230万枚を売る大ヒットとなる。この時期になると、歌謡曲のマーケット指向が顕著になる。

https://www.youtube.com/watch?v=JMhxfAurkKc

 

(97)ああ上野駅(昭和39年)

作詞:関口義明、作曲:荒井英一、井沢八郎が歌ってヒットする。集団就職が始まって10年程度が経過し、東京で自立できる基盤を築いた人には郷愁を誘う一曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=fEFMJ__kXtk

 

(98)あんこ椿は恋の花(昭和39年)

作詞:星野哲郎、作曲・編曲:市川昭介、都はるみの初ヒットであり、演歌歌手に新たな旗手の登場である。

https://www.youtube.com/watch?v=LjHt4siM6Wk

 

涙の連絡船(昭和40年) 

作詞:関沢新一、作曲:市川昭介

都はるみ&島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=y-ZBxsHiNrE

 

(99)幸せなら手をたたこう(昭和39年)

作詞は早稲田大学人間科学部名誉教授の木村利人。坂本九が歌ったが、世界で愛唱されている。

 

(100)涙くんさようなら(昭和40年)

作詞・作曲:浜口庫之助 坂本九が歌った。

NHK「夢であいましょう」で放送された。

ちなみ「夢であいましょう」から生まれたヒット曲は以下のとおり。

上をむいて歩こう(昭和36年)

遠くへ行きたい(昭和37年 ジェリー藤尾)

こんにちは赤ちゃん(昭和38年 梓みちよ)

帰ろかな(昭和39年 北島三郎)

 

(101)夜明けのうた(昭和39年)

作詞:岩谷時子、作曲・編曲:いずみたく 岸洋子でヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=MbT2_QH0db0

 

 越路吹雪 昭和40年から連続コンサート  シャンソンブーム

 

(102)網走番外地(昭和40年)

作詞:タカオ・カンペ、作曲:山田栄一、高倉健が歌った。

昭和40年から47年まで20作に及ぶ網走番外地シリーズの第1作の主題歌である。ギャング物、任侠物がはやりだす。昭和35年の安保闘争以来、表に出始めた暴力団組織との関係もあるだろう。急速な経済成長に伴い生ずる社会現象の一つである。

https://www.youtube.com/watch?v=WnBnp7DGVf4

 

(103)知りたくないの(昭和40年)

なかにし礼:作詞、ドン・ロバートソン:作曲、菅原洋一のヒット曲である。

菅原洋一版

https://www.youtube.com/watch?v=jAIbN28ul18

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=zszIs_IhbFU

 

(104)「ヨイトマケの唄」(ヨイトマケのうた)(昭和41年)

美輪明宏が自ら作詞・作曲して歌いヒットした。

 

(105)お嫁においで(昭和41年)

作詞:岩谷時子、作曲:弾厚作、加山雄三の登場であり、大ヒットとなる。これ以外にも、このコンビは、同年に「君といつまでも」、「旅人よ」と続いてヒット作を連発する。

https://www.youtube.com/watch?v=ooPAyvG5HIg

 

(106)悲しい酒(昭和41年)

作詞:石本美由起,作曲:古賀政男、美空ひばりの持ち歌となる。

https://www.youtube.com/watch?v=zi1yedKi3FE

 

(107)霧の摩周湖(昭和41年)

作詞:水島哲、作曲:平尾昌晃、布施明のデビュー・ヒット曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=CRtmsUDaiKc

 

(108)バラが咲いた(昭和41年)

作詞・作曲:浜口庫之助、マイク眞木が歌ってヒットする。フォークソングの最初の曲とも言える。

https://www.youtube.com/watch?v=hNHlyGgcpdM

 

(109)若者たち(昭和41年)

作詞:藤田敏雄,作曲:佐藤勝、ザ・ブロードサイド・フォーがTVドラマの主題歌として歌った。若者をターゲットとしたフォークソングのはしりである。

https://www.youtube.com/watch?v=wIVSPtk2hsk

 

(110)ベッドで煙草を吸わないで(昭和41年)

作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく、沢たまき が歌う。沢たまきは、1998年の参議院議員選挙で当選し、国会議員となっている。日本版シャンソンといったところであろう。ちあきなおみ版がすばらしい。

沢たまき版

https://www.youtube.com/watch?v=Iizqrw1BN4w

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=wJEodvkNmWk

 

(111)骨まで愛して(昭和41年)

作詞:川内和子、作曲:文れいじ、城卓矢が歌ってヒットする。何故か、耳に残る旋律であり、歌詞がいい。経済成長の真っ只中で、「なんにもいらない、ほしくない、あなたがあれば幸せよ、私の願いはただ一つ、骨まで愛して」という女が果たしていただろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=mYyl3vdQG30

沢田研二・吉田拓郎のデュエット版が素晴らしい。

https://www.youtube.com/watch?v=LTlAYn479a8&pp=ygUf6aqo44G-44Gn5oSb44GX44GmIOeOiee9rua1qeS6jA%3D%3D

 

 

<歌謡曲の爆発>

 

  まさに、この時代から日本歌謡は爆発的に増加する。特に昭和40年代に入ると加速度的に増加するのである。岡本太郎は、「芸術は爆発だ」といって、大阪万博の太陽の塔を作成するが、爆発したのは太郎の芸術だけではなかった。大衆そのものが爆発していたのである。

 

  映画もシリーズ物が爆発的にヒットする。まず、社長シリーズである。昭和31年から45年まで森繁久弥、小林桂樹、加東大介、三木のり平、フランキー堺等で33作が作られた。サラリーマン社会を喜劇で表したものであるが、元々は源氏鶏太作の作品であった。この映画では、接待・宴会が必ず登場する。日本の企業慣習を表現した。さらに、森繁久弥に伴淳三郎を加えて、「駅前シリーズ」も登場し、24作も同時期に作成される。

  昭和36年から46年まで続く加山雄三主演の「若大将シリーズ」は24作、昭和37年から46年までの「クレージー映画」(クレージーキャッツ)は関連作品も含め34作になる。

 

  テレビが全国に広まったが、まだビデオデッキは発売されていず、昭和51年に日本ビクターが初めて発売した。録画テレビ放送も国産テープが発売されたのが昭和39年であり高価であることからこの時期ドラマを録画編集することは実質困難であった。VTRで制作されたテレビドラマが本格化するのは、昭和30年代後半以後である。

 

  ここで紹介した日本歌謡には、シャンソン、ジャズ、カントリー・ミュージック、等は含まれていない。カントリー・ミュージックの代表的歌手は、小坂一也であろう。昭和27年頃から活動を開始するが、米軍キャンプ等を中心に活動したのが始まりである。

  特に、シャンソンは昭和40年頃からヒットし始める。世界でもフランスを除いてシャンソンがこれほど流行した国は日本ぐらいではないだろうか。

  翻訳家・作詞家の岩谷時子と越路吹雪のコンビによるシャンソンは、一世を風靡した。昭和28年から活動を開始するが、本格的に流行に火をつけたのは、昭和40年からの日生劇場リサイタル以後であろう。

 

  一方、洋楽も大流行となる。ロカビリーのエルヴィス・プレスリーに熱狂し、ザ・ベンチャーズ、ブルージーンズ(寺内タケシ)のテケテゲが昭和41年には大流行となる。

  昭和41年には、ビートルズが来日公演を行っている。日本のグループサウンズの流行は昭和42年以降である。

  フォークソングも、昭和41年頃から流行し始める。昭和35年の安保闘争、昭和37年頃から始まるベトナム戦争等があり、反戦、貧困等の社会問題に焦点を当てた新しいミュージックが米国で流行りはじめ、日本のフォークが誕生することになる。

 

  以上のようにこの時期の歌謡曲の爆発は、何となくこの後に発生する社会情勢を予感させる曲が見られる。

  しかし、大衆がこれらの多様な歌謡曲を望んでいたかどうかは疑わしい。レコード会社が、若者が、歌謡曲を売るために作り出したとも言える。何が売れるかはわからない、しかし、そこには豊かになりつつある膨大な大衆という市場がある。ほとんど制約のない自由で開かれた市場があり、欧米からは新たな楽曲が次々へと輸入されている。

 

  昭和歌謡曲は、この時期を最後に、伝統的歌謡曲とは別の新たな歌謡曲へと変化していくことになる。大衆が自ら作り出したのではない。ごく少数の作詞家・作曲家・歌手、レコード会社が、これでもかと作り出しては市場へ供給した。大衆は、多様な曲から選んだだけである。

 

 

  オルテガは、市場で大衆が「買う」という行為、つまり選択することが何を意味しているかに論究した。大衆は、その生(生きること)の中で常に選択することを余儀なくされているとし、「生きるとは、この世界においてわれわれがかくあらんとする姿を自由に決定するよう、うむをいわさず強制されている自分を自覚する」ことであり、こういった決断は、「一瞬たりとも休むことが許されない」という。昭和歌謡曲の爆発的氾濫は、大衆の選択の領域を極端に拡大した。このことは歌謡曲だけではなく、大衆の生活全般において選択せざるを得ない状況、つまりいつでもどこでも何かしらの決断をしなくてはならない状況にいたったということである。

  戦前、戦中においては、選択・決断の余地はほとんどなかった。政治権力が決めた一本道をすすむだけであった。それに反して、敗戦後の経済復興、工業化により豊かになりつつあった社会環境は、めまぐるしく更新され続けたのである。オルテガは政治権力について、自由主義的デモクラシーにおける大衆人の本質を説いた。しかし、制約のない自由主義的市場においても同様なのである。市場は、明確な未来像を示すことはなく、今よりも少し先の現実のみで動いているのである。オルテガは言う。「大衆人とは生の計画をもたない人間であり、波のまにまに漂う人間である」と。

  戦後教育は、自由主義的デモクラシーというシステムと、近代生活に必要な技術、今を強力に生きる道具しか教えてこなかった。歴史的使命に対する感受性、つまり精神は植え付けられてこなかったのである。昭和41年前後というのは、こういった戦後教育を受けた子供達が成人となる時代であった。

 

  オルテガは、19世紀の革命時代、第一次世界大戦の後、自由主義的デモクラシーと科学技術を獲得した20世紀前半のヨーロッパにおいて、最大の善と最大の悪の両方を所持する大衆というものを究明する必要性を感じていた。

 

  さて、次回は、昭和42年から昭和49年までである。70年安保、ベトナム戦争の反戦運動、高度経済成長、オイルショックとこれも激動の時期である。昭和歌謡曲は、どんな変化を見せたのだろうか。大衆はどんな歌謡曲を選択したのだろうか。

2023/06/24