この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―序― | 秋 隆三のブログ

秋 隆三のブログ

昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―序―

秋 隆三

 

  思想とは、人の思いであり共感である。確固たる思想などはないとも言える。それでも思想は片時も休むことのない社会・時代の中にあって、少し先へと人々を突き動かす。

  思想とは何か? スペインの哲学者オルテガは、著書「大衆の反逆」の中で次のように書いている。「思想とは真理に対する王手である」と。王手にもいろいろある。持ち駒があれば、ある意味、いつでもどこでも王手はかけられる。こういった王手となる持ち駒も、思想と言えなくはない。しかし、一手早く相手を詰ませられなければ、王手と言うには憚れる。

  オルテガは、思想とは教養でもあると言う。大衆にそれほどの教養があるとは思えないから、大衆の思想と言い切るのには勇気がいる。思想とは言えないまでも、精神とならば何かを語ることも出来そうである。

  「この国の精神」に真っ向から挑んだ文献は、「日本精神の研究」など、かつて説明したように3冊あった。いずれも大正時代に三人の血気盛んな青年達によって書かれたものであるが、同時代のスペインでは、情熱に燃えた中年のおじさんが大衆の反逆への思想的挑戦を企てた。

 

<大衆とは?>

  注:ここでは、オルテガの「大衆の反逆」から引用しつつ、昭和の大衆の皮を少し剥いでいる。「大衆の反逆」の詳細については下記をお読み下さい。

  「大衆の反逆」  オルテガ・イ・ガセット著 神吉敬三訳 ちくま学芸文庫

 

  オルテガが「大衆の反逆」を著したのは、オルテガ47歳、1930年の世界恐慌の真っ只中であった。日本精神に挑んだ日本の青年達は、当然オルテガの著書等は知るよしもなかったに違いない。奇しくも、オルテガが「大衆の反逆」を著す20年前(正確には1908年第1巻、1912年第2巻)には、かのシュペングラーが「西洋の没落」を著している。文明の歴史的考究から、ヨーロッパのキリスト教文明は既に衰退期に入り、いずれ没落するというものである。

 オルテガは、第一次世界大戦後の1920年代に突如として出現した群衆=大衆が、完全に社会的権力の座に登ったという事実に直面して、ヨーロッパが最大の危機を迎えたことを直感し、大衆の反逆の様相に迫ろうとした。この場合、反逆や大衆、社会的権力等の言葉に、政治的な意味を与えることを避ける必要がある言っている。つまり、政治の影響というような単純な現象では説明がつかない程に複雑なのである。政治的とは極めて狭い領域を指し、政治が介入する以前の社会環境全般(知的、道徳的、経済的、宗教的、風俗・流行的等一切の集団的慣習)を含むものであるからである。

  こういった状況、状態、つまり様相を分析・整理し、その一つ一つの要因を論究することは、容易ではない。一方で、オルテガは、その様相を指摘することは簡単だと言っている。オルテガは、当時の群衆の様相について、「ホテルは泊まり客で、汽車は旅行者で、道路は歩行者で満ちて」いるとし、様相を示すとすればただこれだけのことだと言う。

  オルテガの示す大衆とは、特定の集団、例えば労働者集団などではなく、「平均人」であり「特別の資質をもっていない人々の総体」を指している。少し厳密に言えば、「善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「全ての人」と同じであると感じ、・・・・・他の人々と同一であると感ずることに喜びを見いだしている」全ての人のことである。それでは、政治との関わりについてはどうなのだろうか。大衆が政治にあき、政治運営を専門家に任せきっていると解釈するのは間違いであり、事実は全く逆であるという。そこら辺の茶飲み話を実社会に強制し、かつ法律を作る支配権さえ持っていると言うのである。これは政治的問題だけではなく、知的分野でも同じだと、オルテガは主張する。さらに、オルテガは、すべての人と同じ考え方をしない者は締め出される危険にさらされ、かつ「すべての人」とは今日、ただ大衆を意味するにすぎなくなったと言う。

 

  振り返って現代を見ると、このオルテガの主張、大衆の実相、残酷な大衆支配なるものが、現実社会であることを実感するのは、私一人であろうか。

 

  話は逸れるが、近くのホテルでお茶を飲んでいると、幾組かの老夫婦が同様にコーヒーを飲んだりアイスクリームを食べているのをよく見る。しかし、少し観察すると、どの夫婦も会話することなくスマホと向き合っているではないか。私は、スマホではなく今もってガラ系の携帯電話であるが、外出する時だけ持って出る。公衆電話がないので何かあったときの用心である。この夫婦達にとって夫婦の会話はもはや必要無く、スマホがあればよいのである。

  温泉につかっていると地元の老人達の会話が耳に入ってくる。しかし、会話している老人達は極めて少なく、その少ない会話を聞いていると、これが激動の昭和を青年として生きた人間の会話かと耳を疑う。ゴルフの成績はどうだった、天気はどうなるか、畑の状態、病気・健康状態程度の話である。どうでもいい会話である。ウクライナの戦争、中国・日本の社会・経済、若者達の行く末、さらにはわが国の古代史の嘘が暴かれている等々、驚愕の時代を迎えていることには全く興味がない。

  少しは社会問題に興味ある老人が、東京から来ていた若者にウクライナ問題はどう思いますかと問いかけているのを聞いた。すると若者は、「僕はそういう問題はちょっと」と言って、そこそこにお湯から出て行ってしまった。

  現代日本の大衆は、もはや茶飲み話を実社会に強制するエネルギーさえ失ったのかもしれない。

 

<戦後昭和時代とは>

 

  昭和20年8月、終戦となった。長い戦争が終わった。よくもこれだけの戦争をしたものだと思うと同時に、よくもこれだけ耐えたものだと思わざるを得ない。ウクライナの戦況を目にするが、首都キーウへの空爆はあるものの、ほとんど日常の風景である。第二次世界大戦の東京やドイツベルリンの映像を見ると、もはや焼け野原と化している。

  昭和時代は、戦前の20年と戦後の43年の63年間であるが、ここでは戦後昭和時代を対象にすることにした。戦後昭和は、まずGHQの占領体制から始まる。占領期は、昭和20年(1945年)9月2日の降伏文書調印から昭和27年4月28日の平和条約の発効までの僅か6年8ヶ月の期間であるが、この時代に作られた日本国憲法、民主主義、政治制度、農業制度、金融経済システム、安全保障制度等の国家の枠組みは、憲法を除いて時代とともに変化はしたが、考え方は現代にそのまま受け継がれている。

  さらに重要なことは、戦前から戦後にかけて占領体制においても戦前の社会資本によって戦後体制が再構築されたことである。国、都道府県、市町村という行政機構とその組織・人、大学等の教育組織・人、一度は解散された財閥が再構築された経済界という資本家組織・人等である。軍隊を除く行政組織のエリート層はほとんど全てが、そのまま戦後体制に持ち込まれた。これが、所謂、少数の選ばれた人々と言える国民層であるかもしれない。その他全ての国民階層が大衆へと劇的に変化した。華族、士族の廃止、地主・小作人の廃止、婦人参政権・普通選挙等々であり、群衆の充満、大衆の出現である。この突然の大衆の出現は、現代に至るまで一つの社会危機の要因でもあると考えられるのである。

  占領体制が終焉し、朝鮮戦争の勃発は戦後復興の絶好の好機となった。神武景気の到来である、最盛期は昭和29年(1954年)12月から昭和32年(1957年)6月までの2年6ヶ月を指しているらしい。言論統制が解かれ、報道・表現が自由となり、その影響は、文化・芸術を含む大衆のあらゆる分野に及んだ。

  この後も、岩戸景気(昭和33年―1958年―7月から昭和36年―1961年―12月)、いざなぎ景気(昭和40年―1965年―10月から昭和45年―1970年―7月)と、オイルショックの不況までほとんど不況らしきものはなく好景気が続き高度経済成長を成し遂げ、昭和の終焉ともいうべきバブル経済へと突入していくことになる。

  世界もまた、昭和の終りとともに冷戦時代に幕を閉じることになる。世界を見ると、冷戦の終焉をもって世界の戦後は終わったといってもいいだろう。

  日本だけではなく、世界が激動の戦後にあったのであるが、「大衆は、その変化を激動とは受け止めず、ひたすら変化を吸収しあるいは変化を積極的に求め、激動を心地よく受け止めていた」と言っても過言ではないかもしれない。

 

<なぜ戦後昭和歌謡なのか>

 

  現代社会をどのように捉えるかには、様々なアプローチがあろう。例えば少子化社会、デフレ社会といった社会現象を歴史的要因から探る等である。しかし、歴史は必然である。現代の社会現象は、現代の大衆の精神によって生み出されている。過去の社会現象は、過去の大衆の社会精神が生み出したものである。

  戦後に突然出現した大衆と変化の遅い少数の人々で構成された大衆社会という構造は、現代でも変わらない。オルテガが言う、大衆の生そのものである。ここで言う生とは、人々の営みであり、生きている社会のことである。大衆の様相は、群衆の充満状況で十分説明可能である。しかし、「大衆の精神」となると、その様相から探ることは難しい。

  「大衆」という言葉は、辞書、Wikipediaによれば、仏教用語が語源らしい。高僧に支配された僧の意味合いで用いられたとある。日本でも、オルテガが用いたとほぼ同時代の大正時代に使われ初め、都市給与生活者のことだったようであるが、確かではない。

  英語では、the general public、the masses、the people、popular(ization)と言うそうであるが、それぞれ全く語源を異にするので、ニュアンスはそれぞれ違い、用いる場合には概念が異なるはずである。日本語になると、これらの概念の区別が付かなくなる。日本語の抽象性というのは概念表現に実に曖昧である。そのため、欧米の哲学的表現が難しくなる。つまり、欧米語では一語で足りる部分を長々と解説することになり、種々の哲学書の翻訳版の難解性となっている要因である。

  いずれにしても、オルテガが定義した「大衆」である。大衆がつく言葉は沢山ある。大衆酒場、大衆映画、大衆文化、大衆文学、大衆食堂等々。これらのイメージの大衆が、所謂「大衆」である。

 

  私の高校時代、受験勉強をそっちのけに日本文学全集、世界文学全集を読破した。しかし、これらの全集に載っていた日本文学に戦後作家の文学はなかったと記憶している。つまり、戦後の純文学で知られているのは何だったのか、読んだのか、全く記憶にないのである。知っているのは、大江健三郎、村上春樹、「安曇野の白い庭」の丸山健二ぐらいなものだ。

  大学を出てから読んだのは、推理小説の松本清張、横溝正史、吉村昭、時代小説の司馬遼太郎、柴田錬三郎、池波正太郎、藤沢周平といったところだろう。どちらかと言えば大衆小説作家である。まさに文学の大衆化なのである。

 

  音楽はどうかと言えば、そもそもわが国独自のクラシックなどはないので、まさに歌謡曲がわが国の音楽であるということになる。この歌謡曲という言葉は、Wikipediaによれば明治時代に欧米から入ってきた芸術歌曲を歌謡曲と言ったらしい。昭和初期のレコードには「歌謡曲」という表記が見られるので、この頃からであろう。一方では流行歌という呼び名もある。歌謡曲には、詩を伴うことから、旋律が流行するのではなくその詩が時代を反映したものとなり、大衆の共感を伴って流行する。

  歌謡曲こそは、わが国の歴史において、初めて大衆の歌として広く歌われた。戦後大衆は、国歌は歌わなくとも歌謡曲は歌った。膨大な第二、第三の国歌がこの戦後昭和時代に誕生したのである。

  戦後昭和歌謡曲は、昭和30年代に入ると爆発的に流行する。戦後に活動を開始した作曲家がそろい初め、レコードプレーヤーが安価に手に入り、ラジオが普及し、昭和30年代半ばにはテレビの普及も始まったことが要因であるが、まさに昭和歌謡の爆発期である。昭和40年代になるとそれまでの曲調とは異なる、新たな曲調、70年安保を機にフォークが登場することになる。

  図-1は、昭和31年のわが国の人口構成であり、図-2は昭和の終わりである昭和63年の人口構成をグラフ化したものである。

  戦後、昭和20年から昭和40年頃までの昭和歌謡を体現している年代は、恐らく昭和31年前後の生まれが最後ではないだろうかと思われる。この昭和31年以前生まれの総人口は、昭和63年には7千百万人であり、同年の総人口に占める割合は58%である。昭和歌謡にどっぷりと漬かった人口割合は、昭和20年の100%から昭和63年の58%へと徐々に低下していくことになるが、それでも昭和63年には昭和31年以後の生まれた人の幾分かを巻き込むと、多分70%以上の国民は昭和歌謡を聞き、昭和歌謡を歌っていたことになる。昭和の最後まで昭和歌謡は大衆歌謡として生きていたのである。

 

   図-1 昭和31年の人口構成           

図-2 昭和63年の人口構成

 

(政府統計 e-Statより引用作成)

 

 <戦後昭和歌謡の変遷と大衆の精神>

 

  戦後の歌謡曲をどのように眺めていったらよいかである。様相を示すことは簡単である。「あの曲がはやった。こんな曲も現れた」と、ただ列挙すればよい。現代に残っている昭和歌謡は、当時ヒットした曲である。ヒットするということは、売れたということである。戦前のプレイヤーの販売台数はそれほど多くはなく、ラジオの普及率も低かった。戦後の昭和25年頃から、これらの機器は急速に普及し始める。また、NHKラジオの番組内容もがらりと変化する。ラジオドラマの登場である。どんな音楽であれば大衆が聞くか、どんなドラマであれば大衆に受けるかが最大の問題であった。勿論、戦前にもあった。歌謡曲であれば、大利根月夜(昭和14年)、支那の夜(昭和13年)、名月赤城山(昭和14年)、誰か故郷を想わざる(昭和15年)、目ン無い千鳥(昭和15年)等々であり、数々の軍歌である。現代でも歌われているが、戦後にも同じ歌手で再レコードして発売されている。

  戦後のヒット曲の量産は、戦前の比ではない。戦後、抑制からの解放と自由を得た大衆が何を求めているかを探ることは、極めて困難となった。数多くの思考錯誤の中からヒット曲が生まれてくる。つまり、過去の経験から今日的な大衆の欲求を探ることが困難な時代を迎えたのである。まさに、オルテガの言う、「大衆の反逆」の時代を迎えた。それも、オルテガが考察した時代よりも遙かに激しく、遙かに商業的であり、遙かに精神性に乏しく、遙かに変化のスピードは速かった。

  戦後歌謡曲と言っても、恐らく1万曲を超える曲があるに違いない。そのうち、毎年100曲程度がレコーディングされるとしても4千曲を超える。一方で、毎年3曲程度のヒット曲が生まれるとすれば千曲を超える歌謡曲が売れた。平成元年(1989年)版の1001(楽譜集)では、1200曲余りが掲載されているが、そのうち戦後昭和歌謡はおよそ1000曲である。

  まずは、これを基に、時代の区切りを適当に(設定の基準は極めてあいまいである)設定して、戦後昭和の大衆の精神とは何であったかに迫ってみることにする。迫り方は、オルテガの論究の視点を参考にしつつやってみるが、精神であるから、その時代の大衆の心、あるいは大方の人々の情感に迫りながらその精神性を考察することになる。

  これからの展開では、曲名・作詞者・作曲者・歌手を掲載しているが、歌謡曲そのものについてもYouTubeのURLで併記した。歌謡曲を聴きながら読んでいただきたい。

  この文章を書くにあたって随分と歌謡曲を聞き、懐かしさと同時に如何に素晴らしい日本の歌であるか感動し、歌手の技術の高さに感心した。掲載に当たってはオリジナル歌手だけではなくカバーしている歌手版も掲載している。

  次回は、昭和21年から26年までの昭和歌謡である。

                                                       2023/05/05