堕落論2018  恐怖の思想-序- | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

                      堕落論2018  恐怖の思想-序- 
                                                                                                                         秋 隆三
 
「恐怖の思想」
 
 人に限らず、全ての動物にとって「恐怖」は、生と死の境界に位置する唯一の感情である。
 恐怖による人間の支配は、今に始まったことではない。人が人を支配する根本原理は「恐怖」である。「俺に刃向かえば殺す」、「法に背けば死刑だ」、「我が国は原爆を持っている」等々、レベルは違うが、恐怖が最も有効な支配手段であることは疑いようがない。会社でも同じだ。言うことに従わなければ左遷になるし、首になるかもしれない。組織管理と言えば聞こえはいいが、どんな管理手法を用いようと、衣の下には「恐怖」という鎧がある。マネジメントサイエンスの基本原理としての「恐怖」の存在は真理である。
 刑法、民法、商法等々の法理論は「してはならぬ」を原理とする。違反すれば、罰則により処罰される。罰則という恐怖によって国民を規制し、社会秩序を保つ。社会秩序の根本原理も「恐怖」である。
 一方、人間にとって、恐怖は生きるために必要な感覚でもある。現代人の恐怖に対する感度は、昔の人間に比べてかなり低くなったと言われる。恐怖に対する鋭敏性を失った人類は、絶滅の道をひた走ることになるかもしれない。「恐怖」は、人類生存のための原理でもある。
  「恐怖」は、個人の感性において最も鋭敏であり、生存の原理であるがために、政治的、経済的、社会的支配論理の根本原理ともなる。「恐怖の思想」とは、政治的・経済的・社会的人間支配の思想であり、人類生存の根本思想でもある。

                          
現代の恐怖
 
 現代における政策目標の第一は、「安心」、「安全」である。「安心」は、不安の少ない社会であり、「安全」は、危険な目にあうことの少ない社会のことだろう。こんな社会が実現できるかどうか、はなはだ疑問である。自然災害をできるだけ少なくしたいということならばわからぬわけではない。堤防を作り洪水被害を防止し、津波の被害を最小限に抑えようということである。だが、国民全体の漠然とした不安を解消するなどは到底不可能である。例えば、自由、平等、平和、正義等は、よく見られる政治的スローガンであり、哲学的、思想的、歴史的には議論し尽くしている。しかし、安心、安全となると、議論、究明の余地のない単純な概念であり、国家目標とするにはあまりにも幼稚なものとなる。
 日本語では、不安と恐怖は異なるという。不安は、恐怖の対象がはっきりしない漠然としたものであり、恐怖は対象がはっきりしているというのである。キルケゴールの実存哲学の受け売りだろう。英語では、不安も恐怖も同じだ。不安と恐怖は、恐怖感の程度の差でしかない。Fear、Anxious、Worry、Terror等々であるが、このうちTerror(テロ)だけは不安どころではない恐怖である。健康不安と言えば、いつ病気になるかわからない不安であるが、病気に対する恐怖とも表現できる。死に対する不安は「死の恐怖」である。しかし、両者には微妙な違いが感じられる。例えば、健康不安は、病歴があって普段から健康に注意しなければ病気になるのではないかという不安である。人の恐怖感には様々なレベルがある。日本語でも、不安、心配、気がかり、畏敬、恐れ等で表現される言葉がある。恐怖以外の感情と恐怖とが重なりあった複雑な感情を表現するものとなる。しかし、これらの複雑な感覚の第一には恐怖がある。恐怖=死への感覚を核にその他の感覚が複雑に関連するのである。「恐怖の思想」とは、人間の生存に関する恐怖の政治的、経済的、社会的問題に関する考え方である。
 現代社会における「恐怖の思想」として、「地球温暖化」、「民主主義」、「資本主義」、「科学技術」の4つの問題について考えてみよう。
 
地球温暖化の恐怖
 
 まず、最初に「地球温暖化問題」を取り上げる。1997年12月、京都議定書が採択された。地球規模で二酸化炭素排出量削減に取り組むというものである。2000年前後には、二酸化炭素による地球温暖化は本当なのかという議論が巻き起こった。二酸化炭素濃度、地球の平均気温計測、地球シミュレータに対する疑問等、どちらかと言えば科学的・技術的な曖昧さ、不確かさについての問題であったが、それよりも誰にもわからない地球文明の破滅というシナリオを政治的手段とすることに対する強い警戒感でもあった。
 二酸化炭素の排出量は、第二次世界大戦後から急激に増加している。人口増加と科学技術の進歩によるエネルギー消費量の増加が主な要因である。二酸化炭素濃度の急上昇は、地球温暖化の原因となり、地球規模の気候変動によって深刻な被害がもたらされる。そのため、化石燃料の消費量を抑制し、再生可能エネルギーに転換する等の対策を行うというのが地球温暖化対策である。
 二酸化炭素濃度はどこまで上昇するのか。二酸化炭素濃度がどの程度になると人間は死ぬのか。二酸化炭素を固定・吸収する方法はないのか。森林は二酸化炭素の吸収源となりうるのか。等々、二酸化炭素の排出・吸収に関しても様々な疑問がある。
 地球温暖化はどこまで進むのか。小氷期に向かう気候変動とどのように関係しているのか。気候変動はどの程度のものになるのか。海面上昇を止めることはできるのか。ティッピング・ポイントは本当にあるのか。等々、気候変動がどうなるのかさえわからない。
 代替可能エネルギーは、本当に利用されているのか。代替可能エネルギーで現在のエネルギー需要をまかなえるのか。代替可能エネルギーを効率的に利用するためにはどれほどの投資が必要なのだ。自動車を全て電気自動車に転換する、本当にできるのか。等々、エネルギー問題もわからないことばかりだ。
 一体全体、誰もわからない問題にどれほどの税金が投入されているのだ。投資効果はどれだけあがったのだ。来たるべき海面上昇、二酸化炭素濃度上昇に対して、真に取り組むべき対策は、他にあるのではないのか。この20年間の対策はほとんど無意味だったのではないか。等々、COPや我が国の取組についてもわからないことばかりだ。
 二酸化炭素濃度の上昇を疑うのではない。疑うべきは、対策の愚かしさ、愚策についてである。人類生存に関わる恐怖として、様々な角度から迫らなければならない。とりあえず、迫ってみよう。世界の堕落の行き着く先をみるかもしれないのだ。
 
民主主義に潜む恐怖
 
 民主主義の歴史は古く、ギリシャ時代に遡るから約2,400年前である。それ以前の文明に存在したかどうかはよくわかっていない。世界4大文明は、紀元前3000年頃に誕生した。なかでも、メソポタミア文明には、最古の法典であるウル・ナンム法典、ハンムラビ法典がある。およそ紀元前2000年頃のものである。ギリシャ文明における民主制の誕生が紀元前500年頃とすると、法制度が発明されてから民主制が誕生するまでに1500年を要している。ギリシャ文明も300年ほどでローマ文明へとその舞台を移す。ローマ文明は、共和制から皇帝制へと移行しつつ西暦400年~500年頃に西ローマ帝国の滅亡で西ヨーロッパ地域の覇権を失う。西暦400年頃からルネサンス期の1400年頃までの約1000年間のヨーロッパは、ゲルマン民族であるフランク族の定住、北からの民族移動、イスラムの勃興、キリスト教の興隆等々、宗教的教義を規範とする封建制国家へとめまぐるしく変化する。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という起源を同じくする宗教間の熾烈な覇権争いであり、宗教哲学と政治・経済・科学との分離の産みの苦しみと言うことも出来よう。ルネサンス期に入ってどうやら形而上的呪縛から解き放されたが、一方では、宗教的霊性と人間の理性、知性との関係に哲学者が悩み続けることになる。ローマ時代初期、つまり、キリスト教の誕生ともに民主主義は文明から姿を消した。民主主義が再び歴史に登場するのは、1789年のフランス革命であろう。現在、我々が使っている「左派」という言葉は、この時代のフランスで生まれた。議会の左側に革命を主導したジャコバン派が座ったことに由来する。しかし、このジャコバン派の粛清はすさまじく恐怖政治と呼ばれる。19世紀には再び王政が復興するが、18世紀の絶対王権と異なり、制限付ながら民主制となった。議会制の歴史を見ると、イギリスが13世紀には王政の元で議会制を採用しているが、現代の民主主義とは異なる。現代の民主主義に近いのは清教徒革命以後の18世紀にはいってからと考えられる。近代民主主義は、西欧では概ね18世紀半ばに形作られたと考えられ、せいぜい250年の歴史とみてよいだろう。日本では、明治20年の帝国憲法の制定以後であるから130年程度と、西欧の半分の歴史でしかない。
 ギリシャ時代の終焉とともに民主主義は効力を失い、2000年の時を経て再度復活する。この2000年間に帝国制、封建制、王政、君主制等々、どちらかと言えば支配者側に好都合な統治制度の実験が続いた。民主制は、権力層には都合が悪いのである。しかし、250年もああでもないこうでもないと民主制、民主主義を続けてくるとその思想にも、ほころびが見え始めた。最初の民主主義の失敗は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦までの20年間である。第二次世界大戦の終結で一端修復されたかに見えた。我が国では、見よう見まねの戦後民主主義なるものが戦後復興、人口増加を伴う経済成長とともにあたかも真の民主主義であるかのように現在まで継承された。果たしてそうであったか。バブル経済崩壊後の政治、経済、社会を振り返ってみよ。
 現代日本における民主主義とは何かを問わなければならない。「恐怖の思想」の第二弾は、戦後民主主義に潜む恐怖である。
 
資本主義に潜む恐怖
 
 1998年、ソビエト連邦が崩壊し、共産主義、社会主義体制が崩壊した。中国は、1978年に鄧小平により改革開放路線が決定され、社会主義体制下での経済の自由化(価格の自由化)が進められたが、現在の経済成長につながるのは、ソビエト連邦の崩壊以後である。
 資本主義を英語では、Capitalismと言うが、語源はCap=頭である。資本を持っているものがCapとなることを意味する。資本主義の特性を論じたのは、アダム・スミスでありマルクスであった。勿論、彼らだけがこの仕組みがなんであるかを論究していたわけではない。18世紀以後現代にいたるまで、資本及び資本主義の特性については、自由放任、市場ルール、公共経済等々、議論、議論の連続である。今や、アメリカ社会は、国民の僅か1%に大部分の所得が集中する資本主義社会の堕落の極致となった。資本主義は、ルールなしの自由な社会では、放っておけば富める者はますます富み、貧しき者はさらに貧しくなる。経済の歴史がそれを示している。それでは、ルールがあれば貧富の格差は縮まるのだろうか。現代社会には、様々なルールがあるが、それでもアメリカのように貧富の格差は埋まらず、さらに広がっている。19世紀、20世紀初頭の金持ちは、基本的に悪い奴だった。だます、脅す、賄賂を使うは当たり前であり、邪魔な奴は殺してしまう。マフィア、やくざ等々もびっくりであり、政治権力とも密接につながっていた。この伝統は、今もあるかもしれないのだ。資本主義の反対は共産主義である。しかし、共産主義経済がうまくいかないことは、ソビエト連邦の崩壊、中国共産党の経済政策転換が示した。資本主義は、どのようなルール作りをしようと、人間の欲望と堕落をその源泉とする限り、自己崩壊へと転落する恐怖を内在している。「恐怖の思想」の第三弾は、資本主義に潜む恐怖である。
 
科学に潜む恐怖
 
 人工知能=AI、ひも理論、新たな物理学、分子生物学、バイオテクノロジー、宇宙科学等々、新たな科学的発見だと喧伝される。人工知能については、以前、説明したとおりである。21世紀になって、新たな科学的発見なるものが果たしてあったのだろうか。
 それはともかく、近代科学の進歩、技術の発展は、経済的、社会的、環境的、政治的なあらゆる側面においてとてつもない影響を及ぼした。第一次世界大戦以後の戦争は、それまでの戦争ではみられなかった破壊力である。科学・技術の進歩・発展は、それ自体のなかで生じるのか、あるいは、社会や経済の進歩との相互依存性によるものなのか。人間は欲望の動物である。欲望の故に自律を求め美徳を最善のものとした。しかし、科学者に美徳はない。欲望のままに未知なるものに挑む。宗教的戒律から解き放たれた人間にとって科学が自己完結的に進歩することは必然なのである。
 科学の進歩といっても内容が問題である。科学の何が進歩したのかである。社会科学、自然科学を問わず、科学は、まず、様式である。研究者になるために同業者仲間に入るところからその「様式」が始まる。手っ取り早く、どこかの学会の会員になるが、これだけでは駄目で、気の合う仲間を数人作る必要がある。研究方法、論文様式についても文句のない「様式」をマスターしなければならない。研究版の小笠原流とでも言えよう。この「様式」をマスターするにために数年をかけなければならない。研究者の何割かは、「様式」だけのために一生をかけている。次が研究テーマである。他人とは違う、誰もやっていないテーマを選ぶのは当然のことだ。研究テーマは、極めて狭い領域であるから、そのテーマで一つの新たな発見があるとわからない部分がさらに数倍に膨れあがる。こうして、先行研究者の発見によってもたらされた新たなわからないテーマを次の研究者がテーマとする。おわかりのとおり、研究テーマは、ねずみ算式に増加する。それも、重箱の隅どころではない、微細な分野であり、素人では何がこれまでのテーマと異なるのかを見いだすのは容易ではない。ここまで研究テーマが細分化されると研究成果の評価が難しくなる。さあ、そのためには、前述の「様式」が重要となる。研究仲間の評価、研究方法、論文の様式である。科学は、「様式」と微細な研究テーマとの間のキャッチボールに終始することになる。学会はもはや研究成果を論じ合う場ではなく、業界と化している。人類の生存、進歩への貢献とはほど遠い。研究者不足であるとして税金を投入し続ける。さらに悪いことには、重箱の隅どころではない微細な分野の研究者が、社会、経済、政治、環境等の総合的問題について学識経験者なるものとして解決案を提案する。問題の本質的所在さえ考えたことのない者が答えられるわけがない。もっと悪いことは、科学は、「価値」問題を扱わないことである。価値とは、何が良くて何が悪いか、何が一番で何が二番かということだが、科学にとって、序列、優劣は無関係である。
 科学に潜む恐怖とはこういうことである。ねずみ算的に増加する科学分野と、科学と密接に関連する政策、企業のイノベーションには20世紀に常識であった創造的破壊などは期待できそうにもない。際限なく拡大する科学に潜む恐怖なるものを見ることにする。

 恐怖の「恐」という字を漢字源で調べてみた。「恐」の上部は、穴を開けるという意味で、それに「心」を付けて、心の中に穴が開いた状態を意味するという。「怖」は、心が布のように薄いことを意味する。従って、「恐怖」とは、心を突き通して穴があいてうつろになり、ひらひらしたような状態ということになる。いてもたってもいられない不安ということだ。
 我々の生存にとって、今、そこにある恐怖を感じ取ることは、もはや理性的で分析的な能力だけでは困難である。今、そこにある問題とは、現実的な問題だけではなく、少し前の過去と少し先の未来も含めた問題である。遠い未来はわからない。しかし、現実の問題が少し先にも続くとすれば、それはかなり遠い将来にも持ち越されるのである。「恐怖の思想」には、これ以外に例えば、「社会による救済」という「恐怖の思想」もある。これは、最後にみることにしよう。
                                                                2018年6月10日 秋 隆三