堕落論2017 「後は野となれ山となれ」という思想 | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

              堕落論2017 「後は野となれ山となれ」という思想
                                                                                                           秋 隆三
 
  今そこにある現実-戦争、政治、情報社会-について、かなり不真面目で不純な評論家が、個人的経験と僅かばかりの知識と直感に頼って書き綴ってきた。しいて言えば、少国民の叫びである。記載内容の検証は、これをお読みになった方に委ねたい。この内容によって誰かの意見を変えたいとか、誰かに何かを行動させたいという意図のあるものではなく、私の心が思わず叫んだものである。
  
     ところで、今の日本に不満がないかと言えば、ないとは言えないが、それほど切羽詰まった不満があるわけではない。将来の日本に不安はないかと問われれば、今のままでは日本の未来はないと確信するが、正直なところ「後は野となれ山となれ」の心境である。それでは、「あなたは何を生きがいに生きているのか」と問われれば、「別に生きがいなどという大それたものはありません」と答えるだけである。今を生き、今を考えることに忙しく、生きがいなどというわけのわからないことを考える暇などないばかりか、こんなことを考えなければならないのならば生きている価値はないとさえ思う。そんなことではろくな死に方ができないから「自分探しの旅にでも出かけてみては」などと、旅行会社の宣伝文句のようなことを言われると、「馬鹿かおまえは」と言いたくなるが、そこはじっと耐えて、「どうもあやふやな人間なものですから」とか何とか言ってごまかす。
 
  堺屋太一氏が、以前から現代の若者について、「欲ない、夢ない、やる気ない」の3Yだと言っている。この人の著作のいくつかを読んだが、現状分析と未来への洞察ではほとんどぶれがない。以前から、未来学に関する私の師匠である、といっても、私がかってに師匠にしたのだが。情報社会のすばらしい点の一つをあげるとすれば、弟子が師匠を選ぶことができることだろう。情報空間に山ほどの情報と知識があり、知識の源泉を師匠とすることは容易である。ただし、師匠は弟子を選べない。これが江戸時代ならば、これと思う師匠に頼み込んで弟子にしてもらう。師匠は、頭の善し悪しは並程度としても、品性下劣で意欲のない者は弟子にはとらなかった。師匠が弟子を選ぶのである。現代情報社会はありがたいもので、かってに師匠を選ぶことができる。
 
  師匠堺屋が言うように、現代の若者には「欲がない」のだろうか。「欲」といってもいろいろある。この堕落論2017【情報社会Ⅰ】でも述べたように、情報空間は「自己顕示欲」という欲で溢れている。自己顕示欲は、人に見せたい、見てもらいたい、もっと言えば「私はあなたよりも上よ」と見せびらかしたいという欲求である。ヴェブレンの「有閑階級の理論」で実に丹念に展開されており、現代においてもヴェブレン効果として消費行動の分析や商品戦略の重要な思想である。社会から嫌われたくない、社会によく見せたいという自己から外部に対して発する欲求である自己顕示欲は、人間固有の欲のように見えるが、どうも人間だけではなく、社会性を持つ動物にも見られることから、動物の本能に近いところにあると思われる。人間が犬や猫、サルと異なるのは、知的レベルが高いために、欲求の発現の仕方が極めて複雑なことである。このように考えると、現代の若者の自己顕示欲はかなり旺盛であると言えなくもないが、発信している情報の内容を見ると、大半は自己の内面の吐露かつぶやき程度である。本来の自己顕示欲とは、もっとどろどろした欲の塊であり、こんなものではない。あまり欲が見え見えでは社会から嫌われるので、ほどほどのところで妥協して、ほどほどに自己宣伝する。若者に知恵がついたが、欲望の渦に身を置くことができないのである。情報空間で真の欲望が満たされることはあり得ない。
 
  こういった本能的欲求には、性欲、食欲のような生存欲とでも言える欲求がある。性欲はと言えば、今やネット上のアダルトサイトは、ただで見たい放題だ。何も苦労して女を口説き金を使う必要もない。現代のデートは割り勘らしい。恋愛も様変わりした。付き合ってすぐに寝るが、別れるのも早いそうだ。スタンダールや坂口安吾の「恋愛論」、ラッセルの「結婚論」はもはや虚論となりはて、若者にとって、全てを犠牲にしても相手と一緒になりたいという純愛は伝説となった。アダムとイブ以来、人間は恋に落ちて堕落するのである。恋に落ちた二人は、世間とは距離をおき、二人だけの世界に閉じこもって孤独な二人と化す。堕落とはこのようなものだが、現代の恋は、男女のありふれた関係であり、孤独や堕落とは無関係である。アダルトサイトで性的欲望を満たしたとしても、男女の性にまつわるどろどろとした欲望の果てを体感できるわけではない。性の堕落を避けるのが現代流恋愛術であり結婚観である。
 
  食欲はどうかと言えば、グルメ旅行だB級グルメだと何処へ行っても贅沢な食い物には事欠かない時代である。かつて、昭和30年代から40年代にかけて、日本が高度経済成長時代のまっただ中にあった頃は、誰もが「寿司が食いてー」、分厚い「ステーキが食いてー」と思ったものだ。贅沢品は高かった。とてもサラリーマンの給料では手が出ない代物である。毎日、仕事帰りに寿司屋で寿司をつまみながら一杯やるなどは、金持ちのステータスで、会社の社長か重役、商売人以外には無理だった。会社の交際費に制限がない時代だから、零細企業が儲けたら交際費で使わなければ税金で持って行かれるのだ。さて、現代となると、寿司は格安の寿司チェーンでたらふく食えるし、ステーキだって同じようなものだ。それにしても現代の若者のグルメ行動にはちょっとびっくりだ。生卵を食べるために車で数百kmもとばすのだそうだ。山梨県の田舎にうまい焼肉屋があると知れば、東京から食いに行くという。生卵1個で交通事故の危険もかえり見ず、ガソリン代と時間をかけて食いに行く、「馬鹿者」という前にあきれかえって物も言えない。珍味、グルメを格安で体感したからといって人生に何ほどの影響があるか。三度三度の食事に工夫を凝らし、毎日食べても飽きないメニュー、健康にいい食事、しかし贅沢ではないメニューを自ら考え、試行し、実践する知恵もない。グルメ情報に踊らされ、「あなた食べたことないの?」とこれみよがしのオタクを披露する。料理がうまいというのは、単に珍味であるとか素材とかではない。例えば、和食であれば、格式が高く、伝統的建築様式美に溢れた料理屋で、小粋な女将が、そっと差し出すセンスの良い向付けの絶妙な酢の物を肴に一杯やりながら、ちょっと危ない下ネタをさりげなく混ぜた会話を楽しむということだ。贅沢の極みであるが、これこそが食の堕落である。現代の若者のグルメ指向は堕落とはほど遠いのである。30代のうちに一度はこういう贅沢を身銭を切ってやってみろ。ただし、一度や二度の経験では、こういった楽しみを味わうことはできない。金と修行が必要だ。真の食の欲求を満たす堕落は容易ではない。
 
   師匠堺屋が言う「欲」を現代若者の一般的現象からみれば、欲望の渦にどっぷりとつかりきれず、かといって欲がないのではなく、少しばかりの欲で試してはみるが怖くて手が出せないのである。最近の脳科学によれば、思春期の反抗的行動は、記憶を司る海馬に近い部分に怒りに関する脳があり、記憶力が増す年代ではこの部分が敏感に反応するが、それに反して、理性を働かせる前頭葉が未発達なため怒りを理性的に抑制することができないことによると説明されている。さらに恐れに関する脳部分も海馬に近い部分にある。感情に関する全ての脳部位は、海馬という記憶メカニズム脳の近くに位置している。理性とは、問題に対して知識・経験知を論理的に組み合わせた対処方法のメニューとでもいうべきものであるから、怒りや恐れに対する対処メニューがない状態では、どうして良いかわからない状態となる。だから反抗的行動による経験知を積み上げなければならない。どうやら、若者に「欲がない」原因は、経済・社会が安定していることが原因だとは言い切れない。
 
  ところで、今から20年以上前になるが、30代の若手の研究者達と議論する機会が多くあった。その議論の中で、彼らの専門分野に踏み込んで批判めいたことを言うと、彼らは青筋をたてて怒り出したのだ。専門分野以外の社会問題や思想といった議論では、今度は黙り込んでしまう。質問を向けるとやはり真っ赤になって怒るのである。若手官僚との議論でも同じであった。当時は、こちらが年長なのに大人げなくむきになって議論を仕掛けたせいだろうかと、怒る理由がわからなかった。今、考えてみると、一つは、当時の若者達の知識人としての一般的教養レベルが格段に低かったことが考えられる。立花隆氏らが、若者の「知」的水準の低さを盛んに論じていた時代であった。知らなければこれから知ればいいだけである。恥でも怒りでもない。一方、専門分野といっても20世紀後半からは研究者の専門領域は極めて狭くなっている。現代では、重箱の隅どころではない。狭い領域の研究だからごく限られた研究者しか知らないのは確かである。しかし、だからこそ、他の多くの研究分野の人と議論することが重要なのだが、「そんなことは許さない」と怒りまくるのである。こういった知識人が現在50代前半となって、現代社会のリーダーとなっている。考えてみれば、現代は、教養なき大人達によって支配された恐るべき時代なのである。40年以前から始まった家庭内暴力、家庭崩壊、校内暴力、ゆとり教育、いじめ、少子化、高齢化といった社会変動と、バブル経済、デフレ経済という経済変動の二つの変動が、子供達の精神の発達に何らかの影響を与えたと言えそうである。
 
  師匠堺屋の言う3Y問題の解決策は、容易には見つかりそうにない。日本が破綻し、貧乏のどん底に身を置き、生きるためなら何でもするという状況にまで追い込まれない限り、精神革命は起こらない。現代は、意識改革などという生っちょろい手段では到底回復不能な時代なのだ。人間の精神は、欲望によってその根本が形成される。
 
  ところで、中国人の思想家に林語堂という人がいるが、彼は「中国=文化と思想」の中で、「中国人は進歩よりもむしろ生きることに重きを置いている」と語っている。中国の長い歴史は、孔子、老子らの偉大な思想家を生み出した一方、戦争にあけくれ数知れない皇帝を誕生させては消えていった。長い歴史の積み重ねによって中国庶民の生活思想に、「可知の世界はすでに先祖によって窮め尽くされ、人類管理の最後の言葉はすでに喝破され、書道芸術の最後の風韻はすでに発見されてしまった」という感慨を埋め込んだと、林師匠は言う。今を生きることにのみ思考し、何が美徳で何が正義か等々の先人が喝破したことについては思考を停止することにしたのである。現代日本人の思想そのものではないか。今を生きれば明日のことは明日考える。「風と共に去りぬ」という映画のシーンで、スカーレットオハラが「After all, tomorrow is another day!」と独り言を言う。直訳すれば、「結局、明日はまた別の日よ」となるが、「明日は明日の風が吹く」と訳す場合もある。しかし、頭の中が一杯になってこれからどうすれば良いかわからなくなった自分に「明日のことは明日考えよう」と言い聞かせるとする方が適切な訳のように思える。「後は野となれ山となれ」という思想は、人生観の本質を指している。
 
  断っておくが、知識と教養とは「知っているか知らないか」というレベルでは同じであるが、教養は知識を身につけ自らの思想、行為にまで高めることである。最近、社会問題、経済問題、政治問題で知識人、専門家なる者がテレビに出演して得意満面に専門的知識なるものを披露している。単なる知識の披露であり、知識人には違いないが教養人であるかどうかはわからない。この変動の時代を成長期で過ごした現代の知識人、専門家なる者が、専門的領域について話を始めると立板に水のごとくである。日本書紀、源氏物語、徂徠学等々、まあたいしたものだ。よく、そこまで体系だって記憶したものだと感心せざるを得ない。しかし、考えてみると、知は金で動き、知も商品なのである。一方の教養は金では買えず、金で動きようがない。ニュース報道やワイド番組が単なる知の切り売りにしか過ぎないとすれば、何とも浅薄な世相ではないか。日本の教養は何処に行ったのだ。これこそが「知の堕落」に他ならない。
 
  さて、師匠堺屋が言う「欲なし」については、中国思想にかの有名な「足るを知る」思想がある。「知足」思想は、老子・荘氏の思想の一つであり、「老子」の第33章、第44章、第46章に見られる。「足るを知るものは富む」から、「欲望を抑えてほどほどのところで満足すれば心穏やかに暮らせる」といった意味で使われている。国を支配し安定した治世とするためには、庶民の飽くなき欲望を抑えることが重要だという解説もある。この根拠は第46章の解説に見られるが、比喩として戦争を取り上げたもので、どう読んでも支配層を主語としているとは考えにくく、全ての人類に対して説いたものと考えるのが妥当なところである。前述の師匠林曰く、中国人の「足るを知る」思想とは、「人生から最も素晴らしいものを摂取しようとする堅い決意、所有する一切を享受しようとする欲望、万一得ることができずとも悔いなしとする心」であると。欲望を抑えるのではない。あらん限りの欲望で人生を生き、得られなければそれでも良いとするのが「知足」の精神なのである。2500年前の思想家が、「欲望を捨てよ、そうして心安らかに生きよ」と説いた「知足」の思想は、2500年を経ると、「欲望なき人生なんぞ何のための人生か、欲しいものが手に入らなければそれはそれで良い、後は野となれ山となれ」という思想となった。人間から完全に欲望を取り除くことはできない。生存欲、知欲、野心等、数え上げればきりがない。しかし、個人的領域に限られる欲望であり、他を犠牲にして得るものではなく純粋に個人の力で得られる欲望に関しては貪欲に追求し、所有することに執着するが、得られなくとも落胆したり後悔したりはしないということである。何となく、今の日本の生活思想に似ていないか。人生を楽しむためには貪欲であるが、社会や政治には関心がない。「経済はもはや生産ではなく消費だ」という経済学者の主張は、経済の実態から分析されたものだと思われるが、「知足」の思想は消費型経済に具現化されたのである。社会の変化は個人の生活思想の変化と同期し、経済の変化は欲望の変化にその本質がある。
 
  戦後復興の生活思想は、「武器よさらば」、「米国礼賛」、「経済優先」、「核家族」、「オラー東京さいくだ」、「3C」の言葉に代表されるように、自己及び家族を如何に豊かにするかというむき出しの欲望にあった。反面、労働争議、安保闘争等豊かさと対峙する貧困とイデオロギー闘争はあったが、豊かさの追求という欲望のスピードは、真理の追究のスピードよりも遙かに早かった。社会・経済・政治に関わる高邁な思想は、際限なく増大する個人の欲望によって駆逐された。誰もが、限りなき欲望こそが個人及び家族の豊かさの絶対的真理だと信じた。しかし、欲望が頂点に達した時、バブルがはじけた。際限なき欲望が行き先を見失った時代、その時代こそが「欲ない、夢ない、やる気ない」人間を生み出したのである。今や、現代思想ともいうべき確固たる思想はどこにもない。僅かに、師匠林が喝破した現代「知足」思想の日本版である。日本版という意味は、現代日本人は、中国人ほど確固たる人生への決意もなく、中国人ほど所有に執着せず、中国人ほどあきらめが良くないと言う点で日本版なのである。
 
  思想は、しばしば政治思想、社会思想、経営思想等々、国家、社会、組織の存在意義・価値の抽象的な論理体系として論じられる。しかし、思想は個人の思考そのものであり、個人が考えうる言葉を用いた思考の中の想像物であり創造物である。今そこにある現実ではなく、過去の事実でもない。今そこにある現実も、すぐに過去のものとなる。従って、思想はものごとの本質に迫るのである。自らの思考力を高め、思想的であるためには、ものごとに対して常に「何故、なぜ」と問わなければならない。思考を停止してはならぬ。何故、現代は「欲ない」かと問えば、前述のように様々な思考が可能である。一部は正しいかもしれないが、全てを説明してはいない。現代に思想はあるかと問えば、「思想」とは何かから問わなければならぬ。思想とは、抽象的で論理的で極めて理性的な創造物ではない。個人が、感性と知識と経験から個人をとりまく問題の本質に迫るとき思想となる。思想に関する文献は、明治以来、内外文献を問わず数多く出版され、戦後から1970年代までは、戦後思想としてマルクス等多くの出版物がある。思想は、マルクス主義であれ自由主義であれ、恋愛論であれ幸福論であれ、一人の個人の思考の結果に過ぎぬ。間違ってはならぬ、これらの思考の結果が絶対的真理であるとは限らないのだ。師匠丸山(丸山真男)は、日本では、「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されないという伝統がある」と言う。つまり、同じ論点を時間をおいて何度も繰り返し、いつのまにか元に戻ってしまい、真理の追究には至らないのである。特に戦後の科学技術、社会制度の変化は激しく、真理、真理と言っている間に現実社会がどんどん変質する。思想はフィクションであるとすれば、フィクションが現実とはかけ離れたものとなるのである。唯一、現実とマッチする思想があるとすれば、「後は野となれ山となれ」の思想である。
 
  我が国人口の25%が高齢者となった。死ぬ準備をしている人が4人に一人いるのだ。恐るべき社会ではないか。第二次世界大戦においてさえこんなことはなかった。「後は野となれ山となれ」は、やることはやったから後はどうなろうと知ったことかという意味で使われる。死に行く者に未練がないかと言えばないとは言い切れないが、100%死ぬのだから、未練があってもどうにもならぬ。「欲がない」かと言えば、いい女やいい男と最後に一度ぐらいはなどと下手な冗談を言うが、本音で言えば、いろいろな欲はある。しかし、どうにもならぬ。ヨーロッパ、アメリカ、日本がこういった状況に入り、中国もこれに続く。確実に先進国人口の1/4の中心思想は、「後は野となれ山となれ」となるのである。この思想は、社会に何をもたらすのだろうか。
 
  財産が沢山あれば、遺産相続で少しは残してやるが、できれば使いきって死ぬ方が爽快だ。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン主演の映画「最高の人生の見つけ方」は、余命を知った老人二人が、人生の最後にやりたいことをリストアップし、それを一つづつ実行して死んでいくという物語である。有り余る金で、グルメの極み、スリルの極致、性への陶酔と欲望と堕落の限りをやるが、結局のところ愛する者と最後の時を迎えるというものである。人生の結末は、真に自分が満たされて死ぬことである。
 
  これからの日本では、仏教・キリスト教などの宗教思想、武士道・商道など日本特有の伝統的道徳思想、「知足」思想などの東洋思想、これらが混じり合った思想の混沌などではなく、「後は野となれ山となれ」という単純明快な思想が流行る。思想が流行るという言い方はおかしいと思われるかもしれないが、「時代の思想」というように思想は人々に伝染し流行りすたりがある。流行りすたりの積み重ね、繰り返しの中からいつの時代にも生き続けた思想が、大衆、民衆、土着の思想として根付くのである。「後は野となれ山となれ」という思想は、人類普遍であり、現実である。思想というにはあまりにも単純であり明解すぎる。感情的でもなく、かといって抽象的・論理的で理性的な思考でもない。しかし、「後は野となれ山となれ」の心境に至るのは、たやすいことではない。まずは、やりたいことをやってみなければならぬ。人間はおろかなものだ。堕落しなければ、真の天国の門を見いだすことはできない。「ピンコロ」で死にたいと願い、神や仏を祈ってみても無駄である。健康に気を付けて、食事とサプリメント、運動に励んでみても無駄である。健康食品産業と健康器具産業を富ませるだけの人生の終焉などはやめておけ。やりたいことをリストアップするのだ。妻や夫、子や孫の心配などはする必要もない。派手な葬式や不相応な墓等は不要である。金があるなら、リストの中から順番に実行するのだ。いい女やいい男がほしいと思ったら、道徳や倫理はかなぐり捨てろ。やりたいことのために全ての力と金をつぎ込むのだ。自分のことだけではない。社会がおかしい、政治が悪いと思えば、仲間を集め政党を作れ。地方政党で十分である。社会活動への寄付などはやめておけ。金で済ますなどは下の下だ。私のように財産もなく金もない貧乏人は、働くのみだ。死ぬまで、ビジネスチャンスを追い続ける。老後に思い切りゴルフをやりたい。いいだろう、やってみろ。どうせやるなら、ゴルフ場の近くに住み、毎日やることだ。自分の何を満たせるかは、やってみなければわからない。そして、「後は野となれ山となれ」で最後を迎えるのである。
 
  「後は野となれ山となれ」という思想は、人が死に直面したときの現実の思考である。それが死ではなく、人生における一つの区切りであっても、自己以外の他者への未練を断ち切り、明日のことは明日考えるという覚悟こそがこの思想の本質である。
 
  戦後、70年以上経て、エネルギー不足となった若者達と、「後は野となれ山となれ」と死を迎える老人達で占められた日本において、政治は今よりはヨリ良くするといって法律を改正し、行政組織は屋上屋を重ね、国民負担を積み増し、重税へと進む。経済組織は、一向に生産性の上がらない日本に見切りをつけてグローバル化を加速する。今、死に行く人ができることは、「後は野となれ山となれ」の思想の実践である。それも徹底的にやることだ。もはや、政治・経済・社会・環境等はどうでもよい。後は生きているものが好きにやれば良い。地球の有限な資源は、利用し続ければ100年~200年で枯渇する。利用しなければ人類は死滅する。いずれにしても、数百年先には、人類が死滅することは明白な事実である。そんな先のことは生きていないのだから見ることはできない。やはり「後は野となれ山となれ」は真理である。
                                                                                                  2017年11月26日

参考
有閑階級の理論  ソースティン・ヴェブレン著 高哲男訳、筑摩書房
結婚論 バートランド・ラッセル著 安藤貞雄訳 岩波書店
恋愛論 坂口安吾 青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
恋愛論 スタンダール著 大岡昇平訳 新潮社
中国=文化と思想 林 語堂 著  鋤柄治郎 訳 講談社学術文庫
日本の思想 丸山真男著 岩波新書