堕落論2017 選挙で何が変わるか 民主主義の堕落 | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

                                 堕落論2017 選挙で何が変わるか
                                                                                        秋 隆三


 また衆議院選挙だそうだ。国民に信を問うたびに総選挙となる。今回の衆議院解散総選挙の目的は一体何なのだろうか。文部科学省の忖度問題に端を発した一連の政治問題、特に安倍総理近辺に漂う不信感に決着をつけることを狙ったものなのか。それとも、北朝鮮に対する安全保障問題なのか。 安全保障問題だとすれば、自民党政権は北朝鮮の脅威に対して何をしたいのだろうか。戦争の危機が迫りつつあることは間違いない。危機的状況がどの段階にあるのかは誰も知らない。政府、政党、政治家、政治評論家、軍事評論家、誰も危機的レベルを評価していない。70代のぼけのはじまった爺様と30代の頭のいかれかかっている青年との罵倒を我々は見ている。
 この金正恩という男の異常さ、残虐さは並ではない。この男の命令で処刑された人数は、70名を超えているという。さらに、腹違いの兄までも殺した。独裁者による虐殺は、歴史の上では常識である。独裁国家では、必ず虐殺が発生する。とりあえず、都合の悪い奴は殺してしまうのである。考えてみれば、民主制のようにああでもないこうでもないと政敵と議論するよりは殺してしまう方が極めて効率的で経済的だ。民主制は、非効率で金がかかるのである。
 米国がこれ以上北朝鮮を非難し制裁を加えるなら、太平洋で水爆実験をやるという。本当にやるのか。ミサイルに核弾頭を搭載し、日本の上空を飛んで太平洋上に落とすことになる。日本は、どうするのだ。間違えたら日本に落ちて爆発するかもしれない。しかし、あくまでも目標地点を太平洋上においた水爆実験であるので、日本に対する戦線布告ではない。こんな論理がどこまで通用するのか。水爆実験だと宣言しているが、考えようによっては、日本に対する戦線布告にも等しい行為である。
 日本上空を通過するミサイルに対して日本は、何もしていない。トランプも馬鹿ではないと見えて、安倍総理に「日本はどうするのか」と尋ねているようである。トランプの言うとおりではないか。日本は一体どうするのだ。戦線布告と捉えるのか、実害が起きていないから声明は出すが何もしないのか。太平洋上での水爆実験が実際に行われたらどうするのか。既に、過去にもミサイルは日本上空を通過しているが、何もしていない。こんな国がどこにあるのだ。我が国領海にミサイルが到達した段階で爆弾の搭載の有無にかかわらず宣戦布告とみなし、我が国は自衛のためにあらゆる手段を講じるぐらいのことは言うべきである。こういった議論を野党も出そうとはしない。国会の議論としないから国民は政府自民党や野党の考え方を知るすべがないのである。当面の戦争危機に直面して、今の政治は、国民への責任を果たしていない。政治家は全て失格である。
 戦争になるかもしれないという危機に直面したとき、民主制の国家は、国民に対して何を問いかけ、国会はどのような機能を果たすのか。あるいは果たすべきなのか。攻撃に対する反撃は、安全保障法制により原則として事前に国会の承認を得るが事後承諾もあるというものだ。憲法9条により我が国から戦線布告はできない。一方、戦線布告されたときにどうするかという法律・憲法条文もないのである。何をもって宣戦布告と見なすかについても何もない。こういう状態を「平和ぼけ」というのではないか。かつて、金正恩体制に移行した直後、北朝鮮は韓国に砲弾をぶちこんだ。死者がでたはずである。韓国は、これに対して報復の砲弾で反撃したが、北朝鮮のこの行為を宣戦布告とは見なさなかった。韓国人の国民性というものはかなりわかりにくい。というよりは、理解することが難しいのである。韓国の首都ソウルから一番近い北朝鮮との国境までの直線距離は、僅かに40km足らずである。自走砲やカノン砲等のいわゆる大砲の長距離弾であれば80km程度までは到達するいうから、北朝鮮が国境付近から撃てば、ゆうにソウルまで到達する。北朝鮮は、既に8千基を超える大砲をソウルに向けているという。こんな状態であるにもかかわらず報道を見る限り、韓国国民は実にのんびりしたものだ。ソウルから逃げ出すわけでもなく、政府に対する非難もない。何故、朝鮮戦争後に、国境に近い危険地帯のソウルに首都を置いたのか。日本に近い半島南部に首都を移すのが普通ではないのか。このあたりの政治感覚は、理解不能である。朝鮮半島をみていると、平和とは、細い糸が今にも切れそうになりながら何とか布をつなぎ止めている状態であることがよくわかる。政治とは、何とかとりつくろっているこの細い糸である。
 ギリシャ・ローマの昔から現代に至るまで、政治権力とは武力であり、暴力である。法治国家の本質は、法律という絶対的権力による統治を意味する。法に反すれば、武力が行使される国家を法治国家という。法を作るのが政治である。法の執行権は行政機関にある。法に反すれば、法の執行を委ねられた行政機関の権限において法を執行する。しかし、法が真に正義であるとは限らない。ただし、権力を手にいれるために暴力を使ってはならないというのが民主制である。
 数年前に、NHKがマイケル・サンデルの「正義」についての講義を放送した。政治における正義とは何かを考える講義である。ところで、正義とは何かについては、民主主義が発明されたギリシャ時代から、ソクラテス、アリストテレスによって論じられてきた。近代以前の正義論は美徳から出発し、近代以後は自由から出発する。正義は個人の権利を制限する。だから、政治を論ずるときには正義を論じ、正義を論じるときには個人の徳を論じ、自由を論じなければならない。個人の徳と自由は、純粋に個人的諸問題として片付けることができないのである。我が国憲法では、個人の自由権は、第19条思想及び良心の自由、第20条信教の自由、第21条表現の自由、第22条居住・移転・職業選択の自由、第23条学問の自由として定めている。しかし、社会の正義と、個人の自由・美徳との間には大きな矛盾がある。

 正義論へと論点が逸れてしまった。話を元に戻そう。平和を維持するということは極めて難しい。国内外のいずれにしても、武力という力なしに秩序を維持することは、現代のどのような知性をもってしても不可能である。武力を持たなければ武力を持っている側の論理を正義として受け入れなければならないのである。人間は、理性だけで生きてはいない。多くの人間は、感情と知性のバランスで生きている。感情をうまくコントロールできなければ世の中をわたれない。しかし、先天的に感性が弱い、つまり低い感受性しか持たない人間もかなりの割合でいるらしい。脳の感情を司る機能が先天的に発達していないのである。サイコパスと呼ばれる症状である。感情に対する感応性は低いが知能が高いのが特徴であり、通常の生活行動をみているだけでは判断がつかないという。サイコパスの診断表なるものもあるがほとんどあてにならない。高い知性を持っているので、どんなときに怒り、悲しむか、そのための条件は何かについては学習記憶されている。そのため、悲しむ場面に遭遇すると瞬間的に反応する。しかし、その場面が悲しむための条件として記憶されていなければ悲しむ場面で悲しめない。特に、芸術的感性に至っては、サイコパスの人間は記憶と知識と理性により反応するため、芸術特有の美に対する精緻で微細な感覚を感知できない。何が芸術で何が芸術でないかを判断する基準として感情が働かないのである。サイコパスの人間は、高い知力を必要とする職業、法曹界、政治家、新聞記者、高級官僚、学者、医者等の職業につく場合が多いと言われている。感性を失った権力者が、知性、理性、論理だけによって秩序を維持しようとすれば、権力者同士の対話による感性の機微に触れた感動といったものが得られないから、最終的には武力の行使を正当化し信じ込むことになる。西郷と勝の江戸城無血開城の対談等は、豊かな感性を持ったリーダー同士の対話の典型的な例である。武士道の本質とは、感性と知性を磨きあげることにより、感情的な死闘やドグマに陥った死闘を避けることにある。孔子の言う仁も、豊かな感性と高い知性との融合状態をさしている。
 ところで、人が他の人への信頼感を抱いたり、一体感を持ったりする、いわゆる社会性に大きな影響を与えるホルモンにオキシトシンというホルモンがある。勿論、このホルモンだけで人の社会性同化気質が決まるわけではないが、無視できない影響があるのは確かだろう。全ての哺乳動物で分泌されており、哺乳動物の知的レベルにおいても機能することを考えると、高度な知的レベルではなく、闘争、生存といった本能に関与していると考えられる。愛情ホルモン、信頼ホルモンとも呼ばれている。優しい接触、性交等により分泌される。外交交渉における首脳同士のつきあいは、この意味で極めて重要である。だからといって豪華な別荘で、馬鹿高いワインを飲む等は言語道断である。ゴルフ、釣り、スポーツ、うまい食事程度が妥当なところだ。
 
 北朝鮮との戦争が回避されれば、政治的には成功したと言えるが、将来の戦争勃発の不安が完全になくなったわけではない。外交交渉なしの経済制裁がどこまで続くのか。こうしているうちに、北朝鮮は本格的に核武装することになる。韓国、日本はこれにどのように対抗するのか。国民が対策を考えなければならないのか。
 野党合同で自民党を破ったとして北朝鮮の核武装に対して何をするのだ。自民党は、どうするのだ。何も言えない政党が、権力だけを求めて選挙をするのを国民は黙って見ているしかないのか。国民が堕落しているのではない。明らかに政治家が堕落している。政治家は、保身に走り、権力に走ったときに堕落する。

 ところで、国政選挙は金がかかる。かつては、解散総選挙となると、与党であれ野党であれ派閥の長は、金集めが大変であった。そこで、金権問題の解決策として税金で助成する政党交付金制度が設けられた。国民一人当たり毎年250円として計算される。年間320億円が税金から拠出される。先進国で政党交付金を出している国をみると、ドイツでは175億円、イギリスでは3億円、フランスでは98億円となっており、カナダ、スエーデン、デンマーク等も出しているようであるが、米国は出していない。選挙費用の公費負担分はこれとは別となっている。衆議院選挙費用の総額(投票用紙、ポスター類、管理・取り締まり人件費等々)は、700億円程度だそうだ。3年に一度選挙があるとして年間換算すれば、選挙費用で240億円あまりとなる。これに政党交付金を足すと年間平均560億円が選挙のために費やされる。参議院選挙費用を加算すれば年間600億円を超える。選挙費用はいたしかたなしとしても、政党交付金はやめるべきだ。政治家の集金能力は、一面においては、国民の政治家への信頼度や期待度を示すバロメーターともなる。勿論、企業献金に制限があること、個人から政治家への献金が原則である。選挙の活動員はボランティアが原則だが、一定範囲の謝礼は認めるべきである。ジャーナリズムは勿論、内部告発による摘発など監視を強化し、政治家、政党の行動をバロメーターとともに公開すべきである。
 といっても、政党交付金という楽な制度を作ったために共産党を除いて与野党ともこの制度を廃止すべきという議論はない。法律とはこういうものだ。政党にとって都合の良い法律ができると、それが国民のためにならないと知っていても廃止しようとはしない。政党交付金制度は、政党、政治家の堕落の温床である。こういった法制度を見直し廃止するために国民にはどんな方法があるのか。結論から言えば国民投票制度しか廃止する方法はない。行政訴訟や民事訴訟の対象とはならないからである。これが米国ならば、小さな政府を理念とする共和党が廃止、民主党が維持側になり対立するだろう。日本では、与野党の対立軸がほとんどないに等しい。与野党とも制度維持となる。真に国民と国益を考える政党がなく、一人でも正義とは何かを究明する政治家はいないのか。国民投票も実際には不可能である。国民投票を実施するか否かは国会の決議であるからだ。それではどうするか、地方議会や県民投票で発議を促す方法である。都民ファーストや希望の党は何をしている。大体、東京都民の選挙行動ぐらいいい加減なものはない。何が、都民ファーストだ。都知事ファーストの間違いではないのか。
 今回の選挙の野党連合なるもののいい加減さには、反吐が出る。政治理念などは二の次だ。前原の言うとおり名より実をとった。つまり理念・正義よりも議席と金と権力をとったのである。希望の党なる怪しげな政党は、ポピュリズムやデマゴーグという低級な思想とも無関係である。
 迫り来る戦争の危機に対して何をすべきか、人口減少社会における社会保障とは何か、経済成長の方法とは何か、子供の貧困対策とは何か等々、現実的諸問題への処方とその考え方を明示すべきである。現実問題の具体的解決方法と未来の予測が政治理念を作り出す。現実的諸問題への対応は、問題の本質を見抜かなければ正しい対応は不可能である。それが正義であり、理念である。これができなければ、かつて民主党が政権をとった時のようにポピュリズムでやれ。そんな政党はたちどころに崩壊する。
 自民党にしても同じだ。とってつけたような政策メニューで何を国民にアピールするのだ。迫り来る戦争の危機に対して政権政党は何をしようとしているのか。地方創生はどうなった。今もって、「社会全体で面倒をみます」か。できもしない社会保障夢物語を語るのか。介護保険だけでも大変なのに、今度は子供保険だ。ホケン、ホケンと犬が鳴いているんじゃない。年金制度の賦課方式という戦後経済成長のどさくさに紛れて、時の官僚と御用学者が何も考えずにとりあえずつじつま合わせに作ったシステムは、とうの昔に破綻しているではないか。世界に冠たる国民皆保険。嘘だ、嘘だ、ウソだ。介護保険にしてもはじめから無理だとわかっている。人口の25%が、高齢化しその大半に介護が必要となったとき保険でカバーなどできるわけがない。まして、社会全体で面倒をみる、つまり国が面倒をみるなどできるわけがないではないか。「社会保障は国がやります」というスローガンは、バブル経済の崩壊後に現れたポピュリズムだ。北欧の例にならい、高い税率であっても医療、老後は、国が保障するというものだ。スエーデンやノルウェーが何故可能かの説明が全くない。北海油田の歩油権が国庫に入り、使い切れない金がファンドにたまるだけ貯まっている国と、借金まみれの国とでは社会保障のためのファンドマネジメントシステムは全く違う。国民健康保険の金の使い方もひどいものだ。健康診断だ、高齢者診断だ、アンケートだ、予防接種だ、ガン診断だとやたら予防診断を行う。若い人なら少しは予防効果はあるだろうが、国民健康保険の対象の大半は高齢者である。高齢者には逆の効果になるばかりか、医者に患者を送り込む格好のシステムとなっている。そればかりか、市町村職員の増員につながっている。何を考えているのだ。こんなことを全てやめれば、国民健康保険の費用負担は、人件費の削減も含めて現在より数10%程度低くなる。医療保険というものほど悩ましい保険はない。健康な人は払い損し、不健康な人が払い得になる。生活習慣病等は、考えようによってはもってのほかだ。医療費の自己負担率を50%以上に引き上げるか保険料率を引き上げる必要がある。その代わり、医療用薬品のうちのジェネリック薬品については簡便な処方で入手できたり、市販薬として生活習慣病の証明等で購入できる方法を考えろ。個人が払った医療保険料の記録をしっかりとって保険料率に反映させるぐらいのシステムを構築することは、現代の情報社会では簡単なことだ。国の保険制度の改革の決断を自民党であれ野党であれ本気でやるとは思えない。まして、厚生労働省に企画立案させるぐらい危険なことはない。ここまでくると、国民には、社会変革のための手段が全くないことに気づかされる。国民参加の制度という、民主主義の根幹となる部分を、政治という業界が全て駄目にしたのである。政治業界の堕落である。

 経済成長なき日本の存続はもはやあり得ない。経済成長が不可能であれば、そう遠い将来ではない時期に日本政府が崩壊し、次に国家が崩壊する。経済成長のためには、政府も企業も国民もなりふり構わず取り組まなければ国が滅びる。オリンピックだと浮かれているどころではない。1千兆円の負債と成長なき経済は、ボディーブローどころではなくカウンターパンチとなって国民生活を襲う。

 現在の人手不足の状況は、25年ぶりだそうである。宅配便の運転手不足、青果市場の労働力不足、震災復興建設労働者の不足等、どの職業をみても、かつて言われた3K労働者の不足ではないか。AI技術者も不足しているらしいが、新技術の先食い現象だから一般の労働力不足とは質が違う。給料を一段と上げればすぐに人は集まる。人手不足といいながら給料を一段と上げようとはしないのは何故だ。わずかばかりのベースアップ、労働時間の規制、働き安い環境等々を整備すれば労働力不足は解消できるのか。
 ところで、この数年進められている労働環境改革なるものは何なのだ。過剰な時間外労働に規制をかけ、サービス残業等はとんでもないという。元来、ブルーカラーとホワイトカラーでは、働き方が全く違っている。熟練技術者であってもブルーカラーは、肉体労働が伴うため長時間労働では、生産性や品質が低下する。こういった職業では、会社側の管理もきちんとしていたが自己管理も重要であった。中小零細企業でも、過剰な労働を強制するようなことは全くないといっていい。高度経済成長期には、ホワイトカラー層では、何日も徹夜が続き、1ヶ月の残業時間が200時間を超える者もいた。残業が集中するのはそいつに能力があるからで、能力のない奴には仕事がこなかった。昔のような状況が良いというのではないが、経済成長にはこういった側面は必ずある。100人のホワイトカラーがいれば、そのうち20人程度は能力が高く、20人程度はかなり低く、60人は普通程度というのが人間組織である。たとえ能力が低くてもその能力に見合う仕事は、必ずある。時間外労働規制、ワークライフバランス等の労働規制を必要とする側面と、それらの規制がなく、しかし、労働時間に見合う報酬が支払われる仕組みとが共存しなければならない。現在の日本は、全員が楽して経済成長できるようななまやさしい状況にはないのだ。みんな楽して暮らせる社会という政治思想は、亡国の思想であり、堕落の思想である。
 労働環境改革の発端はいろいろあるが、有名広告会社の新人女性が、過剰な時間外労働を強いられて自殺に追い込まれたあたりから本格的に社会問題化した。亡くなった女性は、若く、美しく、聡明で感受性の強い女性であったと思う。豊かな感性が、自らを追い詰めた。報道の情報だけだが、この有名広告会社の組織管理が如何に非人間的であるかが推測できる。非人間的というよりは、理性だけで人をコントロールできるという管理思想の恐ろしさである。ほめる、なだめる、怒る、しかる、命令する、罵声を浴びせる、けなす等々、おそらくあらゆる心理的操作があったに違いない。こんな管理思想が、組織の主流をなしているとすれば、この会社が作った広告で商品が売れるわけがない。消費者は、理性だけで商品を選ばない。感情・感性に響かなければ、理性的判断を正当化しない。人は、自己実現の可能性が見えれば大抵のことは我慢できる。そして、感性の機微に触れる言葉が必要なのだ。最近のTVコマーシャルの俗悪さは、まさにこの事件の本質を表している。企業の管理思想の堕落は、人心の堕落である。今、求められている労働環境改革の本質は、労働時間規制等の規制いじりではないのだ。理性や悟性(技術)だけで人を動かそうとする管理思想は恐怖の思想だ。マネジメントサイエンスでは人は動かない。人を動かすためには、磨かれた感性が必要なのである。まず、政治・政党から始めよ。理性だけで忖度する組織などは不要である。感性による忖度は崇高なものである。

 米国の所得格差は極めて激しい。ロイターが発表した所得格差は次のようなものである。「一部のアナリストは、米国の富が上位1%の富裕層に集中していると指摘しているが、FRBの調査によると、実際には上位3%の富裕層に集中していることが分かった。2010~2013年の期間に、米国の家計所得(インフレ調整後)は平均でおよそ4%増加したものの、所得の伸びは富裕層に集中した。上位3%の富裕層が所得全体に占める割合は30.5%だった。また、家計純資産の保有状況ではさらに格差が拡大。上位3%の富裕層が全体に占める割合は、1989年の44.8%、2007年の51.8%から2013年には54.4%に上昇した」。
 米国の家計所得の平均は約4万6千ドル、世帯数は1億1千7百万戸なので、国民総家計所得は約5兆4千億ドル、日本円では約594兆円、ほぼ600兆円とすると、このうちの30.5%の183兆円が総世帯の3%、351万戸に集中していることになる。富裕層1戸当たり平均では日本円で5,213万円、富裕層を除く家計所得の平均は367万円である。富裕層と富裕層以外の所得格差は、14倍にも達する。世界各国の所得格差については、国連がいくつかの指標で示しているが、世界銀行が算出しているジニ係数はよく知られた指標である。また、所得の上位10%と下位10%の所得比率等もある。しかし、所得上位の世帯に何%の富が集中しているかを示す方が、富の極端な偏在を表す指標としてはわかりやすい。家計純資産についても公表されている。純資産とは、金融資産や不動産資産から借入金を差し引いた額である。収入のある個人の3%に個人純資産総額の54.4%が集中しているといのだから、ものすごい集中度合いである。
 日本の場合には、同じ基準の統計がないので比較は難しいが、公表されている統計で比較してみよう。OECDのジニ係数(2005年公表)では、日本は31.4、米国は35.7、メキシコが48となっており、日本は米国より僅かに低い程度であり、所得格差にそれほど差は見られない。メキシコの方が遙かに格差が激しい。所得格差をジニ係数で判断することは難しいことがよくわかる。所得格差問題では、一時期話題になったピケティの「21世紀の資本」がある。大学の講義録を本にしたものだから、500ページを超えるが、ポイントは、K/Y 比率を長期の統計データにより分析し、KがYより大きければ格差が広がるという結論だ。ピケティの本では、Kをrで示し年間資本収益率を、Yをgで示し国民所得や産出量の年間増加率を示している。この単純な式だけでは所得格差の拡大を証明することにはならない。そこで、家計所得の多い順の10パーセンタイル所得層の合計所得が総所得に占める比率の大きさを計算して所得格差の幅を評価した。その上でK/Y比率との関係を分析した結果である。資本収益率が高く、所得の伸び率が低いほど格差が広がる。現在の日本そのものではないか。給料が上がらず、株価だけが上がる。それでも一人当たり家計純資産は世界一だ。家計に占める借入金が極端に少ないのだ。米国は資産も多いが借金も多い。金融投資の比率が高く、金融利回りも6%程度と高いから、借金してでも投資に回す。住宅を担保に金を借りて金融商品に投資した方が所得が増加する。
 我が国の格差是正政策はどうなっているのだ。給料を上げろと政府が言っても、企業が「はいそうですか」と動くわけがない。それでなくても、マイナス金利政策で何とか円安を維持し、株価を維持しているのだから、マイナス金利政策をやめると円安から急減な円高に向かいかねない。
 加工貿易立国の我が国において公共事業以外の経済政策として何があるのか。ないならば、やることは一つである。地球温暖化で今世紀中には数mの海面上昇は避けられない。出来もしない温暖化対策等はほどほどにして(温暖化ガスの排出量を抑制するのは、公害の面からも当然取り組む必要がある)、沿岸域都市の内陸部への移転を本格的に考えよ。現行の新エネルギー対策はやめよ。太陽光発電や風力発電ではゴミの山を作るだけだ。新たな物理学研究に全力を傾けろ。水素の生産・備蓄技術開発を急げ。原子力発電を期間限定で解禁し、余剰電力で水素を生産し備蓄せよ。イオンレベルの蓄電池技術に未来はない。来たるべき電気自動車時代は、従来の蓄電池技術に依存する絵に描いた餅だ。膨大な蓄電池が生産され、地球の希少金属資源を使いつくし、新たな公害をまき散らすだけだ。世の中の環境学者、環境経済学者、地球温暖化信者と化した政治家、学者諸氏よ、目先の金に堕落せず真実を語れ。近未来のエネルギーに向けた新たな公共事業に踏み出すための財政手法を作り出さなければ我が国の未来はない。このエネルギー技術は、既存技術の延長線上にはない。地球温暖化という敵にくそ真面目に取り組んでいると、近い将来必ず我が国は崩壊する。
 経済成長、格差是正のための従来の経済政策は、完全に行き詰まった。それと同時に、化石燃料の枯渇が顕在化した。化石燃料の枯渇と人口爆発は、1970年のローマ会議で予見されていたが、世界は無視した。そして、1992年からは、気候変動問題だ。気候変動の原因が二酸化炭素の排出量だけではないことは、最近の幅広い気象学研究からも明らかにされつつある。経済成長のカギは、実に新エネルギー開発とそのエネルギーを利用する動力機関の革新的開発にある。リチウムの経済的生産限界、電極のための希少金属の埋蔵量と生産限界、再生技術と生産限界、廃棄処分費用等々、既存電池技術に関する技術的、経済的限界を早急に試算する必要がある。おそらく、試算するまでもなく、資源不足、採算性、コストパフォーマンス、社会的費用のいずれにおいても実現不可能と考えられる。

 政治は現実問題との戦いである。現実問題への対応策がなく、先送りも許されないとなったとき、政治はどんな決断を下すのか。外国との関係であれば国交断絶か戦争である。経済問題であれば、政府の破産である。たとえ政府が破産したとしても誰も責任をとる必要はない。国もなくなるわけではない。政府が破産するのだから、国家機関の全ての機能が停止する。警察、裁判所、自衛隊、霞ヶ関の省庁、入出国審査、年金事務等々だ。こういった政府の破産状況については、アルゼンチン等に既に事例があるし、ギリシャ等もその直前までいった例があるが、いずれも最悪の事態は避けている。法律が無効になったわけではない。国の支払がストップしただけなので、国債償還、国の支出停止をして再生計画を作るだけである。世界経済に及ぼす影響は計り知れないだろう。リーマンショックの数10倍のショックとなる。国債のデフォルトによる影響が最も大きい。

 ところで、日銀の国債保有残高は、最近の報道によれば500兆円を超えたという。銀行・保険業界の保有比率も40%を切っている。このまま、日銀が国債の買入れを継続すれば、近い将来、国債発行残高の70%程度を日銀が保有することになる。勿論、市場金利等から限界はあるだろう。日銀が、国債を買った銀行に買入額と同額を当座預金に記録し信用を与えたというような説明があるが、国債を担保にして当座貸し越しで融資するのではないのでこの説明は誤りである。日銀がマイナス金利政策をとっているので、当座預金の残高にはマイナスの金利がかかる。つまり、利盛りとは逆に残高が減少する。市中銀行は、日銀当座から資金を引き出して運用しなければ損をすることになる。そのため、まずは金利の高い国へ資金を移動し、つまり、円を売ってドルを買ってドルで運用することになる。円安へと誘導することになる。この日銀の操作を長く続ければ、円の信頼は低下し、市場は余剰資金で溢れかえる。
 円安、株高は、何のことはない国債を原資とする比較的単純な資本原理で動いていることになる。投資先のない資金は、どうなるのだ。ところで、企業経営者の年収を東洋経済で見ると、現職の社長、会長の最高額は22億円あまり、トヨタ自動車の社長でも3億5千万円程度だ。1億円以上が600人未満というのだから、何ともなさけない話である。これが、GDP世界第3位の経済大国、日本の実態である。銀行や企業にジャブジャブある資金を、経営者の報酬にも回せず、かといって従業員の給与にも回せずただ眠らせておくだけだ。税制では、法人税減税だという。投資先がないのに法人税減税をやってどうするのだ。研究開発への投資減税は、大いに結構だが、内部留保で金融投資をしている企業の法人税率は逆に引き上げるべきだ。銀行も同じだ。
 所得税についても同様である。非課税が年収100万円未満とは。年収100万円で生活ができるわけがない。生活保護の方が収入が多いではないか。年収100万円でも、国民健康保険、年金、地方税、介護保険はとられる。地方税の税率が高いのは何故だ。地方税を払ってどんなサービスを受けられるのだ。住民票、印鑑証明、選挙人登録ぐらいのものか。こんなもの、情報社会では個人情報保護を含めても簡単なシステムで対応可能だ。税制、保険制度は、国民生活の根幹に関わる。税金は払わないと抗議をすれば、逮捕投獄である。大体、所得税、地方税の徴収システムに金をかけすぎている。高額所得への税率を高くし、低所得者層の税率を抜本的に見直し、株など金融商品による所得税率を見直さなければならない。金融商品による所得は、とりっぱぐれがないのだから、徴収コストは極めて低い。所得税の徴収コストを徹底的に見直し、徴収効果がない税部分は控除方法・税率など全て見直すべきである。政府、与党の税制調査会なるものが、いかに機能していないか。国民は、税制についても何もできない。どうせ、解散総選挙で金がかかるのだから、税制の変更の都度、税制だけの解散総選挙をやったらどうだ。

 外交、戦争、経済、税制、教育、社会福祉等々、国政は、日本社会のありとあらゆる分野に行き渡る。活力を失い、経済成長もなく、社会全体で面倒をみるという福祉社会を理想とする国家に未来があると言えるか。政党政治は、今や目先の安定に堕落した。真の堕落は、金や権力という堕落の渦でなくてはならぬ。その堕落の渦の中から光明を見いだした者だけが真の政治を担うのである。

                                 2017年10月