堕落論2017 堕落とは何か | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

                               堕落論2017   堕落とは何か

 

                                                                                               秋  隆三

 

 アメリカではトランプが自分を非難するメディアやキャスターをツイッターで口汚く罵り、そのたびにメディアが何だかんだと報道している。最近は、女性ニュースキャスターが大統領批判をしたとかで、トランプがやたらと怒りまくっている。ホワイトハウスの高官が「大統領批判をやめなければニュースキャスターのスキャンダルを公開する」と脅迫したそうだ。すごい国ですな。大国の大統領が、自分に対する評価にこれほど執着し、執拗にメディア攻撃を繰り返すとは。相手を執拗に汚い言葉で攻撃する人間が果たして正常なのかと疑いたくなる。人間、歳をとると、感情のコントロールが難しくなる。涙もろくなるのもその一つだ。なかには喜怒哀楽とは何の関係もありませんという老人もいる。顔の表情がほとんどなくなるのだ。そうかと思うと、やたら人の言動に固執する者もいるし、人の悪口しか言わなくなる者もいる。アルツハイマーや認知症の特徴の一つに極端な強迫観念があるそうだ。トランプの取り巻きは、大統領の病気を知りながら操っているというのは考えすぎだろうか。アメリカならありそうな話である。

 共和党の支持基盤である中西部の田舎町で、トランプについてどう思うかというテレビ報道を見た。「トランプの言うとおりだ」、「トランプは金持ちで信頼している」、「雇用の確保に努力している」といった意見ばかりだ。どうみても考えて意見を言っているとは思えない。一般的アメリカ人の知的水準とはこの程度のものか。この報道の前に、フランス大統領選挙についてのインタービューを見たが、まだあのフランス人の方が常識的だ。世界で最も豊かな国の国民がこの程度かと思うと日本国民もまんざらではない。

 

   ところで、我が日本はと言えば、文部科学省の天下り斡旋問題に端を発し、大阪の私立小学校の認可、四国の獣医学部の新設等、問題といえば問題ではあるが、なんともちまちました話ばかりだ。

 天下りに対して日本人は特に敏感に反応する。役人のOBがうまい汁を吸っているというのだ。中央政府に補助金や許認可の権限が集中しているのだから、優秀な役人を民間組織が欲しがるのは当たり前である。しかし、つい10年ほど前までは、役人の天下りは常識で、肩たたきと言って官僚が定年前に関連団体へ再就職していた。再就職先で高給を得、数年で莫大な退職金を手にし、さらに年金最高額を受け取るというのが当たり前だった。こういった天下り役人への報酬がどこからでていたかと言えば税金である。公共事業、委託事業、補助金等々様々な手法で税金が投入された。まさに国家的犯罪に等しい行為が堂々と行われていたのである。発展途上国もびっくりである。現在は、役人の定年延長、天下り対策もあってなりを潜めているが、潜めているだけでなくなったわけではない。水面下では数は少なくなっているが今でもあるに決まっている。世界のどの国をみても国家官僚は優秀なのだ。優秀な人材を求めるのはそれこそ当たり前のことだが、問題は税金の使途と関連していることだ。中国では、国営企業の役員が莫大な資産を保有しており、日本の天下り役人の比ではないと言う。どんな社会、組織でも人は必ず堕落する。

 役人の「忖度」が問題だといって野党が政権を攻撃している。組織あるいは社会というものが維持される大きな要素の一つに「忖度」があるのではないのか。高度経済成長時代、クレージーキャッツが「ゴマをすりましょゴマを・・・」とおおらかに歌っていた。サラリーマン社会では、偉い奴にゴマをするのは常識であり、サラリーマンとして生きるための欠くべからざる処世術である。ところで、「忖度」とは相手の考えを汲みとることであるが、「忖」を漢字源で調べると、心と寸の形成文字とある。寸とは、指一本の幅のことであり、指で脈をとるようにそっと相手の気持(心)ちを汲みとることである。行動するかどうかは別である。「忖度」は、知性のなかでもかなり高級な部類に入る。そこへ行くと、「ゴマすり」は、自分の利益のために偉い奴に取り入りへつらうことであるが、相手の考えを推察することは同じである。「推察」という本質的行為では同じだ。野党であっても組織があり階級があれば「ゴマすり」野郎は必ずいる。強固な組織には「忖度」は付きものであり、「忖度」はマネジメントの根幹である。どうせゴマをすらなければならないなら、もっと粋な「忖度」をしろと言いたい。「ゴマすり」野郎は、堕落を生き残りの手段として使う。堕落といってもいろいろある。

 

 それにしても昨今の官僚の脇の甘さは目に余る。役所内の会議、打合せ、上司との会話は、全て記録されていてそれもパソコンに記憶されている。昔なら手帳にメモる程度であったが、今やパソコンへの記録保管、メールで配信ときたものだ。アメリカの元FBI長官もトランプとの会談をメモしていたというから、まあ、似たようなものだ。公文書の取扱に関する考え方は、アメリカと日本ではかなり異なる。それにしても、このデジタル時代にアナログのメモだ。録音しておけばいいではないか。今のレコーダーは超小型です。スマホでも録音できます。必要なければすぐに消せます。一人のパソコンに記憶されているならまだしも、メールであちこちに配信したというのだから話にならん。「情報の共有」と称して隣に座っている同僚や上司にも同時配信するのが当たり前になっている。会話で済む話だ。

 

  ツイッターにしろ、メモ情報の共有配信にしろ、情報社会とは何とも幼稚な社会ではないか。30年前、来たるべき情報社会の素晴らしさを誰も疑うことはなかった。情報社会は、情報処理の効率が飛躍的にアップし、生産性が極めて高くなると予想されていた。いざ現実となってみると、膨大な情報がネット上に溢れ、情報の共有という曖昧で無責任なマネジメントが横行する。生産性とは何の関係もない情報ばかりだ。情報社会は、我々に見えなかった現実を見せるようになったのではないか。そうだとすれば情報社会に生きる人間の「堕落」についても考える価値がある。

 

 情報が共有されたからといってマネジメントがうまくいくわけではない。不必要な情報はない方がいいに決まっている。何かのときの保身用にメモをとるのは、役人だけではなく組織人の常識だが、マネジメントとは何の関係もない。まして、組織や個人の保身のためにメモを共有するとは一体何を考えているのか。

 内閣府が特区事業を推進するために、文部科学省に圧力をかけて無理強いしたことが問題だと言う。アメリカの政治システムを見てみろ。ホワイトハウスがトップ官僚の人事権を握る。強要圧力をかけるどころではない。昨日まで長官だった人間が平に降格し隣に座っている等は当たり前だ。日本の官僚制が既に時代に合わなくなっている。

 

 国、地方を問わず政府組織の全ては社会主義体制で動いている。アメリカもヨーロッパも日本とさして変わらない。社会主義的で階級的な組織が堕落した場合、だれが堕落していることを見分けられるのか。はたまた、政治によって堕落を止めることができるのだろうか。堺屋太一は、官僚こそ日本の堕落の根源であると批判する。本人が高級官僚であったのだから、骨身にしみているに違いない。

 

 東京都議会議員選挙が終わった。自民党、民進党の惨敗、都民ファーストの会の圧勝であった。小池都知事を党首とする地域政党「都民ファーストの会」は、数ヶ月前に発足したばかりの新党だ。当選した党員の多くは議員経験がない素人である。何となくフランスの国政選挙と似ている。投票率も40%程度と極めて低い。フランスではマクロン大統領の新党「アンマルシェ (共和国前進)」が圧勝した。築地の移転問題、都政の伏魔殿問題等いろいろあるだろうが、なぜかしっくりこない。政治に対する「しっくりこない」感じとは一体何なのか。「しっくりこない」感じは、投票率に表れている。何をどうしようと、もはや政治は変わらず、官僚システムも変わらない。何も変わらないが、せめて新たな政治家がやる気をもって取り組むならば、少しはやらせてみようというものだ。日本では、1993年に細川護熙らの日本新党やその他の新政党が自民党をやぶった。自民党が敗れたのは、バブル経済の崩壊が直接の原因である。現在の政治のさきがけであった。それにしても、あれだけの政変があったにも関わらず、経済再生がうまくいかなかったのは何故だ。アメリカは、リーマンショックに対して極めて迅速に対応し、僅か数年で処理を終えたが、ヨーロッパはEUという体制・制度のために、今も後遺症を抱え、難民問題も重なって経済再生はうまくいかない。バブル崩壊から30年近くたつが、政変によって何がどのように変わったか。変わったのは、政治家の堕落、役人の堕落、政府を信用しない国民の堕落、情報社会の堕落だ。

 

 民主主義は、2千5百年前にギリシャで発明された。塩野七生の「ギリシャ人の物語」が読みやすいが、この本を読む前に、プラトンとアリストテレスを読んでおくことをお勧めする(くどくて相当に読みにくい)。民主主義とは、簡単に言えば、国民国家のことだ。国民によって選ばれた議員が、法を作り、国を統治する法治国家のことである。我が国では1925年から普通選挙が行われているが、明治憲法制定後からも国民による選挙は行われている。民主主義といっても、一人一票の平等な権利を持つ場合と、資産額に応じた権利を持つ場合の二通りの民主制がある。後者は、株主民主制が代表的である。議会議員選挙は国民一人一票である。戦前の日本、ドイツ、イタリアは、全体主義国家であったが、民主制でもあった。あのヒトラーも選挙で選ばれている。民主主義だからといって独裁国家にならないという保証はどこにもない。近年ではトルコのエルドアン、ロシアのプーチンが独裁制を強めており危ない。さらにポーランドもおかしい。民主制ではない国家の代表は中国だ。共産党一党独裁である。政府は共産党によって運営されているわけで、役所も軍隊も共産党の組織であって政府の組織ではない。国民全員が党員ならば、共産党という党そのものの存在が無意味である。中国の総有権者数に占める共産党員数の比率は約7%か8%といったところだから、少数の国民による一国独裁といって良い。こういう簡単な説明が、様々な文献のどこにもない。現在の日本は、自民党が政権政党ではあるが、司法、立法、行政の三権分立が建前であり、自民党が直接三権に関わることはない。従って、自衛隊は自民党の思い通りにはならない。欧米先進国も同様である。しかし、中国の軍隊は共産党の指揮下にあるので、党総書記、党中央軍事委員会主席である習近平の意思決定で動く。元来、国家と政府は別ものである。政府は国家運営を行う組織体である。政府が破産したとしても国家が崩壊するわけではない。ここまでくると国家とは何かを考えなくてはならなくなるが、これはもう少し後で考えよう。

 

 民主主義国家では、ポピュリズムは政治手法の常套手段である。最近では、フランスのルペンのようにポピュリズムどころかデマゴーグではないかと思える大統領候補さえ出てきた。ところで、ポピュリズムとデマゴーグの違いは何か。ポピュリズムは、大衆迎合主義というように訳されるが、大衆の望むような政治公約を掲げる政治姿勢を言う。選挙に勝つためには当たり前の手法である。例えば、税金を安くする、医療費を無料にする、学費を無料にする等は典型的なポピュリズムの政治公約である。最近のヨーロッパの極右政党は、ポピュリズムというよりデマゴーグである。デマを流して国民を扇動するのだ。最近ではフェークニュースと言っている。民主主義という政治システムは、ポピュリズム、デマゴーグという欠陥を内在している。自由で平等な国家にとって民主制は必須のシステムではあるが、自由・平等・法という甘い果実もぶら下げているのだ。だから、民主制の国家であっても独裁国家となりうるのである。

 

  最近のいくつかの政治的話題を見ても、何かがおかしいと思うが、人間というものは元来、ややこしくおかしなものなのだ。人間をややこしくおかしくしているのは知性である。勿論、動物的本能や生存本能、感性等の全ての知的生命活動を含む知性のことである。知性の本質とは何か、人間は何故このように堕落するかについて迫ってみる必要がある。それでは、どのようにこの問題に迫ることができるのであろうか。普通の学者ならば、抽象的に、形而上学的に、哲学的に、論理的に、つまるところ真面目に迫るであろうが、いい加減な評論家であり研究者である私は、不真面目に迫る方が適している。

 

 ところで、堕落とは何かであるが、和英辞典で引いてみると、あるわあるわ、沢山ある。人間は、これほどまでに堕落するのだ。名詞、動詞、形容詞等いろいろあるが、関係なく挙げると次のようである。

 corrupt,fall,degrade,rot,vicious(vice),lapse,decline,seduce,astray

 最初のcorrputはcor(共に)とrupt(決裂、折れる)とが合わさった言葉だから共倒れだし、折れるのだ。fallは文字どおり落ちるのである。degradeはグレードが低くなるのだから品質の低下で、品のないことだ。rotは腐敗を意味し、芯から腐った奴のようにに使われる。viciousは意地の悪さだから生まれながらの悪だ。lapseは過失や堕落を意味し、declineは下に曲げることだ。seduceは誘惑だし、astrayは道を外れる意味である。底意地が悪く、品格がなく、腐れきった奴で、誘惑に弱く、人生の脱落者ということになる。堕落の対象は人間だけではない。こういった人間を多く抱える組織、社会も対象だ。

 

 全て堕落に通ずる言葉だが、これだけではほとんど説明されていないに等しい。キリスト教では原罪を意味するらしい。アダムとイブが楽園を追われ現世に落ちて堕落するのである。現世は堕落に満ちている。といっても宗派によって解釈は様々なようだ。

 漢字源で「堕」の意味を見ると、丘や盛土が崩れる様が語源である。ただ落ちるのではない。苦労して盛り上げた土が崩れるのである。崩れては再び土を盛り、そしてまた崩れるのである。

 

 仏教では、現世は混沌としていて善人もいれば悪人もいる。欲望にあがないきれないのが現世なのである。仏教の教えに従っていればまんざらこの世も悪くないが、従わなければ堕落しこの世で苦しむことになるといった程度の堕落である。

 これから話を進める堕落とは、宗教的な意味合いの堕落とは少し違う。漢字の語源の方がより近く、人が積み上げてきたモノが崩れ落ちる様である。堕落とは、人々が作りあげてきた、あるいは作ろうとしている倫理・道徳・規範、その他もろもろの常識、人の道に背く様なのである。

 

 表題の「堕落論」は、坂口安吾が昭和二一年(一九四六年)四月に発表した「堕落論」からいただいた。坂口安吾は、戦争で焼け野原となった東京の片隅で生き延びた。戦時政府が崩壊し、それまで信じてきたものが全て無に帰した中で、人々が必死に生きようとする様に「堕落」を見たのである。それは、人間が極限的状況におかれた時の思考と行為を記録したものではない。人間が堕落する様に対する「叫び」なのである。

 

 最近の研究では、人間の進化は止まったと言う。700万年前に二足歩行を獲得したヒト属が、450万年という途方もない時間をかけて道具を使うヒト属のある種に進化する。それから、更に225万年をかけて現在のホモ・サピエンスとなる。今から25万前のことである。このホモ・サピエンスが現代人の祖先であるが、7万年前に発生したインドネシア・スマトラ島のトバ火山の大噴火によって地球が寒冷化し、人口1万人程度まで減少する。この人口減少が、現代人の遺伝的均一性を生み出した。現代に至る7万年の間に、人間は知性を発達させ、文明を生み出し、人口70億人にまで達した。しかし、遺伝子の多様性は失われた。遺伝子の多様性は生命体進化の原動力であるから、遺伝子の多様性が失われたことにより進化が止まったという説には説得力がある。遺伝的均一性により進化は止まったが、一方では知性の進歩を促した。人間は、絶滅の極限状況において知性を獲得した。しかし、知性の進歩と引き替えに堕落も獲得したのである。犬や猫を見ろ。実に真面目に生きている。サルにしてもごくごく真面目に生きている。人間以外の生命体の生き様は見事に真面目であり、決して堕落することはない。堕落は、知的生命体である人間のみが持っている。知性の進歩の本質は、堕落にある。

 

                                2017年7月