以下、ネタバレあり。
冒頭のシーン、重要な意味がさり気なく込められていたと思います。
主人公ランボーはボランティアとして人命救助活動に参加し、水害に見舞われた山中で初老女性の遺体を発見。
遺体発見現場から少し移動したところで彼女の夫と若い女性を見つけますが、夫は妻の死を受け容れることができず、ランボーの制止を振り切り「妻を捜しに行く!」とその場を離れ、命を落とします。
若い女性の救出には成功し彼女から礼を言われたランボーですが、「あの男性も救うことができたはずなのに……」と罪悪感に。
以上の冒頭シーン、本題となる後の展開から独立したエピソードに見えつつ、二重の意味で伏線となる重要な情報が提示されていると解釈しました。
ひとつには、男性の救出に失敗した理由。
「あんたの奥さんは死んでた。彼女のことはあきらめて、せめてあんたは助かれ」みたいなことを言ってしまったのは、明らかに判断ミス。
嘘も方便的に、「あんたの奥さんはほかの救助隊員に任せて、まずは俺と一緒に逃げよう」とでも言うべきだった。
対話によるコミュニケーション能力がもともと欠如しているのか、あるいは「客観的かつ正確な情報を仲間どうしで共有すべし」という元軍人としての習性が抜けきらないせいなのかは分かりませんが。
いずれにせよこれは、本題となる後の展開を暗示してます。
冒頭シーンでもうひとつ注目すべきは、若い女性をひとり救出できたこと。
救出に役立ったのは対人殺傷スキルではなく、自然災害に対するサバイバルスキル。
これは、本題となる後の展開と見事な対比対象になってます。
ストーリーが本題に入ってしばらくすると、ランボーはまたもや対話によるコミュニケーション能力の欠如を露呈してしまう。
住み込み家政婦の孫娘、ガブリエラを姪っ子のように大事にしているランボーですが、「実父と会うために、メキシコへ行きたい」と相談を持ちかけられ、「きみの父親は、会う価値などない男だ」と頭ごなしな言葉を放ってしまう。
翌日、ガブリエラが祖母にも同じ相談を持ちかけていると知るや、「そのことなら、昨日しっかり話し合っただろ」と、またもや丁寧な対話を避けようとしてしまう。
ガブリエラは祖母やランボーに無断で単独メキシコ入りし、犯罪カルテルに捕らわれ、クスリ漬けにされ売春を強いられることに。
彼女を捜すためランボーがメキシコ入りした後の展開は、観ていてかなりしんどかった(ちなみに、ガブリエラの祖母から「警察に助けてもらえないの?」と言われたランボー、「警察はよその国では動けない」と言いますが、これはパート2と3との対比として面白かった。「世界の警察」であるアメリカ合衆国の依頼で活動した際は自ら他国で暴れまくったのに、国境を越えることができない本当の警察には助けを期待できない)。
ガブリエラの身柄を奪還すべく娼館に乗り込み、武器に選んだハンマーを『オールド・ボーイ』のオ・デス以上にバイオレントに振りまわしますが、このシーンにこそ最も重要な意味が込められているかも。
娼館の用心棒の側頭部を横殴りにし、若い娘たちが客の相手をさせられる個室に順番に押し入り、客の顔面や股間を叩き潰す。
各個室の娘がガブリエラかどうかを確認し、赤の他人である見知らぬ娘であると分かっても見捨てる気にはなれず、一人ひとりに「逃げろ!」と促す。
娘たちはランボーが善意の男であると認識してもなお、「逃げても捕まって殺される!」と応じない。
見知らぬ娘たちの救出は断念したものの、ガブリエラを娼館から連れだしクルマに乗せますが、彼女は車内で息を引き取ります(死因はおそらく、クスリを大量に注射されたこと)。
このくだりは、冒頭の人命救助活動の顛末と対照的に思えました。
自然災害に対してはサバイバルスキルを駆使することで若い女性をひとり救助できたのに、
犯罪組織を相手には、対人殺傷スキルを、武力を駆使しても若い女性をひとりとして助けることができない。
肉親同様に大事にしているガブリエラをふくめ。
見知らぬ娘たちが逃亡を拒んだのは、「目の前のこの男(ランボー)が正義の味方でも、犯罪カルテルに勝てるわけがない」と計算したため。
ガブリエラの救出に間に合わなかったのは、犯罪カルテル構成員たちとのファーストコンタクトで袋叩きにされたランボーが、数日のあいだ意識を失っていたため。
この映画が伝えたいことはもしかしたら、「自然と違い、人間は相手に勝とうとする意欲を持つため、武力による競い合いには際限がない。よって武力の行使で問題を解決しようとすれば、より強大な武力に最終的には屈することになる。その勝敗は、道徳上の正邪によって左右されることはない」ということかも。
もしそうだとすれば、武力においてアメリカがソ連に優越してほしいという願望、道徳的にもアメリカが正しいという主張が根底にあったパート3のスタンスを、同じ俳優が演じる同じ主人公の作品をもって否定していると言えそう。
クライマックスシーン、ランボーによる復讐行為がアクション映画のヒーローらしい美しさからはほど遠く、ホラー映画の殺人鬼のように醜悪な光景をもたらすのも、武力への憧れを観客たちに抱かせたパート2と3を否定したかったからかも(パート4のクライマックス、敵兵たちの体を肉片に変える描写の積み重ねも同様)。
ラストシーンのロッキングチェアに座っての独白は、ガブリエラが生き返るわけではない虚しさが強調されていて、復讐によるカタルシスと共に劇場を後にすることが私にはできなかった。
以上はもちろん、すべて私の勝手な解釈。
スタローン本人がこの記事を英語に訳して読めば、「俺の作品を曲解しやがって! ムカつくんだよ、ほんとよー!」と激怒するかもしれません(まあ、読まれることなど絶対ないので、安心して好き勝手書けるのですが)。
仮にもし、私の無理筋すぎる解釈がマグレ正解だったとしても、スタローンがイーストウッドのようになることはないだろうと予想してます。
イーストウッドが悪党への暴力制裁でカタルシスをもたらす映画を量産したくせに、『許されざる者』で暴力否定路線に移行した理由のひとつは、加齢による肉体の衰えだったかも。『ダーティハリー4』で相手の胸ぐらをつかみ拳を振り上げる動きの鈍さは、見ていて痛々しいほど。
当時のイーストウッドより今のスタローンはふた周りほど年長ですが、まだまだ動けそう。
今の肉体と身体能力を維持できるかぎり、『エクスペンダブルズ』シリーズのようなマッチョ映画も作りつづけそうな気が。
ランボー・シリーズを今後も作る場合、2と3のようなラジー賞が似合う作品にせず、4と5と同じかそれに準ずる完成度にしてほしい。