劉さんの閑話(アメブロ版)

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上海生まれの大阪人を自認するフリーコラムニストの筆者が、日本滞在60年超の視点から、日本と中国双方のいろいろな話題について書く「閑話」である。

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7月9日から日本の入管法が変わり実施されているその中電気になることがあったので、以下の人民網の記事を転載します。
いささか文章が私のタッチとは違うのだが・・・・・



 はっきり言えば、今回日本が弄した小細工の目的はただ1つ。中国の大陸部と台湾の間に楔を打ち込む両岸離間策なのだ!

 実際、日本政府にとって今回の措置は両岸関係を打ち破るうえで「便利」に働く。南中国海紛争が続き、釣魚島(日本名・尖閣諸島魚釣島)沖での中日の衝突が激化する敏感な時期に、日本は「上手い具合に」制度を改正し、両岸民衆の感情に水を差した。その真の魂胆は「(髪のない)和尚の頭上にいるシラミ」のように一目瞭然だ。

 今回の制度改正の目的は(1)両岸の平和発展、融合と統一の趨勢にごたごたを起こす(2)両岸民衆に互いに猜疑心を抱かせ、感情的な亀裂を生じさせる--の2つに他ならない。もちろん日本は心の準備をしたうえでこうしているのであり、この措置が中国政府の反発を招くことは彼らも知っている。彼らの考えでは、第1に最近中国は南中国海問題への対応に疲れ、こうした「小さな事」に配慮する暇はないため、大きな動きに出ることはない。第2に「在留制度改正は日本の内政であり、他国に干渉の権利はない」との姿勢を示すことで、他国を抑え込むことができる。

 だが日本が喜ぶのはまだ早すぎる。中国政府にとって「1つの中国」という核心的利益に関わる問題において「小さな事」などない。1972年9月29日の国交正常化時の中日共同声明で、すでに日本政府は「1つの中国」の原則を承認している。在留カードに「台湾」と記載することは断じて日本の「内政」ではなく、共同声明への公然たる違反である。すでに先日、日本華僑華人連合総会は法務省に抗議し、規定の改正を要求した。

 今年は中日国交正常化40周年だ。日本政府は中国政府と共にこの機会をしっかりと捉えて一層の善意を示し、中日関係の前向きな発展を促すことで、自国により多くの機会を創出し、国民の所得を増やすのが本来の筋だ。この時期に考えを歪め、雑音を作り出すとは、日本の一部政治家の近視眼と無責任さを証明するだけだ。中国側が座視し、「切るべきカードがない」ということも断じてあり得ない。(編集NA)

 「人民網日本語版」2012年7月11日

 

ことしは「七・七事変」(qiqi shi bian=盧溝橋事件)が起こってから75周年にあたる。中国では、この時期必ずいろんな形で関連の記念行事がおこなわれる。

 

テレビ番組でも抗日戦争関連の記録映画やドラマが放映される。中国の「老百姓」(lao bai xing=人民・大衆)の関心は低く、他のチャンネルでさかんに放送されている娯楽番組のほうが人気をあつめている。

中国でも「戦争をしらない」人が増えているのである。13億人の中国人のなかで、かつての戦争を体験したことのある日とはかなりの高齢者だけである。

 

世界中で戦争はずっと、どこかで起こっている。わたしたちは「平和」な日本にいるとそれらとは全く「無縁」にくらしていけている。

しかしかつてイラクでは航空自衛隊が「後方支援」ということでアメリカ軍の「物資」の輸送をおこなっていた。「物資」の中身にはおそらく武器弾薬もふくまれているだろう。つまりある意味日本人も「戦争」に参加しているということである。

この輸送業務はクエートからバグダットまでを飛んでいたらしいが、陸上自衛隊のサマワでの「復興支援」活動より危険が多いといわれていた。

 

イラク戦争が開始されたころ、アメリカ軍への協力をしていた数多くの国が撤退していったなか、日本だけが大した議論もせずに、航空自衛隊の「後方支援」活動の延長を決めた。自衛隊員の無事をお祈りしていたものである。

 

盧溝橋事件の歴史から見ても、戦争への突入は一般国民のしらないところで突然始まることが多い。「歴史」に学びそうしたことにならないようにしなければと思う。

いま中日間には対立している事項は少なく無い。双方の国家指導者の間違いのない「舵取り」をねがうばかりである。

 

 

2005817日私は知人の紹介で中国国際電台(zhong guo guo ji dian tai=中国国際放送)の退職者が仕立てた貸切バスに便乗させてもらい「中国人民抗日紀念館」を訪れた。

 

この年はいわゆる「反日」運動が盛んであった年であり、しかも間もなく「九・一八」記念日を迎えるという時期であった。

かつてここを訪れたときはかの「紀念館」はこじんまりとした建物で訪れる人も少なく、中の展示物もお粗末であった。

しかし1997年当時の江澤民(jiang ze min)国家主席の肝いりで建てられた「愛国教育」の最重要拠点の一つだけあって、以前とは比べられないくらい立派な建物になり、中の展示物も豊富になっていた。

この日夏休み期間中であったせいもあるのだろうが、入場者も多くなかなか入場できなかった。展示室もまるでラッシュ時の駅構内のように混雑していた。

団体で来ている人達のガイドがそれぞれハンドマイクで説明をしているので、まさに雑踏のなかにいるようだった。

 

展示室は抗日の歴史を実物の武器やとう時の写真を系統的・時系列に整理してあり、分かり易い説明板も添えられていた。

ただ最後の展示室には最近制作された抗日映画のスチール写真などが展示してあり、それまでの展示物の真贋を「疑問視」されるかもしれないと思われる点が残念である。

 

「紀念館」のメインホールには「毛澤東」(mao ze dong)「鄧小平」(deng xiao ping)のことばとともに、江澤民(jiang ze min)前国家主席と胡錦涛(fu jin tao)国家主席のことばが大きな「漢白石」(han bai shi)にエンジ色できざまれていた。

 

江澤民氏の書は「愛国主義の旗標を掲げ、歴史教育によって中華民族の精神を高揚させ祖国の振興を図ろう」というような意味であるが、一方胡錦涛氏は「歴史をしっかり記憶し、過去を忘れず、平和をこよなく愛し、未来を切り開こう」というようなものであった。

 

江澤民氏のことばからは「強い中国」への意思を感じ、胡錦涛氏のことばからは「未来志向」の意思を感じた。

江澤民氏のこの意向はその当時からあまり日本のマスコミ等でも不人気であったが、最近の温家宝氏の訪日時の姿勢などからもおおむね胡錦涛氏のほうが日本での「評判」は良いようである。

ただ東京都の石原知事が尖閣列島を東京都が買い取る意向に対し、中国は「極右」の言う妄言ととらえていたが、ここへきてのださんがきゅうに「国」が」所有いう意向を出したことに中国は猛反発してきた。中日国交正常化40周年という節目の年に、また難しい問題となりそうである。 

 

どこの国の国歌もある意味でその国の成り立ち、歴史そのものを表現しています。

中華人民共和国国歌もそうです。フランス国歌が「フランス革命」を象徴し、アメリカ国歌も「独立」を記念したものです。

 

中華人民共和国国歌の原題は「義勇軍行進曲」といいます。

もともとは上海の進歩的知識人の田漢がシナリオを書いた東北地方の抗日運動をえがいたドキュメンタリー映画「風雲児女」の主題歌であった。

作曲者は雲南省昆明出身の聶耳(ニエアル)で、この歌詞に感動して自ら作曲を申し出たそうである。

この映画の制作された当時は1931年9月18日の柳条湖事件(満州事変)勃発以来、中国国内は日本とたたかうのではなく、国民党と共産党の内戦がくりひろげられていた。蒋介石の国民党に追われていたのが民主的な作家田漢でした。

そして1934年に田漢が逮捕され、そのころ「義勇軍行進曲」の作曲を手がけていた聶耳の身辺にも国民党の影が忍び寄ってきます。

1935年聶耳も身の安全のために日本に亡命します。
 東京で「義勇軍行進曲」は完成し、すぐさま上海に楽譜が届けられたのです。

 

この映画「風雲児女」の主題歌はたちまちのうちに中国人民の心を捉え、抗日戦争を戦う人々の応援歌になりました。 新中国の成立後こうしたいきさつから国歌に制定されました。

現在は建てなおされた盧溝橋の近くにある「中国人民抗日紀念館」(中国語で記念は紀念と書く)建て替えられる以前の「紀念館」の入口には中華人民共和国国歌「義勇軍行進曲」の歌詞が大きく掲げられていた。

以下に中華人民共和国国歌「義勇軍行進曲」を紹介したい。


起来!不願做奴隷的人們、把我們的血肉築成我們新的長城。
(起て 隷属を望まぬ人々よ われわれの血と肉で新しい長城を築こう)

 中華民族到了最危険的時候、毎個人被迫着発出最後的吼声。
(中華民族に最大の危険が到来した すべての人が最後の雄たけびを上げよう)
 
起来!起来!起来! 我們万衆一心、冒着敵人的炮火、前進!
(起て 起て 起て  われわれの心をひとつにして 敵の砲火に立ち向かって 突き進もう

 冒着敵人的炮火、 前進!前進!前進!進!
(敵の砲火に立ち向かって 突き進もう 突き進もう 突き進もう 突き進もう)

 

 

 

盧溝橋lu gou qiao=ろこうきょう)は北京郊外南西約15kmの永定河(yong ding he)に架かる石造りのアーチ橋である。1192に完成したが、その後度々修復されている。

全長は266.5mで、11個のアーチからなる。アーチ一個はおおよそ11mの大きさで楕円形をしている。

橋の欄干には総数は501個の獅子彫刻があり、それぞれ異なる表情・姿をしている。

かつてここを訪れたマルコポーロはその著書東方見聞録4章の中に「世界中どこを探しても匹敵するものはないほどの見事さ」と書いた。

また橋のたもとには文人・書家としても名高い清朝第6代皇帝の乾隆帝(jian long di=けんりゅうてい)の筆と伝えられる「盧溝暁月」(lu gou xiao yue)の石碑がある。

代々皇帝がここで月見をしたという事から、いまでも中秋節(zhong qiu jie=中秋の名月=農暦8月15)の夜には月見をしに多くの市民が訪れるという。

私はここを数度訪れているが、20年ほど前に訪ねた時はまだ橋の上をトラックなどが自由に通行していた。しかし近年、橋の痛みがはげしいため、ようやく通行禁止処置がとられている。現在では両側にフェンスが設けられ入場料(料金がいくらだったのかは失念した)が徴収されている。

 

1895年から始まった甲午戦争(jia wu zhan cheng=日清戦争)に翌1895年に日本が大勝利し、台湾を日本の植民地とした。そして1905年に日露戦争に勝利した日本は中国東北部に多くの利権を得た。やがて1911年代次世界大戦に参戦し、ドイツから遼東半島の利権を奪い取った。遅れれてきた「帝国主義」日本は着々と中国東北部を反植民地化してゆき、やがて1931年いわゆる「満州事変」を起こし、1932年日本の傀儡国家「満州国」を建国し、事実上東北部を植民地として手にいれた。

 

さらに「宣戦布告」なき戦争は拡大してゆくが当時の中華民国総統の蒋介石は日本軍とたたかうより、共産党軍との内戦に熱心であった。

193777日の盧溝橋の「銃撃事件」をきっかけに、国民党軍と共産党軍の「国共合作」が成り、本格的な「抗日戦争」がはじまった。

 

7月7日といえば、日本人のほとんどが「七夕祭り」の日を思い浮かべる。中国人の100%は「七・七事変」(qiqi shi bian=盧溝橋事件)を思い浮かべる。

 

現在、仙台市などの一部地域を除く日本の各地で陽暦の7月7日で毎年「七夕祭り」(たなばたまつり)が盛大に催行される。

 

古代中国(西暦2世紀頃)では陰暦のこの日、牽牛(けんぎゆう)・織女(しょくじょ)の二つの星を男女2人の恋人に見立てて年に一度、天の川を隔てて逢瀬を楽しむと言う伝説があった。

これをもとに中国の宮廷で行われていた乞巧典(qi qiao dian=きっこうてん)という節句である。やがてこの行事が奈良時代に日本に伝わったのがこのまつりの始まりである。

 

本来は陰暦の7月7日に行われるべきものである。陽暦では8月になる。よく晴れた真夏の夜に美しい天の川を見て連想した伝説を、現代の日本のように太陽暦の7月7日を七夕祭りとしてはまだ梅雨の季節のさなかなのでしばしば雨に降られて星も見えないこととなる。

伝統的な「節日」(jie ri=おまつり)を農暦(陰暦)で催行する中国人にとっての「七夕」(qi xi)は、ことし陽暦2012年では8月24日がそれにあたる。

 

さて「七・七事変」(qiqi shi bian=盧溝橋事件)とは、193777日に前年から3倍に増強された5000名以上の日本の「支那」派遣軍が北京(当時は北平=bei ping)西南郊外の盧溝橋付近で大演習をくり広げていた時、対岸の中国軍の発砲(真偽には異論も)によって偶発的に両軍が衝突

し、やがて本格的な「日中戦争」に突入していった日をいう。

 

この日は中国人にとって1931918日に起こった「九・一八事変」(jiuyi bas hi bian=満州事変=柳条湖事変)などとともに、「抗日戦争」(kang ri zhan zhen)関連の重要な記念日である。

なお現在この盧溝橋のそばには「中国人民抗日戦争紀念館」(中国語では記念を紀念と書く)がある。(つづく)

 

野田総理は国民との約束「マニフエスト」をかなぐり捨てて、自民党・公明党に擦り寄り、大事な目玉政策をすべて先送り棚上げして消費税増税にまっしぐら。


 こんな政党に政権を委ねた国民は殆ど無く、皆裏切られた気分でしかない。

とりあえず0増5減の定数是正だけはやって、早く下野しろと言いたい。


 若い1年生議員は原点に帰って、個人として振り出しから自分の信じる政策をしっかりと大衆に訴える気持ちで選挙に望んでほしい。小選挙区では議員の「民主党」ではなく、個人名で投票するのだから・・・・!!

 

今日は私が40数年前に卒業した大阪中華学校の創立記念日である。

大阪にある華僑の民族教育の重要な学校で、幼稚園から小学部・中東部と併設されている。私はここの小学部を卒業したのである。

私の中国語の基礎はここで培われたのである。

 

この学校は中華民国僑務委員会(わかりやすく言うと台北政権の華僑政策を進める機関)の支援と管理下にある学校で、教科書等も台湾で使用されているものを使っている。

 

漢字は「繁体字」で発音記号も注音符号というもので、大陸中国やいま世界中でおおくもちいられている「簡体字」ではないため、低学年の折はちょっと苦労することも多いかもしれない。しかし一方「古典」を学ぶ折には有利に働く。

私はこの学校で基礎を学んだおかげで古典も多少はよめる。

 

午前11時ころ校門を入ると先輩2人に出会った。1人は先日他で出会ったとき誘っていた楊さんとその同級生でもある神戸の華僑学校の前校長ご夫妻であった。

私たちがそこであいさつを交わしていると、母校の現校長陳女史が私たちを応接室の案内してくれた。

そこにはこの学校の理事者たちがたくさんおられたが、私は従前からここではペンネームを使用している。しばらく彼らと談笑して校内を見て回った。かつて私の学んだ教室も丁寧に使われているからなのか、おおむねその雰囲気は同じであった。

 

何人かの見知った顔との交流もしながら、2時間ほど母校で懐かしさをかみしめながらきたくした。次は10月の運動会には同級生を誘ってみようと思った。

 61日より円と人民元の直接取引を開始することが始まった。

これにより、日本円は米ドルに続き、人民元と直接取引を行う新たな国際通貨となった。

人民元が世界3大通貨(米ドルユーロ、日本円、)の1つである日本円と直接取引を開始するということは、人民元の国際化がまた重要な一歩を踏み出したことを意味する。

これは、米ドルの独占的地位を揺るがすだけでなく、アジア経済の一体化を推進する役割も果たすとみられる。


とりわけアジア・アフリカなどの多くの新興国にとって、米ドルを迂回できて、その国々の貿易にとって、為替のコスト減少するということでメリットが多くなるとみられる。

今日は世界禁煙デー。中国人の私にとって、中国人のある悪習の撲滅を訴えたい。
中国人の伝統的なマナーではあるのだが、自分が喫煙したいときにその周囲の人全員にたばこを勧めるというのがある。
もちろん非喫煙者の私はそれを断ることができるのだが、禁煙の道半ばの人が、これでまた喫煙者に戻ってしまうのである。残念なことだが・・・・・。