≪ 京都通になれる雑学知識 ≫
第 2 章
古都・京都にある寺社の謎!
- Kyoto 49 -
【 天 龍 寺 】
庭造りが持病だった夢窓国師と
曹源池庭園
天龍寺大方丈の前に広がる曹源池庭園。
開山・夢窓国師は、
禅の修行として庭造りに汗をかいた。
庭はあたかも深山幽谷の水墨画を見るようで、
巨石と松が印象に刻まれます。
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天龍寺開創に込められた
「怨親平等」の精神
天龍寺は正式には、
「霊亀山天龍資聖禅寺」と言います。
創建されたのは1339(暦応2)年。
1339年8月、
吉野南朝の行宮で後醍醐天皇が崩御された年である。
後醍醐天皇は・・・
「玉骨(亡骸)は南山(吉野山)の苔に埋もれても、
わが魂魄は常に北闕(宮城)の天に望まん」と、
遺言された。
後醍醐天皇と親交のあった天龍寺開山の夢窓礎石は、
天皇の意を忖度し、帝に叛旗を翻し、
蟠りが解けぬままだった足利尊氏を諭したという。
「帝の菩提を弔い、魂魄を鎮められてはどうか」と。
夢窓国師の言葉に尊氏は頷き、
天龍寺の創建となったのである。
天龍寺の開創精神の1つに
敵味方の差別なく等しく接するという意味の
「怨親平等」という言葉があります。
これは正しく夢窓国師が
尊氏に説諭した精神につながる言葉である。
天龍寺の境内は、
後醍醐天皇が幼い頃に修学された
亀山離宮があった地である。
波瀾に富んだ生涯を送られた天皇ではありますが、
今は故地に慰撫され、
安堵されているのではないでしょうか?
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「私の庭を見て、何と答えるか?」
夢窓国師の声が聞こえる庭
夢窓国師は・・・
伊勢国に生まれた人物で、
釈迦如来の再来とまで言われた高僧である。
その国師自らが選定した境内の美観が、
「天龍寺十境」である。
1つに嵐山の渡月橋があります。
現在は境外だが、
国師の時代は宏壮としていたとうかがえます。
また1つに、
大方丈の西に亀山を借景にした
池泉回遊式庭園の「曹源池庭園」がある。
夢窓国師は、大方丈の林泉として作庭したが、
生来「水石」に心を寄せており、
自ら著した『夢中問答』にあるように、
「山水には得失なし、得失は人の心にあり」
と喝破しています。
つまり、
《人の心には損得利害の執着があるが、
山水にはそれがない》 と
解釈できます。
国師は、
庭造りを禅の修行と心得ていたようで、
山水を愛でる精神も極めて強かったという。
大方丈の広縁に坐して眺める眼前の池には、
洲浜形の汀に小島が配され、
白砂と松の緑が石を二段に立て、
滝の落水を表している。
これに鯉魚石を配して、
「登竜門」の故事になぞらえています。
国師は、
この庭造りにどれほどの汗を流したであろうか?
「禅の修行」という汗だという。
国師は自らを
「煙霞の涸疾、泉石の膏肓」と称したのである。
《自分にとって、山水を好む習癖と庭造りは持病のようなもの》、
という意味である。
- 天龍寺曹源池庭園 -
☆天龍寺とは・・・☆
天龍寺 とは・・・
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある、
臨済宗天龍寺派大本山の寺院。
山号は霊亀山。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺と称する。
本尊は釈迦如来、
開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。
足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として
壮大な規模と高い格式を誇り、
京都五山の第1位とされてきた。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
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★ 龍虎 俊輔 ★
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