京都通になれる雑学知識100 [Kyoto 29] | 龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

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《 京都通になれる雑学知識

第2章
古都・京都にある寺社の謎

- Kyoto 29 -
【 方 広 寺
家康を呪い、豊臣家を滅亡させた
梵鐘と大仏

関白・豊臣秀吉は、
その権力を誇示するかのように、
大仏建立に着手するが、
大仏は “造っては壊れる ”を繰り返し、
梵鐘に刻まれた銘文が、家康を激怒させた。


地震・落雷・火災・・・
    不運を背負った京の大仏

東山・阿弥陀ヶ峰に眠る豊臣秀吉は、
1585(天正13)年7月、
関白に就任した。
そして
翌1586(天正14)年、
方広寺を創建した。
当時の境内は、
京都国立博物館の敷地に及ぶほどの広大であった。
そして、
かつてココに巨大な大仏殿があり、
奈良・東大寺の大仏によりも大きな大仏が安置されていた。
この事を知る人は、
歴史好きを除ければ、多くないでしょう!

秀吉は1588(天正16)年、
荒廃していた方広寺の再興と、
大仏の建立を思いついたという。
建立に携わった人数は延べ約6万人、
8年の歳月をかけて、
1595(文禄4)年に完成した。
西向きの大仏殿は、
高さ約50m、
内部に高さ約19mの漆塗りで金箔を施した大仏が
鎮座していた。

しかし!

この大仏は不運に見舞われ続けたという。
先ずは・・・
1596(慶長元)年閏7月23日、
畿内大地震により倒壊。
秀吉もまた2年後の
1598(慶長3)年にこの世を去った。

残された淀殿・秀頼親子は、
大仏再建に執念を見せたが、
この再建大仏は、
1602(慶長7)年12月4日、
鋳造中に出火し、焼失してしまう。
3度目の大仏は、
1614(慶長19)年11月に完成したが、
1662(寛文2)年3月、再び地震により大破!
そして、
4度目の建立した際には、
今度は落雷に遭ったという。
1798(寛政10)年のことで、
その後
寄進による半身の大仏が安置されましたが、
1973(昭和48)年の火災で、
遂に京都から大仏は、姿を消したのである。


梵鐘の銘文が決した
   豊臣家と徳川家の命運


豊臣家の権力の象徴だった大仏は不幸が重なり、
京都から姿を消したが、
方広寺には、
今も豊臣家ゆかりの梵鐘が残っています。
この梵鐘は、
鋳造時の姿のままで、
重量は88.7t、高さは4.2mである。
大仏再興の慶長19年に鋳造されたという。
豊臣家の重臣である片桐且元が、
鋳造の総奉行を務めた。
梵鐘の表側胴回りには、
「洛陽東麓」で始まる銘文が刻まれています。
その最後の方に
「国家安康・・・君臣豊楽」の銘文が
刻まれています。
この一文が家康を激怒させる大問題へと発展した。
この鐘銘を書いた人物は、
東福寺塔頭・天得院の文英清韓だった。
だが、
この清韓は・・・
なんと!
家康の信任厚かった
津藩主・藤堂高虎にゆかりある人物であった。
1614(慶長19)年7月26日、
先の一文が家康を呪うものだと
家康側から横槍が入ったのだ!
すぐに
且元と清韓は駿府へ赴いたが、
家康に詫びるが許されず、
家康はこれを契機にして、「大坂冬の陣」を仕掛け、
翌1615(慶長20)年5月、
「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼした。
淀殿49歳・秀頼23歳の若さだった。

方広寺は、今も東山にありますが、
この寺が、豊臣家と徳川家の命運を変えた寺だと
気づく人は少ない!



☆方広寺とは・・・☆
方広寺
は、
京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。
通称は「大仏」または「大仏殿」。
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として
創建された。



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