《 京都通になれる雑学知識 》
第 1 章
古都・京都の歴史を知る街歩き
- Kyoto 21 -
京都には船が山を越えて
やって来ます
船は水に浮かぶものですが、
京都では、陸地を走ったという。
傾斜鉄道というインクラインに乗ってね。
■ 京都を起死回生させる
琵琶湖疏水計画!
1869(明治2)年の東京遷都は、
京都にとって大きな試練だった!
これにより、
人口が急減し、産業は振るわず、
停滞していた。
近代都市への脱皮が急務であったという。
1881(明治14)年2月、
京都府知事・北垣国道氏は、
あるプロジェクトを実行するべく行動に出た。
その行動とは、
琵琶湖の水を京都に流し通す「琵琶湖疏水」の計画である。
これには運河を開創し、
船による物資の運搬を可能にし、
生活用水を確保し、水力発電による産業復興も
念頭にあったという。
この琵琶湖疏水計画は、素早く実行に移され、
明治14年4月には、
京都から大津間の測量が開始された。
そして、
1883(明治16)年2月には測量が終了し、
同年11月には、
「琵琶湖疏水起工伺」が政府に提出された。
1885(明治18)年1月29日に起工特許がおり、
工事が始まったのである。
■ ケーブルカーの原理を活用した
インクライン
琵琶湖疏水工事の主任技師には、
東京大学工学部の前身の1つである工部大学校を
卒業したばかりの21歳の青年技師・田邊朔郎氏が抜擢された。
この抜擢こそ、北垣知事のサプライズ人事である。
結果的にはこのサプライズが
成功したのは言うまでもない。
田邊氏は創意工夫と努力を重ね、
1890(明治23)年3月に第一疏水を完成された。
外国人労働力を借りずに
日本人による技術力を大いに発揮した出来事であった。
琵琶湖疏水は、
滋賀県大津市の取水口から第一トンネルを潜り抜け、
京都市山科区から第二、第三トンネルを通過し、
京都市蹴上までの全長8km。
琵琶湖からゆったり進んできた長さ15m前後の底の浅い
三十石(約4トン】の船は、
約1時間30分~2時間の船旅を終えて、
蹴上で陸揚げされ、
台車に乗せられ鉄路を下ります。
この台車が走った傾斜鉄道のことを
「インクライン」と言います。
鉄路は約582m、幅約22m、高低差約36m、傾斜3.8度。
また台車は南禅寺船留まり迄下り、
再び、水に浮かびます。
インクラインに沿って延びる大きな鉄管は、
琵琶湖疏水を蹴上で水力発電に
使用するために設置されたもので、
水力発電による電力は、
傾斜鉄道の動力源にも利用されたという。
■ 春は桜並木の寂しき錆びた
鉄路に花は散る。
人気のないインクラインには、
住時の台車が設置され、寂しさが漂うが、
春は桜並木が錆びた鉄路に花を散らします。
インクラインは、
明治24年11月から稼働し、最盛期には1日1500往復し、
約20万人の人達が、船旅を楽しんだという。
琵琶湖疏水は、
豊かな水量を流し続けています。
第一疏水完成後、
蹴上から南禅寺境内にある水路閣を経由して
哲学の道へ流れる疏水分線。
鴨川運河などが完成し、
総延長は・・・・
なんと!
30.7km。
インクラインは、
陸上交通網の発達により、
1948(昭和23)年に休止となり、
1951(昭和26)年に廃止となった。
インクラインへ行くには
地下鉄東西線「蹴上」駅下車、徒歩2分。
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★ 龍虎 俊輔 ★
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