京都通になれる雑学[Kyoto 11] | 龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

歴史作家の龍虎俊輔本人によるブログ。

国内旅行、寺社仏閣、京都に関してを題材にして、
言いたい放題。+「☆本日はこんな日だ!☆」
「百鬼乙女関連記事」
一読したら、Facebookの「いいね」を押してね。
Twitterをやってる方は、ツイートしてね。

《 京都通になれる雑学

第 1 章
古都・京都の歴史を知る町歩き

- Kyoto 11 -
冥界を行き来した人物と並ぶ
紫式部の墓

『源氏物語』という珠玉の作品を残してこの世を去った
京都が生んだ偉大な女流作家・紫式部
その紫式部の墓が、
冥界男と並んでいるのはなぜか?


閻魔大王と会った男と
紫式部の不思議な縁

千本ゑんま堂(引接寺)で行われる「風祭り」を
ご存じでしょうか?
千本ゑんま堂の開基、
平安時代前期の公卿・小野篁が、
風となって冥界へ行き、閻魔大王と会い、
再びこの世に戻ってきたことに由来する祭りである。
7月1日~16日迄の間、開催されています。
境内に涼やかに風鈴が揺れ、
ライトアップされた真っ赤な閻魔様にお参りする。

千本ゑんま堂には紫式部の供養塔があります。
紫式部の墓、供養塔は
全国に3つ確認され、
そのうち京都に2つあるんです。
1つは、千本ゑんま堂の供養塔。
もう1つは、堀川通北大路下ル西側、
島津製作所紫野工場に隣接して
小野篁の墓と隣にあります。
この両方に共通するしているのは、
小野篁という人物と一対となっている点である。

何か理由があるんでしょうかねぉ~

ガリレオ流に言えば、
現象には必ず、理由がある!
ですかね。


紫野に誕生した、
     紫式部の故郷に近い墓所


小野篁と紫式部の墓が並んでいることは、
貞治年間(1362~1368)に発表された、
四辻(源)善成の『源氏物語』の注釈書『河海抄』に、
二人の墓の存在が記されています。
この書によると
「白毫院の南にあり」と
書かれており、
篁の墓の西側に紫式部の墓と、
記されています。

平安の昔、
宏壮とした境内地を有していた雲林院一帯は、
桜と紅葉の名所だったと云われ、
第53代淳和天皇の離宮「雲林院」が
営まれたところである。
雲林院は、
「紫野院」とも呼ばれていたが、
後に寺となり、
紫式部の著書『源氏物語』の「賢木」にも
登場しています。
光源氏が母・桐壺の菩提を弔うために、
桐壺の兄が律師となっている雲林院に
参籠するくだりである。
また、
『大鏡』にも雲林院で菩提講が開かれる様子が
描写されています。

源氏物語に記されたことから推測すると、
紫式部が雲林院を
よく知っていたのではないか?
当時、
雲林院の境内は広く、
現在の大徳寺一帯も含んでいたと言われています。
紫式部の産湯の井戸と伝わる古井戸が、
大徳寺塔頭の1つである真珠庵にあります。
今も涸れずに水が涌き出しています。
紫式部は、
雲林院周辺で誕生したのではないか?
そしてその亡骸は、
故郷である紫野の墓地に埋葬されたのであろう。
全て、推測の域を出っしていませんが。

現在、
紫式部の墓と並ぶ小野篁のことだが、
篁のほうが早く埋葬されたのは言うまでもない。
そして後に
お隣の空いていた墓地に紫式部が埋葬された。
このように考えるのが妥当でしょう。
短絡すぎるという
意見もあるかもしれませんがねぇ~

中級貴族の娘である紫式部が、
公卿・小野篁と並んでいるとはねぇ~
意外というより不思議ですねぇ~

小野篁やその一族と特別な関係があったのでしょうか?
小野篁は不思議な伝承の持ち主なだけに
不思議な謎の深みに填まってしまいそうですね。

死人に口なしですから、
残念ながら、真相は墓の中ですね。


注 意 事 項
文章中に記載した白毫院は、
既に廃寺となっています。
また、
雲林院は、
現在は大徳寺の南側に位置していますが、
境内の広さは、狭くなっています。



※※※※※※※※※※
 龍虎 俊輔 
※※※※※※※※※※