京都通になれる雑学[Kyoto 04] | 龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

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《 京都通になれる雑学

第1章
古都・京都の歴史を知るための町歩き

テーマ 4
京都へ行くことを「上洛します」というのは
なぜ?

唐の長安城、洛陽城を模範とした
【都城制】の町造り

794(延暦13)年以来、
平安京は着々と都造りが進行していた。
中国の都城制を参考にして、
南北に貫く幅約84mの朱雀大路を中心に、
内裏から見て、
東側が《左京》、西側が《右京》に分かれています。

この町造りに際し、
803(延暦23)年に遣唐判官として
入唐の経験を持つ菅原清公の具申により、
名称改善が提唱され、
左京を「洛陽城」、右京を「長安城」という
唐名が付けられた。

816(弘仁7)年には、
坊名についても唐風にするべしと
発令された。
そこで
桃花坊、銅陀坊、永昌坊、陶化坊といった
呼称が付けられた。
これらの呼称は、
長安、洛陽にあった坊名である。


左京の「洛陽城」の発展に伴い
平安京の呼称は「洛陽」に


平安京は前途奇瑞に満ちた船出であった。
しかし、
次第にある現象が顕著になってきた。
それは、
右京(長安城)の衰退にあった。

なぜか?

それは、
右京は湿地帯が多く、
住宅地には適していなかったという説があります。
それに対して、
左京(洛陽城)、
特に左京の北側は益々の発展を遂げ、
有力貴族たちの邸館も
左京の二条以北に並び建っていた。
このことは、
土地価格の高騰をまねき、
貧乏な貴族たちは
土地を購入することもままならぬ状態だった。

こういう背景に伴い、
長安城と名付けられた右京よりも、
洛陽城と呼ばれた左京が発展し、栄えていくことで、
平安京の別称として「洛陽」という名称が、
使われるようになったという。

そして、
江戸時代、
将軍が京都へのぼる(いく)ことを
「上洛」と言われるようになり、
現在も言葉として残っています。

尚、
現在の京都では、
大きな地域区分に、
洛東・洛西・洛北・洛南・洛中・洛外などの
呼び方があり、
学校名にも使われています。

因みに
京都に滞在することを
「滞洛」という言い方をする
場合があるそうです。


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 龍虎 俊輔 
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