悠久の不思議な歴史を巡る旅!【大原郷編】 | 龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

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[- 悠久の不思議な歴史を巡る旅 -]
≪ 大 原 郷 ≫

多くの
不思議な伝説が残る
大原郷歴史探訪の旅
本日が、日目

本日は
建礼門院に纏わる伝説を巡る旅
となります。

それでは!私と一緒に
悠久の不思議な歴史を巡る旅に
出掛けましょう!

不思議5
〔 汀の桜-寂光院- 〕
594(推古2)年、
聖徳太子が
用明天皇の菩提のために創建したと
伝えられている
寂光院の庭園の「汀の池」のそばにある
小振りな桜のことを
言います。


寂光院は
建礼門院のゆかりの寺
となります。


先ずは、
建礼門院の生涯を簡単にご紹介しましょう!

建礼門院は、
平清盛の娘で名は「徳子」、
後白河法皇の猶子として高倉天皇の中宮となり、
安徳天皇を出産。
木曽義仲の上洛により
平家一門とと共に西国に都落ち。


1185(文治元)年
3月
壇ノ浦合戦で入水したが、源氏に助けられて帰落。
吉田山のほとりで出家後、
寂光院の傍らに草庵を結んで隠棲し、
安徳天皇の冥福を祈りながら
念仏三昧の余生を送る。
陵墓は
寂光院の南方の大原西陵


1186(文治2)年
春、
訪れた後白河法皇と
往時を回顧した涙した話は、
『平家物語』の「大原御幸」で有名です。
「大原御幸」の時
女院は花摘みに外出していたが、
後白河法皇が、
「汀の池」の傍らにあった
青葉交じりの遅桜を見て、


" 池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛りなれ "

と詠んだことに由来するという。

この歌は、
千載和歌集に後白河法皇の御製として

子におわしましける時、
鳥羽殿に渡らせ給へる頃、
池上花といへる心をよませ給へる

として
掲載されていることから、
平家物語の作者が
そのまま転用したものだという。


『平家物語』は
寂光院の周囲の景観を、

ふりにける岩の絶え間より、
落とくる水の音さへ、故び由ある所なり。
緑蘿の墻、翠黛の山、
書に書くとも筆も及び難し

と表現しています。

翠黛の山は、
寂光院のすぐ西にある標高577mの山で、
昔は、
小塩山と呼ばれていたが、

現在では、
『平家物語』にちなみ翠黛山と名付けられ、
大原十名山の1つとして
数えられています。


最後に
もう一度!

◆ 建礼門院について ご紹介します。

本名:平 徳子
【1155(久寿2)年-1214(建保元)年】

高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。
父は平清盛、母は平時子。
異母兄に重盛、基盛。
同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。

院号は建礼門院

清盛と後白河法皇の政治的協調のため、
高倉天皇に入内して
第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。
安徳天皇の即位後は国母となるが、
高倉上皇と清盛が相次いで没し、
木曾義仲の攻撃により都を追われ、
壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、
平氏一門は滅亡する。
徳子は生き残り京へ送還されて出家、
大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。


『平家物語』「灌頂巻」では
大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、
全巻の幕引き役となっている。

しかし、
大原御幸以降の徳子の動静ついては

はっきりしていません!


◆ 寂光院につきましてもご紹介しておきましょう

寂光院
(じゃっこういん)

京都市左京区大原にある天台宗の寺院。
山号を清香山と称する。
寺号は玉泉寺。
本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は聖徳太子と伝える。
平清盛の娘・建礼門院が、
平家滅亡後隠棲した所であり、
『平家物語』ゆかりの寺として知られています。


≪その歴史とは・・・≫

寂光院の草創について、
明確なことはわかっていない。
寺伝では、
594(推古天皇2)年、
聖徳太子が
父・用明天皇の菩提のため開創したとされ、
太子の乳母玉照姫(恵善尼)が
初代住職であるという。

しかし、
江戸時代の地誌には
空海開基説(『都名所図会』)、
11世紀末に大原に隠棲し
大原声明を完成させた

融通念仏の祖・良忍が
開いたとの説
(『京羽二重』)もある。
現在
寂光院は
そうした草創伝説よりも、

『平家物語』に登場する
建礼門院隠棲のゆかりの地

として
知られています。


本堂は
淀殿の命で片桐且元が
慶長年間
(1596年-1615年)
再興したものであったが、
2000(平成12)年5月9日の放火で焼失した

《 寂光院放火事件、
犯人未逮捕のまま、2007(平成19)年5月9日に
公訴時効成立 》。

この際、
本尊の地蔵菩薩立像[重文]も焼損し、
堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像

《 建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという 》
も焼けてしまった。
現在の本堂は
平成17年(2005年)6月再建された。
同時に新しく作られた本尊や徳子と阿波内侍の像も
安置されています。



本日の歴史探訪ツアー
ここまでとなります。

明日以降の
歴史探訪の旅の更新

乞うご期待!!

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★ 龍虎 俊輔 
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