悠久の不思議な歴史を巡る旅!【大徳寺編】 | 龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

歴史作家の龍虎俊輔本人によるブログ。

国内旅行、寺社仏閣、京都に関してを題材にして、
言いたい放題。+「☆本日はこんな日だ!☆」
「百鬼乙女関連記事」
一読したら、Facebookの「いいね」を押してね。
Twitterをやってる方は、ツイートしてね。

[-悠久の不思議な歴史を巡る旅-]
【大徳寺編】

本日より
大徳寺の不思議を巡る旅を
開始します!

6泊7日の旅となります!

では!私と一緒に
悠久の不思議な歴史を巡る旅に
出掛けましょう!

不思議① 〔 平康頼の塔 〕
西門を入り、
勅使門を右手に見て、
参道を直進したところにある。

花崗岩の表面に地蔵菩薩立像、
裏面に釈迦・多宝二如来並座の多宝塔が、
彫刻されています。
これは、
非常に珍しいことだそうです。

『京羽二重織留』には・・・
平判官康頼塔、
始は大徳寺の三門の前にあり。
二つの石地蔵を立て康頼夫婦の墓と云へり。
今は地蔵門前大将軍の社の後に移す。
その跡に松ばやし有り。
この辺もと康頼の宅地なりと云ふ

と記されているので、
今の塔は
後世に立てられたもののようです。

因みに
平康頼という人物は、
平安時代末期から鎌倉時代初期に
活躍していた武士、歌人。
しかしながら、
生年没年は不詳。

この平康頼は、
後白河法皇の近臣として
検非違使に任ぜられたのだが、
僧・俊寛らと
鹿ヶ谷事件(鹿ヶ谷の陰謀)に連座して
喜界が島に流された。
しかし
後に許されて帰京しています。

『平家物語』によりますと
信仰心の厚かった康頼は、配流にあたり、
出家入道し、「性照」と号した。
配流先で京を懐かしむ日々の中、
成経と康頼は、
千本の卒塔婆に望郷の歌を記し、
海に流すことを思い立つ。
一本の卒塔婆が、安芸国厳島に流れ着き、
これに心を打たれた平清盛は、
赦免を行った。
治承2(1178)年に赦免船が来島し、
成経と康頼は赦免され、京へ戻るが、
僧・俊寛は許されなかった。
康頼は帰京後、
伯母が尼となって
身を寄せていた東山の双林寺で、
仏教説話集『宝物集』を編集執筆した。


平家滅亡後、
文治2(1186)年には源頼朝によって、
阿波国麻殖保の保司に任命された。
康頼は、京より3人の家人を伴い、
森藤の地に下向した。
この時、
康頼は、既に41歳になっていたそうです。
康頼は保司庁、鼓楼、六坊寺を建立し、
熊野神社を勧請し、
喜界山補陀洛寺を建立したが、
この寺は、その名を示す通り喜界ヶ島の
僧・俊寛を弔うものである。
又、
文治3(1187)年には
後白河法皇から賜与された
閻浮壇金の小さな千手観音を
安置する寺として
慈眼山玉林寺を建立、
源平の戦いで死んだ者を源平の区別無く
供養したと云われています。

康頼は承久2(1220)年頃、
自らの生涯75年間におきた出来事を記録し、
一通を京都の雙林寺へ送り、
もう一通は玉林寺に残し、
その年に大往生した。

方一丁の土地通称一町地で火葬された。

遺言で家人の鶴田氏が康頼神社を建立し、
主君を神として祀り代々祭司を務めた。
康頼神社の脇に墓がある。

遺骨は分骨されて、
京都東山の雙林寺にも埋葬された。

康頼神社の脇に三基の五輪塔があるが、
康頼の母、康頼、俊寛の3人のものという。

平清盛の怒りが解けず、
鬼界ヶ島に一人残された俊寛は、
数年後に都から、
遥々、訪ねて来た弟子の有王の世話を受けながら、
自ら絶食して生命を絶った。

有王は主人を火葬して骨を持ち帰り、
高野山に埋葬したが、
康頼はその分骨を譲り受けて、
壇の下に葬ったとも言われています。

平康頼の簡単な経歴でした。

本日の旅はココまで!
明日の旅は
≪金毛閣≫について
となります。


乞うご期待!!


※※※※※※※※※※
 龍虎 俊輔 
※※※※※※※※※※