昭和22年。
高井慎之介が19歳の頃。
国立大学の医学部に通う彼は、同い年の富樫道子と恋に落ち、お互いに想いを通じ合わせた。
道子もまた、高井と同じ大学の医学生だった。
色白の彼女は、笑うと右頬にエクボが出来て、とても可愛かった。
もうすぐ梅雨に入りそうな休日、二人は『音楽五人男』という映画を見に行った。
その映画の中で、藤山一郎と小夜福子が歌う『愛の星』を聴いて、二人はとても感動した。
高井は、帰りに『愛の星』のレコードを買った。
そして、高井の部屋で一緒にレコードを聴いて、音楽に合わせて歌った。
高井と道子は、同じ物を見て美しいと感じ、同じ曲を聴いて感動する程、感性がとてもよく似ていて、笑いのツボまで同じだった。
それはまるで、一緒に生まれて来た双子の様に、魂とか意識とか、目に見えない何かが繋がり合った感覚だった。
二人でいると、それだけで幸せで、その穏やかな時間が、勉強で忙しい寝不足の体を、優しく癒してくれた。
しかし、二人が見ていた晴れ渡った空に、突然、暗雲が立ち込めた。
臨床実習前に受けた病院の検診で、道子が結核に罹患している事が発覚した。
彼女はすぐに隔離され、人里離れた東北の県境にある山奥のサナトリウムに入院した。
高井は休みになると、電車を乗り継いで、自然に囲まれた建物へ通い、道子の元へ訪れた。
6月だというのに、そこにはまだ山桜が咲いていた。
山の空気はヒンヤリ涼しくて、遠くに流れる川音が心地良かった。
道子は冷えないようにカーディガンを羽織って、高井と共にサナトリウムの庭に出た。
庭に咲く可憐な山桜の下のベンチに座り、二人はお互いの近況を、にこやかに話した。
話が一段落すると、高井はふと思いついて『愛の星』を口ずさんだ。
道子は微笑み、2番の女性のパートを口ずさんだ。
歌い終わると、道子は晴れた空を見上げて言った。
「私、生まれてきて本当に良かったわ。」
「うん、僕も生まれてきて、君に会えて良かった。」
とても優しい山の神様が、二人の為に気を利かせてくれたかの様に、その年、桜の花は中々散らなかった。
しかし、道子を蝕む病は確実に勢いを増し、その症状はどんどん悪化していった。
二人が過ごしていたのは、戦後、世の中の諸々が劇的に変わり始めた時代だった。
この年から学校給食が始まり、便利な家電製品が家庭の三種の神器として現われた。
そして、急速な医学の進歩により治る病気が増え、平和を口にする若者が街に溢れ、片や大スターたちが演じる映画が、人々の休日を華やがせていた。
そんな中で大学生活をしていた二人に、現実は重く圧し掛かったのだった。
梅雨入り宣言された、ある日の夕方、高井の元に電報が届き、道子の訃報が伝えられた。
道子は、帰らぬ人になってしまった。
それからの高井は、病気に罹った人が、一人でも多く治癒する為に、病理学を熱心に研究した。
中医学にも興味を持ち、五行や漢方や経絡等について学んだ。
また、栄養状態を良くして未病を防ぎ、健康を維持する為に、栄養学も学んだ。
食材の調理方法や味付けの仕方等、彼の興味は多岐に渡った。
そして、昭和59年の今。
高井は故郷から遠く離れた関西の地に来て、独り身のまま国立大学の教授をしている。
彼は、沢山の学生たちに、健康でいる事の大切さを伝えてきた。
55歳になった彼は、もうすぐ大学を退官して故郷に帰る。
そんなある日、高井は、看護学校で栄養学を教えていた長田峰子に、偶然電車で会った。
その時、彼女がこんな事を言った。
「先生、道子さんという方が先生に伝えて欲しいそうです。」
「あ、えっ?道子?」
「はい。続けて良いですか?」
「あぁ。頼むよ。」
「ずっと、貴方を見守ってるよ。故郷に帰ったら、あの山桜の下で、また愛の星を歌いましょう。との事です。」
高井は驚いて、しばらく声が出なかった。
長田峰子が笑顔で再び言った。
「道子さんが、生まれてきて本当に良かった。慎之介さんに会えたから。ですって。」
そう言い終わると、彼女はポケットから出したハンカチを、高井に渡した。
高井の目から、とめどなく涙が溢れていた。