「心を正せば、行いは自然と正される」
──これは、江戸初期の陽明学者・中江藤樹が私たちに遺してくれた、まさに人としての根本を問う言葉です。混沌とする現代、情報が洪水のように押し寄せ、人の心もまた不安定になりやすい時代にあって、藤樹のこの言葉は、まるで心の灯台のように、静かにしかし確かな光を放っています。
中江藤樹は「日本陽明学の祖」と呼ばれ、学問を通して「人間としていかに生きるべきか」を真摯に問い続けました。彼の学問は知識の習得にとどまらず、徳を磨くこと、つまり人格の完成を目指すものでした。儒教における「知行合一」──知識と実践を一致させる思想を深く受け止め、教えを説くにとどまらず、日々の暮らしの中でそれを体現したのです。
この「心を正せば、行いは自然と正される」という言葉には、まさに彼の思想の核が込められています。
行動を変えようとすると、多くの人は「方法」を探します。もっと努力する、習慣を変える、時間管理を工夫する。しかし、それらをいくら整えても、心の在り方が歪んでいれば、やがて軸がぶれ、誤った方向へ進んでしまう。つまり、表面的な行動ではなく、その行動を生み出す源──「心」が正されていなければ、行動の真の意味や価値は定まりません。
藤樹の時代は、戦国の動乱が終わり、秩序が整えられていく時代でした。武力ではなく、徳による統治が模索される中で、藤樹は「徳の根源は心にある」と考えました。人の心がまっすぐであれば、自然とその人の言葉や振る舞いは、周囲に温かさや信頼をもたらす。逆に、心が利己や欲望にまみれていれば、たとえ一時的に成功しても、いずれその基盤は崩れてしまう。これこそが、彼が強く伝えたかった真理です。
では、若い人たちにとって「心を正す」とは、どういうことなのでしょうか。
それは、まず自分の心の声に耳を澄ますことです。今、自分は何を求め、何に不安を抱えているのか。何を大切にし、どんな人生を望んでいるのか。世間の期待や他人の評価に左右される前に、自分の本心と向き合う。そこから、「自分に正直である」こと、「他者を思いやる心を忘れない」ことが始まります。
心を正すというのは、決して「いい人」になることを意味するのではありません。八方美人になれということではなく、自分の中心に正しい価値観と誠実さを据えること。その軸があれば、どんな苦難に出会っても、人としての道を外すことはない。
現代の若者たちは、SNSの世界で常に誰かと比較され、評価され、時には自分を見失いがちです。そんな中で、自分の「心の正しさ」を持ち続けるのは、決して簡単なことではないかもしれません。しかし、だからこそ、藤樹の言葉は今、必要とされています。
誰かに褒められるためではなく、自分が誇れる自分になるために、自分の心を見つめ直す。怒りや妬みが湧いたときに、それをそのままぶつけるのではなく、なぜそんな感情が生まれたのかを問い直してみる。あるいは、人を傷つけるような言葉を口にする前に、その言葉が本当に相手のためになるか、自分の心に問いかけてみる。
こうした日々の小さな選択の積み重ねが、「心を正す」ことにつながり、やがてその人の生き方となり、行動の美しさとして周囲に伝わっていくのです。
そして、これは自分の人生だけでなく、人との関係にも大きな影響を与えます。心が正されていれば、相手を敬う言葉が自然と出てきます。信頼される人になりたいと願うなら、まずは人を信頼する心を持つことです。尊敬されたいなら、他者を尊敬する姿勢を身につけることです。その根っこには、必ず「心の在り方」がある。
藤樹が晩年まで人々に敬愛されたのは、彼の知識や理屈の高さではなく、その生き様が人々の心を打ったからです。教える内容と、自らの行いが一致していた。まさに、「心を正すことによって、行いが正された」人物だったのです。
現代を生きる若い皆さんにとって、この教えは人生の指針になるはずです。成功の形は人それぞれかもしれませんが、誰しもが「人間としてどう生きるか」という問いからは逃れられません。だからこそ、自分の心に誠実であること。自分自身を大切にするように、他人にも誠意を持って接すること。こうした生き方こそが、まわりまわって自分の未来を良いものへと導いてくれます。
最後に、藤樹のこの教えに、心からの感謝を捧げたいと思います。
心を正すことの大切さを忘れずに生きること。
それが、人生を豊かにし、人を愛し、人に愛される道。
中江藤樹先生、私たちの心に光を灯してくださるこの言葉に、深く感謝いたします。