久しぶりに揺られた電車の中、私の前に立つ若い女性が、不意にバッグから一冊の本を取り出した。それは実利を求めたビジネス書ではなく、図書館のラベルが貼られた一冊の小説だった。視線を巡らせれば、向かいの扉に背を預けた青年もまた、静かに本の世界に沈み込んでいる。彼の手元にあるのも、やはり仕事の道具としての書物ではないようだ。
2023年度の文化庁の調査によれば、「一ヶ月に一冊も本を読まない」と答えた人は62.6%に達し、読書習慣はかつてない凋落を見せている。スマートフォンの普及率と反比例するように、人々の目は発光する小さな画面へと吸い寄せられていった。
かつて昭和の時代、電車の網棚は読み捨てられた新聞や週刊誌、漫画雑誌の「掃き溜め」であり、同時に「宝庫」でもあった。長距離通勤の徒であった私は、それらを拾い集めては貪るように読んだものである。しかし、いつしか車内から紙の擦れる音は消え、前後左右、誰もが等しくスマホ端末を凝視する無機質な光景へと塗り替えられてしまった。
そんな砂漠のような状況下で、僅か数人とはいえ読書に耽る若者を見かけたことは、私にとって小さな、しかし確かな救いであった。効率や実益のためではない「物語」を、若い世代が選んでいるという事実に、胸の奥が微かに震える。
昨今、ネットの海に溢れる情報の奔流に疲れ果て、質の高い言葉の結晶を求める人々が静かに増えているという。ブルーライトの刺激を離れ、紙の手触りやインクの匂いに安らぎを見出す———。そんなアナログな身体感覚への回帰が、今、静かに始まっているのかもしれない。
利便性の果てに、私たちは何を取り戻そうとしているのか。車内で頁を繰る彼らの指先に、変容しゆく時代の新しい風を見た気がして思わず小躍りしてしまった。
文責:蔵研人
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