この文章のテーマ、「定説や常識と異なる可能性を考える」ですが、この場合の常識とは、「身障者に対する健常者の思い込み」を指します。
身障者だからといっても、性的機能は普通の人と変わらないですよね。
逆に言えば、身障者だから真面目で清廉潔白であると思う事自体が差別なのかも。健常者も身障者も同じで、浮気もするし不倫もする。そういう事を改めて教えてくれたと言う意味では意義があると思います。
『自分とは異なると思う区別感覚が、そもそも差別に繋がる可能性』をはらんでいますね。 この自分とは異なると言う主観が、集団の中で共感を伴うと、差別に繋がる発火点になるのかもしれません。
その主観が客観的に認識されると、社会全体、もしくは自分が所属する小さなムラ社会が、そのように判断し始めて、それが「常識」のようになる。
差別って、社会的偏見が、あたりまえのように振る舞われてしまい、無自覚的に定着してしまうところが、よろしくない。 「常識を疑え!」ってコピーが過去にありましたが、常に、半分は受け入れて、もう半分は懐疑的姿勢を維持する事が、中庸の精神なのかなって思います。
「中庸の精神」を再認識させてくれた事が、僕にとっては、乙武さんの功罪の功になると受け止めています。
改めて身障者と健常者の「違い」と、「同じところ」を理解して、特別扱いが、逆差別を招く事を自覚しなければならないと感じました。乙武さんの一連の言動が、僕達に教えてくれた事と言えますね。
これは、乙武 洋匡擁護論ではありません。彼の言動から社会的反響があったとしたら、マスコミが未だ伝えていない部分はどこだろうって言う観点で考えた事を文字にしました。
不倫と言う行為は、夫にしろ妻にしろパートナーの信頼を裏切る行為として指摘されてしかるべきだと思います。しかし、両手・両足が健常者に比べ不自由である身障者の彼が、健常者以上に様々なアクション&パフォーマンスを示す事に、良くも悪くもインパクトがある事は事実です。不倫に到るプロセスで、五体不満足の彼を女性側としては、「力ずくの乱暴は無い」と安心感を抱かせる姿が、余計にプロセスを加速させた可能性があるなと想像します。
またネット上に乙武洋匡氏は既に帰化済みの在日朝鮮人だったと指摘する人がいらっしゃいますが、なぜ、あえてそんな指摘をするのか?僕は理解出来ません。これも嫉妬から来る差別発言に近いのではないか?
もしも人種偏見に縛られた極右の人達ならば、「第十代天皇である崇神天皇は、別名ミマキイリヒコといい、その意味は、任那の城から来た男」と言う意味をお伝えしたいです。
日本民族も太古に遡れば、多民族国家であって、在日朝鮮人と言う用語自体が、敵対関係を醸し出し、無用ないさかいを呼ぶ事になるのではないでしょうか?
崇神天皇:http://bit.ly/1RxSsww
遡って、再度申し上げます。
このブログを書きたくなった切っ掛けは、身障者の方々も、健常者と変わらない性欲がある事が、公の事実として多くの人達に拡がった事に、どんなインパクトがあるのか?ここに注目させて感想を書かせて頂きました。
乙武洋匡氏ウィキ情報
http://bit.ly/1Urj3RV
『週刊新潮』の報道について
http://ototake.com/
以上です。