許チョ
許 褚(きょ ちょ、生没年不詳)は、中国、後漢末から三国時代の武将。『三国志』魏志に伝がある。字は仲康。兄に許定、子に許儀、孫に許綜。
怪力の持ち主で、曹操の親衛隊長として長く務めた。
怪力の傑
姓名 許褚
時代 後漢代 - 三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 仲康(字) 虎痴(綽名)
本貫・出身地等 徐州沛国譙県
職官 都尉〔曹操〕→校尉〔曹操〕
→武衛中郎将〔曹操〕→中堅将軍〔曹操〕
→武衛将軍〔曹魏〕
爵位・号等 関内侯〔曹操〕→万歳亭侯〔曹魏〕
→牟郷侯〔曹魏〕→牟郷壮侯〔沒後〕
陣営・所属等 独立勢力→曹操→曹丕→曹叡
家族・一族 兄:許定 子:許儀 孫:許綜
身長8尺(およそ184cm)で腰が10囲(囲は5寸、およそ120cm)容貌は雄々しく毅然として、武勇と力量は人なみはずれていた。
後漢末、黄巾賊一万人余りが砦壁を攻めたとき、許褚は若者を数千家ほど集め、全員で砦を固めて敵を防いだ。汝南の喝破の賊が侵攻してきたときは多勢に無勢で疲労し、武器や矢弾も尽き果てるまで追い込まれたが、許褚は城中の男女に湯呑みや枡ほどの大きさの石を用意させて投げつけ、賊に対抗したという。許褚は食糧が乏しくなったので、一計を案じ、賊と和睦を結ぶふりをして、牛と食糧を交換させた。賊が牛を引き取りに来ると、牛はすぐさま逃げ帰ってしまった。この時許褚はその牛を捕まえ、片手で牛の尾を引っ張って、百歩余りも連れてきた。これを見た賊軍は驚き、牛も引き取らずに逃げ帰ってしまった。この噂を聞いたものはみな許褚を恐れるようになったという。
曹操の親衛へ
曹操が淮・汝の地方を支配すると、許褚は軍勢を挙げて曹操に帰服した。曹操は許褚の勇壮な雰囲気に「我が樊噲である。」と言った。その日のうちに許褚は都尉の官を受け、彼に従っていた侠客はみな虎士(近衛兵)となった。張繍征伐に従軍し、先鋒となり一万ばかりの首を挙げ、校尉に昇任した。
袁紹との官渡の戦いに従軍した時、以前から曹操の身辺を警護していた兵士の徐他らが謀叛しようと企てていたが、許褚の勇猛さに恐れをなして事を起こすことができなかった。徐他らは許褚が休みの日に行動を起こしたが、許褚は宿舎まで来たところで急に虫が騒ぎ、すぐに引き返した。徐他らはそうとは知らず曹操の帳に入り、許褚を見て大いに驚いた。それを見た許褚は徐他の謀反を悟り、すぐさま彼らを打ち殺した。このことに曹操はますます許褚を信愛し、出入りにも同行させて左右から離さないようになった。
鄴の包囲戦に従軍し戦功を立て、関内侯に封じられた。
勇猛さと栄達
韓遂・馬超と戦った時(潼関の戦い)、曹操は黄河の北岸へ渡る前に兵を先に渡し、許褚と親衛隊百人余りと共に南岸に留まって背後を遮断したが、馬超が兵1万人余りを率いて曹操軍に雨のように矢を降り注がせた。許褚は曹操を支えて船に乗せたが、兵も競って乗ろうとしたので船は重さのため沈没しそうになった。そこで許褚は船によじ登ろうとする者を斬り、左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から庇った。さらに、船頭が流れ矢に当たって死ぬと許褚は右手で船を漕ぎ、ようやく渡ることができた。後に曹操は、「許褚がいなければ命がなかった」と述懐している。
その後、曹操は韓遂・馬超らとただ一騎で馬上で語り合ったが、そのときに許褚だけを連れて行った。馬超は自分の武術の腕を頼りに曹操を殺そうと考えていたが、以前から許褚の勇敢さを聞いており、曹操に従者が許褚ではないかと聞くと、曹操は無言で後ろを指した。許褚は馬超を睨みつけたため、結局馬超は動けず引き返した。数日後、馬超軍と戦った時、曹操は馬超らを大いに破ったが、このとき許褚は自ら敵の首級を挙げ、武衛中郎将に昇進した。武衛という称号はこのときに始まったという。
その後も曹操の護衛を長く務め、中堅将軍に昇進した。曹操が亡くなると、許褚は号泣して血を吐いた。
曹丕(文帝)の代に万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、文帝にも側近として親しまれた。許褚に率いられていた者で虎士(近衛兵)となった者から、後に武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉となった者は100人余りに上り、すべてが剣術家であった。
曹叡(明帝)が即位すると、牟郷侯に爵位が進み、700戸の領邑を受け、子の1人が関内侯に取り立てられた。明帝の代に許褚は亡くなり、壮侯と諡された。そして子の許儀が後を嗣いだ。太和年間に再び許褚の忠孝が評価され、詔勅より子孫2名に関内侯に取り立てられた。
人柄
許褚の性格は慎み深く、誠実かつ重厚で無口であった。曹仁が荊州から戻ってきたとき、宮殿の外で彼に出会った。曹仁は中に座って寛いで語ろうと誘ったが、許褚は「王(曹操)は、まもなく出殿なされる。」と言って、すぐ宮殿に引き返してしまったので、曹仁は怒った。それを聞いた者が許褚を責めて「子孝(曹仁の字)殿は王族の重臣なのに、謙って君をお呼びになったのだ。それなのになぜ断ったのか?」と言った。これに対し許褚は「彼は王族の重鎮といえども外の諸侯です。私のような内の臣下の端くれが、部屋に入ってどんなことを話せましょうか?」と答えた。これを聞いた曹操はひどく感心したという。
許褚は力が虎のようで、ただ痴(頭の回転が鈍い)であったので、「虎痴」と呼ばれていた。それで天下の称賛を浴びることになったため、虎痴が彼の本当の名前だと思われるようになったという(両語の発音が近いため)。
三国志演義
小説『三国志演義』では、曹操の軍が黄巾族の残党と戦っている時、何儀という黄巾族の総大将が出て来て、曹操に一騎打ちの勝負を挑んで来る場面がある。曹操は典韋に命じ、何儀を捕らえに行かせる。その時一人の農民が現れ何儀を捕らえ去ろうとするが、この農民が許褚であり、典韋は許褚を追いかけ何儀をこちらに渡すように促すが、許褚が拒否したため二人は一騎打ちをし、互角に戦うことになる。この許褚の勇猛さを聞いた曹操は「あれほどの男を殺すのは惜しい」と思い、部下に罠を仕掛けさせ、捕えて連れて来るように命じる。その後、典韋が許褚と戦っている所で引き上げの合図が聞こえ、典韋はわざと引き上げる。許褚は典韋を追いかけたが、途中許褚は罠にかかり曹操の下へ連れて行かれることになる。曹操は他の敵将と同じ扱いを受けた許褚を見ると「誰がこんな扱いをせよと言ったのだ!」と言い、すぐに縄を解くように命じ、許褚に謝ると部下にならないかと誘う。許褚は自分を部下にしてくれる事を喜んで引き受け、仕えることとなっている。
その後も許褚は、曹操配下として抜群の武勇を発揮して活躍、特に馬超との一騎打ちでは途中から上半身裸になって戦う勇姿を見せる。一方、酒に酔って兵糧を張飛に奪われるという失態を演じたこともある。
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Q&A
the_road_goes_on0818さん
三国志において魏の国に許褚という猛将がいましたが、曹操の亡き後はどうなったのか、ご存じの方はいらっしゃいますか??
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nekogami2007さん
三国志日本語訳
魏志巻十八 李典・李通・臧霸・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温
許褚伝(関連部分)
太祖が崩ずると、許褚は号泣して血を吐いた。文帝(曹丕)が践祚すると万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、(文帝とは)非常に親密であった。はじめ許褚が率いて虎士になった者は征伐に従軍し、太祖はみな勇者であると考え、同じ日に部将に取り立て、そののち武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉は百人余りになり、みな剣客であった。明帝(曹叡)が即位すると、牟郷侯に進み、所領は七百戸、子に爵を賜って一人を関内侯とした。許褚は薨じ、壮侯と諡された。子の許儀が嗣いだ。許褚の兄許定も軍功によって振威将軍になって封ぜられ、王道巡回の虎賁を都督した。太和年間(二二七~二三三)、帝は許褚の忠孝を思い、詔を下して褒めたたえ、また許褚の子孫二人に関内侯の爵を賜った。許儀は鍾会に殺された。泰始年間(二六五~二七五)のはじめ、子の許綜が嗣いだ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1125075646
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osamuchan0401さん
許褚はどのくらい強い?
三国志の許褚ってもし今の格闘技会に参戦したらどのくらいの強さですか?
マイクタイソンや朝青龍と戦ったらどうなると思いますか?
ベストアンサーに選ばれた回答
shimazu3turinobusenovelさん
ちなみに、正史をひもとくと
黄巾賊が押し寄せて来た時に城壁を固めて
これを防ぎ矢が失くなると巨岩を持ち上げてこれを敵にぶつけた
また、賊と交渉し食料と牛を交換する際に
牛が嫌がったので片手で牛の尻尾をつかみ賊のところへ持っていった
それを見た賊は驚いて逃げてしまった
張繍征伐の際には、先陣を切り
一万の首を持ってきた……………………………
こんな奴にマイク・タイソンや朝青竜が勝てると思いますか?
格闘技界で、こいつに勝てる奴などいるわけがありません
結局、腕力がものをいう
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1116989941
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ddjellyfishさん
三国志/諸侯と家臣の違いについて
魏の許褚は
「曹仁は曹操の一族とは言っても外の諸侯、自分は内の臣であるから二人きりで話したりするべきではない」
と言ったそうですが、三国志を読んでいてもこの諸侯と家臣の区別がイマイチつきません。
この時の許褚は武衛中郎将/関内侯、エピソード後に中堅将軍に昇進したのだったと記憶しております。
いくつかのパターンを考えてみたのですが、どれが正しいのかさっぱり分かりません……。
1.漢の諸侯である曹操と、漢の家臣である部下は上下関係があるだけで立場上は同格
(魏の右将軍だった楽進は家臣だけど、漢の征東将軍だった張遼は諸侯?)
2.太守として土地の支配を任されていれば諸侯で、中央にいるものが家臣
(太守や相に任じられれば諸侯扱い?)
3.一定の兵力を率いていれば諸侯で、曹操の身辺にいるものが家臣
(将軍はみんな諸侯だけど、周辺の護衛は家臣?)
どれも間違っているかもしれませんが、良ければ例を挙げて説明していただけると嬉しいです。
文章をまとめるのが下手なので長文の質問になってしまいましたが、よろしくお願いします。
ベストアンサーに選ばれた回答
sanokuangxianさん
「諸侯」と訳すからおかしいのではないでしょうか。
『三国志 許褚伝』の原文は「彼虽親重,外籓也。褚備内臣」です。
「彼は王室の親族で国家の重臣とはいえ、外を守る将、それに対して私は内侍の臣です」という意味です。
「外籓」には諸侯という意味もありますが、もともとは外塀、防御をする軍を指し、ここでは諸侯というよりも外に駐屯する将軍、と訳した方が正しいと思います。
実際、曹仁はこの頃、荊州を鎮守する将軍でした。
それに対し許褚は曹操の近衛の将軍のような存在です。
「外籓」と「内臣」は外の将と内の将という意味であり、諸侯と臣下ということではないと思います。
漢室との関係ですが、曹操は漢朝に任命された魏王なので、漢室から見たら漢の諸侯、曹仁・許褚等は直接は曹操の部下ですが、曹操自身が漢臣なので、大きな意味ではこの二人も漢臣になります。
右将軍楽進と征東将軍張遼ですが、どちらも恐らく曹操が魏王になる前に右将軍と征東将軍を拝命しているので、曹操も漢庭の許可を得てから任命しているはずです(張遼の場合は曹操が魏公の時に拝命しているので、もしかしたら勝手に行った人事かもしれませんが)。
この二人も直接は曹操の部下ですが、大きな意味では漢の将軍です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1041279950
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許 褚(きょ ちょ、生没年不詳)は、中国、後漢末から三国時代の武将。『三国志』魏志に伝がある。字は仲康。兄に許定、子に許儀、孫に許綜。
怪力の持ち主で、曹操の親衛隊長として長く務めた。
怪力の傑
姓名 許褚
時代 後漢代 - 三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 仲康(字) 虎痴(綽名)
本貫・出身地等 徐州沛国譙県
職官 都尉〔曹操〕→校尉〔曹操〕
→武衛中郎将〔曹操〕→中堅将軍〔曹操〕
→武衛将軍〔曹魏〕
爵位・号等 関内侯〔曹操〕→万歳亭侯〔曹魏〕
→牟郷侯〔曹魏〕→牟郷壮侯〔沒後〕
陣営・所属等 独立勢力→曹操→曹丕→曹叡
家族・一族 兄:許定 子:許儀 孫:許綜
身長8尺(およそ184cm)で腰が10囲(囲は5寸、およそ120cm)容貌は雄々しく毅然として、武勇と力量は人なみはずれていた。
後漢末、黄巾賊一万人余りが砦壁を攻めたとき、許褚は若者を数千家ほど集め、全員で砦を固めて敵を防いだ。汝南の喝破の賊が侵攻してきたときは多勢に無勢で疲労し、武器や矢弾も尽き果てるまで追い込まれたが、許褚は城中の男女に湯呑みや枡ほどの大きさの石を用意させて投げつけ、賊に対抗したという。許褚は食糧が乏しくなったので、一計を案じ、賊と和睦を結ぶふりをして、牛と食糧を交換させた。賊が牛を引き取りに来ると、牛はすぐさま逃げ帰ってしまった。この時許褚はその牛を捕まえ、片手で牛の尾を引っ張って、百歩余りも連れてきた。これを見た賊軍は驚き、牛も引き取らずに逃げ帰ってしまった。この噂を聞いたものはみな許褚を恐れるようになったという。
曹操の親衛へ
曹操が淮・汝の地方を支配すると、許褚は軍勢を挙げて曹操に帰服した。曹操は許褚の勇壮な雰囲気に「我が樊噲である。」と言った。その日のうちに許褚は都尉の官を受け、彼に従っていた侠客はみな虎士(近衛兵)となった。張繍征伐に従軍し、先鋒となり一万ばかりの首を挙げ、校尉に昇任した。
袁紹との官渡の戦いに従軍した時、以前から曹操の身辺を警護していた兵士の徐他らが謀叛しようと企てていたが、許褚の勇猛さに恐れをなして事を起こすことができなかった。徐他らは許褚が休みの日に行動を起こしたが、許褚は宿舎まで来たところで急に虫が騒ぎ、すぐに引き返した。徐他らはそうとは知らず曹操の帳に入り、許褚を見て大いに驚いた。それを見た許褚は徐他の謀反を悟り、すぐさま彼らを打ち殺した。このことに曹操はますます許褚を信愛し、出入りにも同行させて左右から離さないようになった。
鄴の包囲戦に従軍し戦功を立て、関内侯に封じられた。
勇猛さと栄達
韓遂・馬超と戦った時(潼関の戦い)、曹操は黄河の北岸へ渡る前に兵を先に渡し、許褚と親衛隊百人余りと共に南岸に留まって背後を遮断したが、馬超が兵1万人余りを率いて曹操軍に雨のように矢を降り注がせた。許褚は曹操を支えて船に乗せたが、兵も競って乗ろうとしたので船は重さのため沈没しそうになった。そこで許褚は船によじ登ろうとする者を斬り、左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から庇った。さらに、船頭が流れ矢に当たって死ぬと許褚は右手で船を漕ぎ、ようやく渡ることができた。後に曹操は、「許褚がいなければ命がなかった」と述懐している。
その後、曹操は韓遂・馬超らとただ一騎で馬上で語り合ったが、そのときに許褚だけを連れて行った。馬超は自分の武術の腕を頼りに曹操を殺そうと考えていたが、以前から許褚の勇敢さを聞いており、曹操に従者が許褚ではないかと聞くと、曹操は無言で後ろを指した。許褚は馬超を睨みつけたため、結局馬超は動けず引き返した。数日後、馬超軍と戦った時、曹操は馬超らを大いに破ったが、このとき許褚は自ら敵の首級を挙げ、武衛中郎将に昇進した。武衛という称号はこのときに始まったという。
その後も曹操の護衛を長く務め、中堅将軍に昇進した。曹操が亡くなると、許褚は号泣して血を吐いた。
曹丕(文帝)の代に万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、文帝にも側近として親しまれた。許褚に率いられていた者で虎士(近衛兵)となった者から、後に武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉となった者は100人余りに上り、すべてが剣術家であった。
曹叡(明帝)が即位すると、牟郷侯に爵位が進み、700戸の領邑を受け、子の1人が関内侯に取り立てられた。明帝の代に許褚は亡くなり、壮侯と諡された。そして子の許儀が後を嗣いだ。太和年間に再び許褚の忠孝が評価され、詔勅より子孫2名に関内侯に取り立てられた。
人柄
許褚の性格は慎み深く、誠実かつ重厚で無口であった。曹仁が荊州から戻ってきたとき、宮殿の外で彼に出会った。曹仁は中に座って寛いで語ろうと誘ったが、許褚は「王(曹操)は、まもなく出殿なされる。」と言って、すぐ宮殿に引き返してしまったので、曹仁は怒った。それを聞いた者が許褚を責めて「子孝(曹仁の字)殿は王族の重臣なのに、謙って君をお呼びになったのだ。それなのになぜ断ったのか?」と言った。これに対し許褚は「彼は王族の重鎮といえども外の諸侯です。私のような内の臣下の端くれが、部屋に入ってどんなことを話せましょうか?」と答えた。これを聞いた曹操はひどく感心したという。
許褚は力が虎のようで、ただ痴(頭の回転が鈍い)であったので、「虎痴」と呼ばれていた。それで天下の称賛を浴びることになったため、虎痴が彼の本当の名前だと思われるようになったという(両語の発音が近いため)。
三国志演義
小説『三国志演義』では、曹操の軍が黄巾族の残党と戦っている時、何儀という黄巾族の総大将が出て来て、曹操に一騎打ちの勝負を挑んで来る場面がある。曹操は典韋に命じ、何儀を捕らえに行かせる。その時一人の農民が現れ何儀を捕らえ去ろうとするが、この農民が許褚であり、典韋は許褚を追いかけ何儀をこちらに渡すように促すが、許褚が拒否したため二人は一騎打ちをし、互角に戦うことになる。この許褚の勇猛さを聞いた曹操は「あれほどの男を殺すのは惜しい」と思い、部下に罠を仕掛けさせ、捕えて連れて来るように命じる。その後、典韋が許褚と戦っている所で引き上げの合図が聞こえ、典韋はわざと引き上げる。許褚は典韋を追いかけたが、途中許褚は罠にかかり曹操の下へ連れて行かれることになる。曹操は他の敵将と同じ扱いを受けた許褚を見ると「誰がこんな扱いをせよと言ったのだ!」と言い、すぐに縄を解くように命じ、許褚に謝ると部下にならないかと誘う。許褚は自分を部下にしてくれる事を喜んで引き受け、仕えることとなっている。
その後も許褚は、曹操配下として抜群の武勇を発揮して活躍、特に馬超との一騎打ちでは途中から上半身裸になって戦う勇姿を見せる。一方、酒に酔って兵糧を張飛に奪われるという失態を演じたこともある。
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三国志日本語訳
魏志巻十八 李典・李通・臧霸・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温
許褚伝(関連部分)
太祖が崩ずると、許褚は号泣して血を吐いた。文帝(曹丕)が践祚すると万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、(文帝とは)非常に親密であった。はじめ許褚が率いて虎士になった者は征伐に従軍し、太祖はみな勇者であると考え、同じ日に部将に取り立て、そののち武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉は百人余りになり、みな剣客であった。明帝(曹叡)が即位すると、牟郷侯に進み、所領は七百戸、子に爵を賜って一人を関内侯とした。許褚は薨じ、壮侯と諡された。子の許儀が嗣いだ。許褚の兄許定も軍功によって振威将軍になって封ぜられ、王道巡回の虎賁を都督した。太和年間(二二七~二三三)、帝は許褚の忠孝を思い、詔を下して褒めたたえ、また許褚の子孫二人に関内侯の爵を賜った。許儀は鍾会に殺された。泰始年間(二六五~二七五)のはじめ、子の許綜が嗣いだ。
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牛が嫌がったので片手で牛の尻尾をつかみ賊のところへ持っていった
それを見た賊は驚いて逃げてしまった
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「曹仁は曹操の一族とは言っても外の諸侯、自分は内の臣であるから二人きりで話したりするべきではない」
と言ったそうですが、三国志を読んでいてもこの諸侯と家臣の区別がイマイチつきません。
この時の許褚は武衛中郎将/関内侯、エピソード後に中堅将軍に昇進したのだったと記憶しております。
いくつかのパターンを考えてみたのですが、どれが正しいのかさっぱり分かりません……。
1.漢の諸侯である曹操と、漢の家臣である部下は上下関係があるだけで立場上は同格
(魏の右将軍だった楽進は家臣だけど、漢の征東将軍だった張遼は諸侯?)
2.太守として土地の支配を任されていれば諸侯で、中央にいるものが家臣
(太守や相に任じられれば諸侯扱い?)
3.一定の兵力を率いていれば諸侯で、曹操の身辺にいるものが家臣
(将軍はみんな諸侯だけど、周辺の護衛は家臣?)
どれも間違っているかもしれませんが、良ければ例を挙げて説明していただけると嬉しいです。
文章をまとめるのが下手なので長文の質問になってしまいましたが、よろしくお願いします。
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sanokuangxianさん
「諸侯」と訳すからおかしいのではないでしょうか。
『三国志 許褚伝』の原文は「彼虽親重,外籓也。褚備内臣」です。
「彼は王室の親族で国家の重臣とはいえ、外を守る将、それに対して私は内侍の臣です」という意味です。
「外籓」には諸侯という意味もありますが、もともとは外塀、防御をする軍を指し、ここでは諸侯というよりも外に駐屯する将軍、と訳した方が正しいと思います。
実際、曹仁はこの頃、荊州を鎮守する将軍でした。
それに対し許褚は曹操の近衛の将軍のような存在です。
「外籓」と「内臣」は外の将と内の将という意味であり、諸侯と臣下ということではないと思います。
漢室との関係ですが、曹操は漢朝に任命された魏王なので、漢室から見たら漢の諸侯、曹仁・許褚等は直接は曹操の部下ですが、曹操自身が漢臣なので、大きな意味ではこの二人も漢臣になります。
右将軍楽進と征東将軍張遼ですが、どちらも恐らく曹操が魏王になる前に右将軍と征東将軍を拝命しているので、曹操も漢庭の許可を得てから任命しているはずです(張遼の場合は曹操が魏公の時に拝命しているので、もしかしたら勝手に行った人事かもしれませんが)。
この二人も直接は曹操の部下ですが、大きな意味では漢の将軍です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1041279950
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