許チョ

許 褚(きょ ちょ、生没年不詳)は、中国、後漢末から三国時代の武将。『三国志』魏志に伝がある。字は仲康。兄に許定、子に許儀、孫に許綜。

怪力の持ち主で、曹操の親衛隊長として長く務めた。

怪力の傑
姓名 許褚
時代 後漢代 - 三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 仲康(字) 虎痴(綽名)
本貫・出身地等 徐州沛国譙県
職官 都尉〔曹操〕→校尉〔曹操〕

→武衛中郎将〔曹操〕→中堅将軍〔曹操〕
→武衛将軍〔曹魏〕
爵位・号等 関内侯〔曹操〕→万歳亭侯〔曹魏〕

→牟郷侯〔曹魏〕→牟郷壮侯〔沒後〕
陣営・所属等 独立勢力→曹操→曹丕→曹叡
家族・一族 兄:許定 子:許儀 孫:許綜

身長8尺(およそ184cm)で腰が10囲(囲は5寸、およそ120cm)容貌は雄々しく毅然として、武勇と力量は人なみはずれていた。

後漢末、黄巾賊一万人余りが砦壁を攻めたとき、許褚は若者を数千家ほど集め、全員で砦を固めて敵を防いだ。汝南の喝破の賊が侵攻してきたときは多勢に無勢で疲労し、武器や矢弾も尽き果てるまで追い込まれたが、許褚は城中の男女に湯呑みや枡ほどの大きさの石を用意させて投げつけ、賊に対抗したという。許褚は食糧が乏しくなったので、一計を案じ、賊と和睦を結ぶふりをして、牛と食糧を交換させた。賊が牛を引き取りに来ると、牛はすぐさま逃げ帰ってしまった。この時許褚はその牛を捕まえ、片手で牛の尾を引っ張って、百歩余りも連れてきた。これを見た賊軍は驚き、牛も引き取らずに逃げ帰ってしまった。この噂を聞いたものはみな許褚を恐れるようになったという。
曹操の親衛へ

曹操が淮・汝の地方を支配すると、許褚は軍勢を挙げて曹操に帰服した。曹操は許褚の勇壮な雰囲気に「我が樊噲である。」と言った。その日のうちに許褚は都尉の官を受け、彼に従っていた侠客はみな虎士(近衛兵)となった。張繍征伐に従軍し、先鋒となり一万ばかりの首を挙げ、校尉に昇任した。

袁紹との官渡の戦いに従軍した時、以前から曹操の身辺を警護していた兵士の徐他らが謀叛しようと企てていたが、許褚の勇猛さに恐れをなして事を起こすことができなかった。徐他らは許褚が休みの日に行動を起こしたが、許褚は宿舎まで来たところで急に虫が騒ぎ、すぐに引き返した。徐他らはそうとは知らず曹操の帳に入り、許褚を見て大いに驚いた。それを見た許褚は徐他の謀反を悟り、すぐさま彼らを打ち殺した。このことに曹操はますます許褚を信愛し、出入りにも同行させて左右から離さないようになった。

鄴の包囲戦に従軍し戦功を立て、関内侯に封じられた。

勇猛さと栄達

韓遂・馬超と戦った時(潼関の戦い)、曹操は黄河の北岸へ渡る前に兵を先に渡し、許褚と親衛隊百人余りと共に南岸に留まって背後を遮断したが、馬超が兵1万人余りを率いて曹操軍に雨のように矢を降り注がせた。許褚は曹操を支えて船に乗せたが、兵も競って乗ろうとしたので船は重さのため沈没しそうになった。そこで許褚は船によじ登ろうとする者を斬り、左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から庇った。さらに、船頭が流れ矢に当たって死ぬと許褚は右手で船を漕ぎ、ようやく渡ることができた。後に曹操は、「許褚がいなければ命がなかった」と述懐している。

その後、曹操は韓遂・馬超らとただ一騎で馬上で語り合ったが、そのときに許褚だけを連れて行った。馬超は自分の武術の腕を頼りに曹操を殺そうと考えていたが、以前から許褚の勇敢さを聞いており、曹操に従者が許褚ではないかと聞くと、曹操は無言で後ろを指した。許褚は馬超を睨みつけたため、結局馬超は動けず引き返した。数日後、馬超軍と戦った時、曹操は馬超らを大いに破ったが、このとき許褚は自ら敵の首級を挙げ、武衛中郎将に昇進した。武衛という称号はこのときに始まったという。

その後も曹操の護衛を長く務め、中堅将軍に昇進した。曹操が亡くなると、許褚は号泣して血を吐いた。

曹丕(文帝)の代に万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、文帝にも側近として親しまれた。許褚に率いられていた者で虎士(近衛兵)となった者から、後に武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉となった者は100人余りに上り、すべてが剣術家であった。

曹叡(明帝)が即位すると、牟郷侯に爵位が進み、700戸の領邑を受け、子の1人が関内侯に取り立てられた。明帝の代に許褚は亡くなり、壮侯と諡された。そして子の許儀が後を嗣いだ。太和年間に再び許褚の忠孝が評価され、詔勅より子孫2名に関内侯に取り立てられた。


人柄

許褚の性格は慎み深く、誠実かつ重厚で無口であった。曹仁が荊州から戻ってきたとき、宮殿の外で彼に出会った。曹仁は中に座って寛いで語ろうと誘ったが、許褚は「王(曹操)は、まもなく出殿なされる。」と言って、すぐ宮殿に引き返してしまったので、曹仁は怒った。それを聞いた者が許褚を責めて「子孝(曹仁の字)殿は王族の重臣なのに、謙って君をお呼びになったのだ。それなのになぜ断ったのか?」と言った。これに対し許褚は「彼は王族の重鎮といえども外の諸侯です。私のような内の臣下の端くれが、部屋に入ってどんなことを話せましょうか?」と答えた。これを聞いた曹操はひどく感心したという。

許褚は力が虎のようで、ただ痴(頭の回転が鈍い)であったので、「虎痴」と呼ばれていた。それで天下の称賛を浴びることになったため、虎痴が彼の本当の名前だと思われるようになったという(両語の発音が近いため)。

三国志演義

小説『三国志演義』では、曹操の軍が黄巾族の残党と戦っている時、何儀という黄巾族の総大将が出て来て、曹操に一騎打ちの勝負を挑んで来る場面がある。曹操は典韋に命じ、何儀を捕らえに行かせる。その時一人の農民が現れ何儀を捕らえ去ろうとするが、この農民が許褚であり、典韋は許褚を追いかけ何儀をこちらに渡すように促すが、許褚が拒否したため二人は一騎打ちをし、互角に戦うことになる。この許褚の勇猛さを聞いた曹操は「あれほどの男を殺すのは惜しい」と思い、部下に罠を仕掛けさせ、捕えて連れて来るように命じる。その後、典韋が許褚と戦っている所で引き上げの合図が聞こえ、典韋はわざと引き上げる。許褚は典韋を追いかけたが、途中許褚は罠にかかり曹操の下へ連れて行かれることになる。曹操は他の敵将と同じ扱いを受けた許褚を見ると「誰がこんな扱いをせよと言ったのだ!」と言い、すぐに縄を解くように命じ、許褚に謝ると部下にならないかと誘う。許褚は自分を部下にしてくれる事を喜んで引き受け、仕えることとなっている。

その後も許褚は、曹操配下として抜群の武勇を発揮して活躍、特に馬超との一騎打ちでは途中から上半身裸になって戦う勇姿を見せる。一方、酒に酔って兵糧を張飛に奪われるという失態を演じたこともある。


【競馬の神様】大川慶次郎が身内だけに残した禁断の投資馬券術「THE.TABOO(ザ・タブー)」

Q&A



the_road_goes_on0818さん

三国志において魏の国に許褚という猛将がいましたが、曹操の亡き後はどうなったのか、ご存じの方はいらっしゃいますか??





ベストアンサーに選ばれた回答


nekogami2007さん


三国志日本語訳

魏志巻十八 李典・李通・臧霸・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温

許褚伝(関連部分)

太祖が崩ずると、許褚は号泣して血を吐いた。文帝(曹丕)が践祚すると万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、(文帝とは)非常に親密であった。はじめ許褚が率いて虎士になった者は征伐に従軍し、太祖はみな勇者であると考え、同じ日に部将に取り立て、そののち武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉は百人余りになり、みな剣客であった。明帝(曹叡)が即位すると、牟郷侯に進み、所領は七百戸、子に爵を賜って一人を関内侯とした。許褚は薨じ、壮侯と諡された。子の許儀が嗣いだ。許褚の兄許定も軍功によって振威将軍になって封ぜられ、王道巡回の虎賁を都督した。太和年間(二二七~二三三)、帝は許褚の忠孝を思い、詔を下して褒めたたえ、また許褚の子孫二人に関内侯の爵を賜った。許儀は鍾会に殺された。泰始年間(二六五~二七五)のはじめ、子の許綜が嗣いだ。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1125075646
※この記事の著作権は配信元に帰属します

【競馬の神様】大川慶次郎が身内だけに残した禁断の投資馬券術「THE.TABOO(ザ・タブー)」

osamuchan0401さん

許褚はどのくらい強い?
三国志の許褚ってもし今の格闘技会に参戦したらどのくらいの強さですか?
マイクタイソンや朝青龍と戦ったらどうなると思いますか?




ベストアンサーに選ばれた回答


shimazu3turinobusenovelさん


ちなみに、正史をひもとくと
黄巾賊が押し寄せて来た時に城壁を固めて
これを防ぎ矢が失くなると巨岩を持ち上げてこれを敵にぶつけた
また、賊と交渉し食料と牛を交換する際に
牛が嫌がったので片手で牛の尻尾をつかみ賊のところへ持っていった
それを見た賊は驚いて逃げてしまった
張繍征伐の際には、先陣を切り
一万の首を持ってきた……………………………

こんな奴にマイク・タイソンや朝青竜が勝てると思いますか?
格闘技界で、こいつに勝てる奴などいるわけがありません
結局、腕力がものをいう



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1116989941
※この記事の著作権は配信元に帰属します

【競馬の神様】大川慶次郎が身内だけに残した禁断の投資馬券術「THE.TABOO(ザ・タブー)」

ddjellyfishさん

三国志/諸侯と家臣の違いについて
魏の許褚は
「曹仁は曹操の一族とは言っても外の諸侯、自分は内の臣であるから二人きりで話したりするべきではない」
と言ったそうですが、三国志を読んでいてもこの諸侯と家臣の区別がイマイチつきません。
この時の許褚は武衛中郎将/関内侯、エピソード後に中堅将軍に昇進したのだったと記憶しております。

いくつかのパターンを考えてみたのですが、どれが正しいのかさっぱり分かりません……。
1.漢の諸侯である曹操と、漢の家臣である部下は上下関係があるだけで立場上は同格
(魏の右将軍だった楽進は家臣だけど、漢の征東将軍だった張遼は諸侯?)

2.太守として土地の支配を任されていれば諸侯で、中央にいるものが家臣
(太守や相に任じられれば諸侯扱い?)

3.一定の兵力を率いていれば諸侯で、曹操の身辺にいるものが家臣
(将軍はみんな諸侯だけど、周辺の護衛は家臣?)

どれも間違っているかもしれませんが、良ければ例を挙げて説明していただけると嬉しいです。
文章をまとめるのが下手なので長文の質問になってしまいましたが、よろしくお願いします。




ベストアンサーに選ばれた回答


sanokuangxianさん


「諸侯」と訳すからおかしいのではないでしょうか。
『三国志 許褚伝』の原文は「彼虽親重,外籓也。褚備内臣」です。
「彼は王室の親族で国家の重臣とはいえ、外を守る将、それに対して私は内侍の臣です」という意味です。

「外籓」には諸侯という意味もありますが、もともとは外塀、防御をする軍を指し、ここでは諸侯というよりも外に駐屯する将軍、と訳した方が正しいと思います。
実際、曹仁はこの頃、荊州を鎮守する将軍でした。
それに対し許褚は曹操の近衛の将軍のような存在です。
「外籓」と「内臣」は外の将と内の将という意味であり、諸侯と臣下ということではないと思います。

漢室との関係ですが、曹操は漢朝に任命された魏王なので、漢室から見たら漢の諸侯、曹仁・許褚等は直接は曹操の部下ですが、曹操自身が漢臣なので、大きな意味ではこの二人も漢臣になります。

右将軍楽進と征東将軍張遼ですが、どちらも恐らく曹操が魏王になる前に右将軍と征東将軍を拝命しているので、曹操も漢庭の許可を得てから任命しているはずです(張遼の場合は曹操が魏公の時に拝命しているので、もしかしたら勝手に行った人事かもしれませんが)。
この二人も直接は曹操の部下ですが、大きな意味では漢の将軍です。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1041279950
※この記事の著作権は配信元に帰属します

姜維

蜀漢 平襄侯 / 左大将軍・仮節
出生 建安7年(202年)
涼州天水郡冀県
死去 景元5年1月18日(264年3月3日)
ピン音 Jiāng Wéi
字 伯約
主君 曹叡→劉禅

姜 維(きょう い、建安7年(202年) - 景元5年1月18日(264年3月3日))は、中国三国時代の魏の人物、後に蜀漢の武将。字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。父は姜冏。

姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる豪族だった。幼少時に郡の功曹だった父の姜冏が異民族の反乱鎮圧に従軍して戦死したため母の手で育てられた。郡に出仕して上計掾となった後、州に召されて雍州刺史の従事となった。その後、かつての父の功績が取り上げられ、中郎の官を贈られ、天水郡の軍事に参与した。

蜀への降伏

228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始して接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の姜維達も諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入ることを許されなかった。冀県に戻ったがそこでも受け入れられず、取り残された姜維は行き場を失い蜀に降伏した。街亭の戦いで蜀軍が敗北すると、諸葛亮は西県の1000余家と姜維らを引き連れて帰還した。そのため姜維は以後、魏に残った母と生き別れとなった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。姜維は涼州で最高の人物だろう」「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど姜維の才を高く評価し、倉曹掾・奉義将軍の官を与え、当陽亭侯に封じている。

裴松之が注で引用する東晋の孫盛の『雑記』によれば、姜維の母親は、姜維に魏に戻るよう手紙を書いたが、姜維は蜀で栄達するという大望があるため戻らないと返事したとある。

蜀軍の中枢へ

その後、諸葛亮の北伐に従軍し、中監軍・征西将軍に昇進した。234年、諸葛亮の死後、成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍を授けられ諸軍を統率することになり、平襄侯に進封された。以後も243年、鎮西大将軍・涼州刺史、247年、衛将軍・録尚書事と昇進を続け、蜀の軍事の中枢を担うようになる。

同年、汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西(現在の甘粛省南東)に進出して郭淮、夏侯覇らと戦い、この地の異民族を味方に付けた。姜維は西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇をたのみ、大規模な北伐の軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが大将軍である費禕(禕は示へんに韋)は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えることはなかった。習鑿歯の『漢晋春秋』によると、費禕は姜維に対し「我々の力は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相でさえ中原を定めることが出来なかった。まして我々に至っては問題にならない。今は内政に力を注ぎ外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」と語っていたという。

北伐と蜀の衰退

253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。254年、魏の狄道県長李簡の寝返りに乗じて三県を制圧し、徐質を討ち取った。翌年には夏侯覇らとともに魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだ。この功績により翌256年に大将軍に昇進する。しかし同年、鎮西大将軍の胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏将鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、蜀の国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格することで敗戦の責任を取っている。257年、諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができなかった。

姜維は「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、兵を漢・楽の二城に集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊して撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう。」と建議した。その結果、督漢中の胡済を漢寿まで退かせ、監軍の王含に楽城を守らせ、護軍の蒋斌に漢城を守らせた。また、西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠に防御陣を築いた。

姜維は長年軍事に力を注ぎ内政を顧みなかった。皇帝の劉禅は宦官の黄皓を重用して酒色に溺れ、蜀の国政は混乱した。また涼州出身の姜維は、蜀の朝廷内では孤立しがちであった。黄皓が閻宇と結託し姜維の追放を画策した際には、当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻や董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。姜維もまた黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。その際に、姜維は趙雲ら蜀設立の功労者に対し侯の諡を送るべきと劉禅に進言し、蜀設立の功労者に侯の諡が送られた。

蜀の滅亡と姜維の死

262年、魏を攻めたが鄧艾に撃退された。263年、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会が蜀に侵攻してきた。姜維は剣閣で鍾会の軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間、鄧艾が陰平から迂回して蜀に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は成都を攻められる前に鄧艾に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながら鍾会に降伏した。(蜀漢の滅亡)将士たちはみな怒り、刀を抜いて石を斬った。

降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いていることを見抜き、鍾会に接近して魏に反逆するように提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍たちを幽閉して反乱を準備した。だが将軍らが生命の危機を感じて暴動を起こしたため計画は失敗し、姜維は鍾会および妻子と共に殺された。享年63。

『三国志』蜀書姜維伝の注に引く『世語』によれば、魏兵が彼の遺体を切り刻んで胆を取り出したとき、その胆は一升枡ほどもある巨大なものであったとされている。

かつて剣閣県剣門関鎮に墓所があり、墓碑・墓廟などがあったが、1936年に川陝公路(現在のG108国道)の整備のため取り壊された。唯一残っていた墓亭も、60年代に文化大革命により破壊され、現在は跡形もない。

三国志演義での活躍

小説『三国志演義』では馬遵配下の将として登場し、諸葛亮の計略を逆手にとって危機に陥らせたり、趙雲と一騎打ちで互角の勝負を演じている。そして諸葛亮はその才を高く見込み、自らの後継者とするために計略を用いて姜維を蜀に投降させている。

『演義』での姜維は諸葛亮の第一の後継者としての趣が強く、基本的に才覚ある善玉に描かれており、諸葛亮の死後、魏への侵攻を続けて時に敗れる描写はあるも、それによる国力衰退に関しては特筆されることはない。

これにより、晩年に蜀の重臣たちが姜維を中央から遠ざけていくということに関して、姜維に対する非を読者に感じさせにくい意匠になっている。なお、演義第119回では、なぜか姜維の享年を59歳としている。また、取り出された胆も鶏卵サイズと史書よりも大幅に縮小している。

横山光輝の『三国志』では、蜀征討戦に対し諸将と共に剣閣の要害に立てこもり連弩で抵抗、魏軍が姜維との戦いを諦めて迂回し、成都を攻め劉禅らを降伏させる。劉禅らの降伏を知った姜維は、泣きながら諸葛亮の遺言を守れなかったと言いつつ、岩に剣を叩きつけて折り、他の兵士らも泣きながらそれに従い降伏するという、締めくくりにしている。


クロスファイアFX 10年間年間ヘ゛ース無敗を誇る高収益FX自動売買システムトレート゛ソフト トレコミュ版


Q&A


am_i_to_believeさん

姜維は名将ですか?
姜維は蜀末期の武将ですが、個人的に蜀の最後の名将だと思います。しかし無謀な北伐もあったりと微妙なところもあります。他の名将たちとくらべてくだいさい。トウガイよりも優れてますか?




ベストアンサーに選ばれた回答


xxxx_xxxx_xxxxx_0000さん


一軍の将としてはそこそこ優秀な将軍だと思いますが、軍の最高責任者としては失格でしょう。

戦争というものは人的資源の著しい消費です。どんなにうまく戦ったとしても死傷者はでます。
魏とくらべ明らかに国力の劣っている蜀にとっては戦争で人的資源を浪費するのはできる限り控えなければならないことです。
それにもかかわらず無謀な北伐を繰り返すのは言語道断です。
だから黄皓だけでなく諸葛瞻らに職務を外されそうになるのです。

単純に戦争だけするのだったらそこそこ優秀だと思いますが、姜維に求められたのはそんなレベルのものではなかったはずです。

ということで私の姜維に対する評価は

「自分の地位を守るために無謀な戦争をつづけた戦争屋」

です。

しかしながら当時の蜀には彼以上の人物はいませんのでしょうがないとは思います。

三国末期の名将と呼べる人物は晋の羊祜、杜預、呉の陸抗ぐらいだと思います。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228653717
※この記事の著作権は配信元に帰属します

クロスファイアFX 10年間年間ヘ゛ース無敗を誇る高収益FX自動売買システムトレート゛ソフト トレコミュ版


freedmu715324さん

姜維が蜀に従軍するのが

劉備が漢中王になったころだったら

少しくらい歴史かわったとおもいますか?

補足もう1つ追加です

諸葛亮の北伐では人材不足で

よい将軍が少なく苦しみましたが

五虎将軍存命中に実戦経験をさせておいたら

馬謖もあんなミスしなかっただろうし・・・



ベストアンサーに選ばれた回答


tarou19712001さん


まったく変わらないでしょう。姜維は「優秀な武将」かもしれませんが、「蜀の国力が弱くなる」という「政治」を無視して、蜀を「滅亡させる」原因を作りましたから。

馬謖がミスしなくても、「諸葛亮が魏に勝利する」のは「不可能」に近いです。諸葛亮の北伐は「第一次」では「侵略戦争」ですが、それより後は「弱小国・蜀を守るための政治の一部・防衛戦争」の性格が強いです。魏が蜀の地の北部「漢中」を占領して、そこを「軍事拠点」にされたら、「蜀が滅亡する可能性」が高いからです。呉の孫権がしつこく「合肥」を攻撃したのも同じ理由。だから諸葛亮は「勝っても負けても、魏に蜀の強さを見せつけたらOK」と考えて「漢中」の外で戦争したようです。その証拠に「史実」の諸葛亮は「形勢不利」と見ると無理をせず、さっさと引き揚げています。また、姜維と違って「蜀の国力が弱まった」と判断したら「戦争」を中止して「政治」を優先しています。中国の娯楽小説『三國志演技』では諸葛亮は「陳倉城」の戦いで敗北して多くの犠牲者を出したと書かれていますが、「史実」では蜀軍の死者の数は「不明」であり、退却する際、追撃した魏の猛将の王双を殺しています。

諸葛亮と劉備が「中国統一」をする夢は、関羽が殺されて「荊州」を失った時点で終わっていたと考えた方がいいでしょう。魏と蜀には圧倒的な「国力差」があり、蜀から魏を攻撃するには、「山岳地帯」を通るため「戦争に必要な食べ物・武器」を運び続ける「補給」が難しいからです。ただ、諸葛亮は「魏が隙を見せた」ら「魏を侵略してやる」と思っていたかもしれません。

ちなみに諸葛亮は『三國志演技』で描かれたような「天才軍師」ではありません。優秀な「戦略家」ですが、劉備が生きていたころは「外交官・政治家」、劉備の死後は「蜀の丞相・蜀軍の総司令官」といった方が正しいです。中国の歴史書『三國志』では「諸葛亮は臨機応変の才能に欠けていた」と書かれていますが、諸葛亮はライバルの司馬懿と戦って「勝った回数」は意外と多いです。ただし、『三國志演技』のような「敵をだまして利用する」ような「奇策」ではなく、「正面から戦う」あるいは「兵法書=教科書」通りに戦う「正攻法」で勝っています。司馬懿は「奇策」も「正攻法」も得意な名将ですから、彼に勝利する諸葛亮も「名将」と評価できるかもしれません。

補足.kanshinshunjyuさんへ

なるほど、「しれない」なら納得です。「あらざるか(得意ではなかったからだろうか)」でした。あと、「惜しい人材」に張翼もつけ加えて欲しいです。彼、姜維の暴走止めようと努力していたから。私は張翼のファンなんで。董厥は忘れてました(笑)。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054567895
※この記事の著作権は配信元に帰属します

クロスファイアFX 10年間年間ヘ゛ース無敗を誇る高収益FX自動売買システムトレート゛ソフト トレコミュ版


mouhu_makuraさん

姜維伯約について。
姜伯約といえば、魏に北伐を繰り返し蜀を疲弊させましたが、何故、姜維は何回も北伐を行ったのでしょうか。

諸葛亮でさえ、果たせないのに、どうして我々が、

と費イは言ってましたが。




ベストアンサーに選ばれた回答


otocincrusvestitusさん


na_cochiさんの答えで概ね良いと思いますが(蜀贔屓の三国志演義の世界観としてですが)、
建国当時の資料を参考にすると、魏:呉:蜀の国力は大体4:2:1程度です。
国力に余裕が有ると、軍事だけでなく他の方面に経済力を向ける事ができます。
その結果、時代を経るにしたがって国力に差がつき始めます。

諸葛亮ですら元々4倍の国力の相手に常識的には勝てるはずが無いのを承知で遠征を仕掛け、結局当然のように失敗しました。

姜維の頃は、4対1どころか5対1~8対1位ですから、もうこれは無茶無謀としか言いようがないですが、国是(漢王朝復興:あくまで建前ですが)を失っては国自体が成り立ちません。やらざるえなかったのでしょう。
魏との示威行為を続けていれば、呉も魏と戦ってくれるという淡い期待もあったでしょう。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1319820603
※この記事の著作権は配信元に帰属します

陳宮

出生 生年不詳
兗州東郡武陽県
死去 建安3年(198年)
徐州下邳国

字 公台
主君 曹操 → 呂布

陳 宮(ちん きゅう、? - 建安3年(198年))は、中国の後漢時代末期の武将である。字は公台。兗州東郡武陽県(山東省と河南省の境目)の人。

勇敢で信念を曲げない人柄で、地元の顔役として若くして多くの名士達と交友を結んだ。

天下が動乱の時代に入ると、まず曹操に仕えた。初平3年(192年)、兗州刺史劉岱が黄巾軍に敗れて戦死すると、「覇王の業」のために兗州を傘下に治めるよう曹操に進言する。曹操の同意を得た陳宮は、先行して兗州に赴き、別駕や治中などを説得して回った。この結果、済北の相鮑信らが陳宮の意見に賛同し、曹操を兗州牧に迎えた。

曹操への叛逆

興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を攻撃すると、陳宮に東郡の守備を委ねた。しかし、曹操軍の大部分が兗州を離れた隙を衝き、陳宮は曹操への叛逆を目論む。陳宮は、陳留太守張邈、その弟の張超、従事中郎の王楷・許汜とともに反乱を計画し、呂布を盟主として迎え入れた。なお、張邈の反乱の動機は、曹操が袁紹と同盟して自分を攻撃するのではないかという不安とされているが、陳宮本人の動機は曹操への疑いを抱いたとあるのみで、詳細は不明である。

張邈らが呂布を迎え入れて曹操への反乱を起こすと、兗州の郡県のほとんどが反乱側に付き、曹操に味方したのは鄄城・范・東阿だけであった。この3城は荀彧・程昱・夏侯惇・曹洪・棗祗(そうし)らが守り抜いた。陳宮は自ら軍を率いて東阿を攻撃したが、程昱が倉亭津の渡しを断ち切ったので行軍が遅れ、その間に東阿は防備を固め、攻撃は失敗した。

興平2年(195年)、曹操が兗州へ再度戻り、呂布配下の兗州別駕薛蘭、兗州治中李封を鉅野で撃破し、これらをすべて斬った。陳宮は呂布に従い、東緡へ出撃して曹操軍を攻撃したが、曹操軍の伏兵に遭って敗北した。その後も呂布軍は曹操軍の前に敗北を重ね、ついに呂布は兗州から逃走し、陳宮とともに徐州の劉備を頼って落ち延びた。

建安元年(196年)、呂布は劉備を駆逐して徐州を手に入れたが、まもなく配下の将である郝萌が反乱を起こした。この反乱自体は高順により鎮圧された。郝萌の下から寝返って帰参した曹性が、郝萌の反乱の黒幕は袁術と陳宮であると呂布に対して供述すると、陳宮は顔を赤らめた。結局呂布は、陳宮が大将であることを理由として、これを不問に付した。

最期

建安3年(198年)冬、曹操が彭城まで攻め寄せてくると、陳宮は呂布に直ちにこれを攻撃するよう進言したが、呂布は曹操軍が下邳まで攻め寄せてくるのを待つとして、これを容れなかった。下邳まで曹操軍が来たところで呂布は城外へ出撃したが、敗北して配下の将成廉を捕虜とされる。下邳城内に追い込まれた呂布は、曹操からの勧告もあって降伏しようとしたが、陳宮やその同僚たちは自分の罪の深さを思い、これを押し止めた。陳宮は呂布に対し、「曹操に降伏するのは、石に向けて卵を投げるようなものです」などと述べている。

陳宮は、局面を打開しようと呂布に献策するなどしたが、採用されることはなかった。同年末、呂布配下の侯成、宋憲、魏続が反乱を起こし、陳宮を捕縛して曹操に寝返った。これにより呂布も戦意を喪失し、ついに曹操に降伏した。

面前に引き立てられた陳宮に「なぜこのようなことになったのだ」と曹操が問うと、陳宮は呂布を指して「この男が私の言うことを聞かなかったために、こうなったのだ」と答えた。さらに曹操が、老母や娘をどうするつもりかと尋ねると、陳宮は「天下を治める者は人の親を殺したり、祭祀を途絶えさせたりしないものだ。母の生死は貴方の手中にあり、私にはない」と言った。曹操は涙ながらに刑場に向かう陳宮を見送ったが、陳宮は振り向かなかったという。こうして呂布、高順らと共に絞殺され、許の市において晒し首にされた。曹操は彼の老母ら家族を引き取って厚遇し、娘は嫁ぐまで面倒を看た。

三国志演義

小説『三国志演義』では、董卓暗殺に失敗して洛陽から逃げ出した曹操を捕まえる、中牟県の県令として登場する。一度は捕らえるも曹操の志に感服し共に逃亡する。

しかし曹操と陳宮は、途中で立ち寄った曹操の知人の呂伯奢の家で、呂伯奢の家族に殺されるのではと疑心暗鬼にかられ、呂伯奢の家族を殺害する。さらに家から逃げ出す途中、曹操は何も知らない呂伯奢をも口封じのため殺害してしまう。そのあまりの身勝手さに呆れた陳宮は、彼の寝込んだ隙に暗殺しようと考えるが思いとどまり、一人で東郡へ去っている。

その後、陳宮は東郡で従事をつとめており、徐州の陶謙とも交流をもつ。曹操が父の仇を討つために徐州に攻め込もうとすると、陳宮は陶謙のために曹操を諫止しようとするが、逆に罵られて追われ、陳留の張邈を頼っている。そして、史実通りに張邈らとともに呂布を擁立し、兗州を曹操から奪う。

呂布が曹操に敗れて徐州の劉備の下に逃れると、これに随従していた陳宮は、呂布に進言して劉備を駆逐し、徐州の支配者とさせる。さらに陳宮は、袁術が派遣した使者韓胤と結託し、曹操らに対抗しようと図るが、密かに呂布の駆逐を狙う陳珪・陳登父子に阻まれ、韓胤は呂布により曹操に引き渡されて処刑される。その後も陳珪父子に行動を妨害され、陳宮は呂布に陳父子を退けるよう諫言するが、容れられず嘆息する。

曹操が徐州へ進攻してくると、陳登の裏切りにより、呂布・陳宮は下邳に追い詰められる。曹操の勧告に応じて降伏しようとする呂布を押し止め、陳宮は弓矢で曹操の本陣傘を射抜いている。さらに「掎角の勢」を進言して曹操軍を破ろうとするが、呂布の妻厳氏が泣いて呂布を止めたため、実行を取り止めている。最終的に敗北した後、刑場での曹操とのやり取りは、史実とほぼ同様である。
人物像

智謀の士として当時も名声が高かった陳宮であるが、下邳城を包囲していた際に曹操の参謀荀攸は、「陳宮は智謀こそあるが、決断が遅い」と評している。

『三国志』呂布伝の注に引く「典略」によれば、陳宮は呂布の為に策略を立てたが、呂布は陳宮の策略に従わない事が多かったとされる。その事例としては、下邳篭城戦の際のやり取りがあげられる。陳宮は、呂布が城外に布陣し、自らが城内に留まったうえで曹操の背後を攻撃し、曹操が城を攻めたら、呂布が城外から救援するよう献策した。しかし呂布の妻が、「曹操は陳宮を我が子のように優遇していたのに、それでも陳宮は裏切りました」との旨を呂布に述べたため、陳宮の策は採用されなかった。

また、陳宮は高順と深刻な不仲であった。同じく下邳篭城戦の際に、呂布は陳宮と高順に下邳城を守らせ、騎兵を率いて曹操軍の糧道を断とうとしたが、呂布の妻が陳宮と高順の不仲を指摘したため取りやめている。

史実上の彼の行動には不明な点が多く、各創作物では知謀に長けた策士という人物像を基調とし、様々な陳宮像が描かれている。


【競馬の神様】大川慶次郎が身内だけに残した禁断の投資馬券術「THE.TABOO(ザ・タブー)」



Q&A


harrymeetsdobbyさん

どうして陳宮は曹操の下で手腕をふるうことを断固拒否したのですか?
両親、家族子供がいて先立つのに無念があったと思います。
それを超えてでも曹操に仕えることを拒否した陳宮の内を
知りたいです。
補足あぁ、、、確かに本人しか分からないですね。。。
では、、、見聞きした彼の性格などを踏まえて
回答者さんが思う理由とかありましたら聞かせ願います♪



ベストアンサーに選ばれた回答


frogman03544さん


陳宮は生涯で何度も読み違えを犯しているように思います。
彼も、戦国の乱世を生きる武将として、
一旗挙げたいという野心はあったと思います。

弓の腕前は相当だったようですが、
地盤や子飼いの部下がいる訳ではなく、
圧倒するようなカリスマ性も無い。
自分には、「武」より「知」が向いていると悟り、
世にでる切っ掛けとして、当時有力な武将を影で支えて、
軍師として名を売ろうと考えたのでしょう。

まず目をつけたのは曹操。
ところが、想像以上に「武」と「知」を兼ね備え、
自分にはない残虐性も備えている。
チョッと自分の手には負えそうもない。考え方も違う。
『陳宮の読み違え①』です。
曹操に進言して同意を得た陳宮は、兗州を口先三寸で手に入れ、
曹操に留守を任されたことで、自分の地盤にしようとします。

しかし、武力が足りません。
そこで目をつけたのが、
どう考えても「知」が少々足りない呂布。
張邈、張超、王楷、許汜あたりは、
いつでも自分の知略で御し得る自信もあったのではないでしょうか。
ところが、反乱を起こしてみたものの、
呂布は想像以上の「イノシシ野郎のお馬鹿さん」。
これでは曹操の敵ではありません。
『陳宮の読み違え②』です。

このままではジリ貧ですので、
郝萌を焚きつけて反乱を起こしたものの、
曹性に寝返られて失敗します。
『陳宮の読み違え③』です。

呂布は自分に足りない「知」を、
陳宮が持っていることは自覚してますから
彼を許しますが、さすがに猜疑心も芽生えて陳宮の進言を聞かなくなります。
また、その策謀を、高順に疎まれ、
呂布夫人厳氏に嫌われ、
それでも期待をかけていた呂布は、
配下の侯成、宋憲、魏続が反乱し曹操に降伏してしまいます。
『陳宮の読み違え④』です。

結局、有り余る策略を生かす機会を、
読み違えを繰り返すことで無くしてしまい、
自分の野望もなくしてしまったのだと思います。
例えば、当時の劉備に仕えていたら、
まだ根無し草状態の流浪の集団。
諸葛亮を得る前で、呂布ほどではないにしろ、
「武」はあっても「知」が足りない時期、
もし主従していれば諸葛亮よりも優秀で
後年評価を得る軍師となっていた可能性も無きにしも非ず。

劉備は曹操や呂布より素直で扱いやすく、
陳宮が嫉妬するほどの才能がない分、
能力を発揮できる環境や未来があったように思います。
これも『陳宮の読み違え⑤』で、
最も惜しまれる読み違えといえるのではないでしょうか。

仕える人間を間違ったんですね。

曹操の面前に引き立てられた陳宮に、
「なぜこのようなことになったのだ」と問うと、
呂布を差して、
「この男が私の言うことを聞かなかったために、こうなったのだ」
と答えたとされます。
これは自分の読み違えに対する後悔の念であり、
自分への叱責に聞こえます。
陳宮は、
「天下を治める者は人の親を殺したり祭祀を途絶えさせたりしないものだ。
母の生死は貴方の手中にあり、私にはない」と言いきり、
曹操は涙ながらに刑場に向かう陳宮を見送り、
曹操は彼の老母ら家族を引き取って厚遇し、
娘は嫁ぐまで面倒を看たとされます。

結果的に陳宮は、呂布が負けた時点で、自分の「知」も負けたと自覚し、
三度、主君を変えようとしなかったのは、
最後まで読みきれなかった曹操に仕える自信を失ったのと、
読み違えを繰り返す自分の限界を知って、
戦乱の世に身の丈以上の人生を送れて満足したのではないかと愚考します。
先の回答者さんの述べられたように、
自分の親族については曹操に託しても大丈夫だと、
信じるに足る人物だと判断したのでしょう。

最後の主君になった呂布に殉じたわけではなく、
晩節を汚さず立派に死んで、
一緒に死んだ高順が不当に低い扱いしか受けなかったのに、
呂布に殉死した忠臣のように描かれることもあって、
陳宮も忠臣のように描かれます。
陳宮自身は「呂布と一緒に語るな」と怒っているかもしれませんが・・。

余計な話しながら、
主君を度々変えた張遼のような生き方も、十分ありだとは思います。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1255276607
※この記事の著作権は配信元に帰属します


【競馬の神様】大川慶次郎が身内だけに残した禁断の投資馬券術「THE.TABOO(ザ・タブー)」


maintop2410さん

陳宮って何をやって人なのですか?簡単に説明お願いします。
また何故あんなに玄人ウケするのでしょうか。
どうかご回答よろしくお願いいたします。





ベストアンサーに選ばれた回答


himajin_75さん


陳宮とは三国志の陳宮?

簡単に説明すると、陳宮は曹操を捕まえた黄巾族の隊長だが、曹操の理念に同調し一緒に逃亡、曹操の知り合いの家に泊まったのだが、家の者が曹操をもてなす為家畜を殺そうしているのを勘違いした曹操が斬殺、間違いに気付いたが禍根を残す事は許さない曹操は買い物から戻って来た他の家の者も全員惨殺・・ここで、曹操と陳宮の考え方の違いが露呈し、陳宮は曹操に敵意を持ち袂を分かれる。
その後陳宮は曹操の天敵、呂布の下に走る。何度か曹操を苦しめるが、呂布は強いが徳も頭も無く、ついには水攻めで呂布・陳宮とも捕まる。最後、曹操が陳宮に自分に従うように進言するが、首を縦に振らず斬首される(呂布も斬首)。

陳宮は多分、せっかく大人物と思い、捕まっていた曹操を助けたのに、あまりにも非人道的な行動する曹操が許せなかったのではないでしょうか・・その曹操を最後まで倒そうとした陳宮の執念が、「玄人ウケ」しているかも知れませんね。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1144410421
※この記事の著作権は配信元に帰属します


【競馬の神様】大川慶次郎が身内だけに残した禁断の投資馬券術「THE.TABOO(ザ・タブー)」


biohazard_bio_hazard_biohazard5さん

曹操のところに呂布、陳宮、高順が仲間に加わっていたら、この3人は活躍しますか?




ベストアンサーに選ばれた回答


touhaku_snowさん


呂布・・・飼いならす事は無理
陳宮・・・曹操が大っ嫌い
高順・・・優秀だが気真面目過ぎる


やはり曹操の手腕次第ですね。
個人的には呂布対馬超の一騎打ちを見たい気がしますが
呂布は適当な参謀(郭図あたり?)をつけて江戸時代の外様よろしく
北方に押し込めて対異民族の最前線に配置するのが適当でしょう。

陳宮は朝廷との接触係にでもまわして存分に「反曹操連合」を画策してもらいましょう。
素直に働くにしてもそうでないにしろ敵対者を焙り出すにはもってこいの男でしょうから。

高順は蔵覇と共に対張繍・西涼戦に従軍してくれればかなりの活躍をしたと思います。
「東に張遼あらば西は高順あり!」なんて叫んで張魯軍を蹴散らしていたりして。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1021230895
※この記事の著作権は配信元に帰属します