大喬

大 喬(だい きょう、 Dà Qiáo 生没年不詳。正史では大橋)は、喬玄(正史では橋公)の娘。小喬の姉。孫策の妻。京劇では喬靚という名で知られる。

正史では橋公の娘で孫策の「妻」としか記述がない。この橋公は、橋玄(喬玄)とは別人といわれている。199年12月、妹の小喬と共に皖城を占領した孫策軍の捕虜となり、孫策の妻妾の一人に加えられた。このとき孫策が小喬を娶った周瑜に「『江東の二喬』は確かに美女だが、我等を夫にできる二人も幸せであろう」と言ったという逸話もあるが、結婚後四ヶ月足らずで夫は死亡。また所生の子の有無ならびに結婚直後に袁術・劉勲の妻子らと共に呉(江蘇省蘇州市)へ送致された後の消息は一切不明。

なお、小説『三国志演義』上では大喬の美しさを讃える言葉として、『月も光を消してしまい、花も恥じらってしまう』とある。妹の小喬とは「江東の二喬」と呼ばれ共に絶世の美女とされている。赤壁の戦いで曹操が小喬と共にはべらせたいことを諸葛亮から聞いた周瑜は大変怒り、戦いを決意させたとされている。


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Q&A

solitude_0211さん

「貂蝉・大喬・小喬」、この中で一番の美人は?
三国志の中には絶世の美人が何人か出てきますが、その中でも貂蝉、大喬・小喬姉妹が有名だと思います。

ではこの3人の中で一番の美人は誰だと思いますか?
出来れば理由も教えて下さい。




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jiitanioさん


単純に考えて、「中国四大美女」の一人、貂蝉がNo.1でしょう。
ちなみに四大美人は西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃です。
(「当時の美人は今ではブスだ、楊貴妃はデブだったらしいし」とか言うのはなしですよ)

四大美人図。
http://www.godpp.gov.cn/wmzh/2007-11/07/content_11610792.htm
上から西施、王昭君、楊貴妃、貂蝉

現在のドラマに出てくる四大美人。
http://yx988.com/list.asp?id=45629
(この中では個人的には王昭君が好き。三国時代じゃないけど・・・)

あと、今年中国で放送された『新三国』では4人の有名な女優さんが出ました。
貂蝉、大喬、小喬と孫尚香(劉備妻)の役です。
(残念ながら甄氏とかは出てません)

http://bbs.cqnews.net/thread-1083436-1-1.html
大乔→大喬
小乔→小喬
孙尚香→孫尚香
です。
この写真の中では個人的には貂蝉より大喬(一番下の写真)の方が美人だと思います・・・。


追記
モコさん、殷桃が好きとは、うれしいことを言ってくれますねえ。
実は私、殷桃ファンでして。
私が留学していた重慶の出身ということもあるのでしょう。
『衛生隊的故事(物語)』というドラマでは生粋の重慶語を話していました。
http://www.hudong.com/wiki/%E6%AE%B7%E6%A1%83
『楊貴妃秘史』の楊貴妃役も『蒼穹の昴』の張夫人役もいい感じでした。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1249296242
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daiya00000さん

大喬は長女ですか





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zenichiro2001さん


他に兄弟姉妹がいたか不明なので、小喬の姉である以外は分かりません。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1315440593
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sippunokazeさん


三國志の蔡文姫、孫尚香、小喬、大喬、王元姫について詳しく教えて下さい
最近三國志にはまりました!




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zigentaishiさん


孫尚香…尚香は後世の創作。名は不明。孫権の妹。政略により劉備に嫁ぐ。女官を武装させ、劉備を拒絶。後に呉に帰る。その際、劉禅を誘拐しようとしたが、趙雲が阻止。
大橋(喬)小橋(喬)…姓が橋のため、姉を大橋、妹を小橋と区別。大橋は孫策、小橋は周瑜の妻。取り立てて事跡は無し。
王元姫…魏の三公、王朗の孫。王粛の子。司馬昭に嫁ぎ、晋の初代皇帝司馬炎や司馬攸を産む。
王元姫は聡明だったらしい。
因みに父親の王粛は、天才占い師の管輅に「三公(臣下で最上の地位、太尉、司徒、司空)になる」といわれたが、その前になくなった。管輅の占いが外れた珍しい例です。

蔡文姫について記載をうっかりしてましたが、kanshinさんが詳しく記載してくださったので不要になりました。補足するなら絶対音感の持ち主。琴の弦が切れたらどの弦が切れたか見なくてもわかったという。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1258087887
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李典

李 典(り てん、生没年不詳)は、中国の後漢末の武将。曹操に仕えた。字は曼成。山陽郡鉅野県の人。子は李禎その他1名。『三国志』魏志に伝がある。

生涯

謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだという(『魏書』)。学問の師をつけて『春秋左氏伝』を読み、さまざまな書物に目を通した。曹操は李典の振る舞いを好ましいものと思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。

従父の李乾はおおしい性格で、食客数千家を擁して乗氏県にいたが、初平年間に曹操の挙兵に応じて馳せ参じ、寿張の黄巾賊との戦いや、袁術との争い、徐州征伐など、数々の戦いに参戦して、武功を立てた。

呂布が兗州で反乱を起こすと、曹操は李乾を乗氏県に帰還させ民心を落ち着かせようとした。李乾はそこで呂布の任命した兗州別駕の薛蘭・李封から帰順の催促を受けたが、断固として拒んだために、薛蘭・李封に殺害された。曹操は李乾の子の李整に後を継がせ、諸将とともに薛蘭・李封を追討させた。李整は兗州の諸県を鎮圧するなど武功を立て青州刺史までになった。李整が亡くなると李典が李整の軍を率いることになり、潁陰の令に転任し、中郎将に任命された。

そのとき、曹操は袁紹と官渡で対峙していたため(官渡の戦い)、李典は一族と部下を引き連れ、食料・絹などを曹操軍に輸送し供給した。曹操が袁紹を破るとヒ将軍に任命された。

袁紹の死後、曹操は袁譚と袁尚を黎陽に攻撃したが、李典に命令し、程昱と共に兵糧を輸送させた。袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させた。曹操は予め、水路を通ることが困難なら陸路を使うよう命令をしておいたが、、李典は敵の状況を見た上でその命令を聞かずに独断で程昱と相談し、高蕃に急襲をかけてこれを打ち破り、水路を回復させた。

荊州の劉表を頼った劉備が葉まで侵攻してきた時、曹操の命令で留守を守る夏侯惇の配下として戦った。戦いの最中、劉備が突然陣営を焼き払い退却したため、夏侯惇は追撃の好機と見た。李典はこれを劉備の策であるとして諫めたが、夏侯惇は聞き容れず于禁とともに追撃に出、李典は留守を守った。果たして夏侯惇は劉備の伏兵に遭い不利になったが、李典が救援に赴いたため劉備は撤退し、夏侯惇は窮地を脱することができた(博望坡の戦い)。

鄴の包囲に参加した。鄴の平定後、高幹が壺関で挙兵すると楽進と共に討伐した。また長広の管承を楽進と共に破り、捕虜将軍に昇進、都亭侯になった。曹操から受けた厚遇に感動した李典は、乗氏から1万3000の一族郎党を魏郡鄴県に移住させた。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。

208年、曹操は荊州征伐に向かう際に、司空掾属主簿である趙儼に章陵太守を兼任させ、さらに都督護軍に転任させた。これにより李典は、于禁・張遼・張郃・朱霊・路招・馮楷の6将軍と共に趙儼の統括下に入ることになった(「趙儼伝」)。

その後、曹操の命令で孫権への備えとして、李典は張遼、楽進とともに合肥に駐屯していたが、この3名は元来不仲であった。215年、孫権が合肥を攻撃してくると、張遼は2人が命令を聞かないことを心配したが、李典は国家の大事に私情は差し挟まないとして、楽進と共に張遼と協力して戦うことを誓いあった。李典は張遼と共に800の兵を率い、孫権が率いる10万の軍勢を迎え撃ち、撃退した(「張遼伝」、合肥の戦い)。100戸の加増を受け、300戸となった。

李典は学問を好み、儒学の素養もあり、諸将と功績を争うこともなく、士大夫にも謙虚に接した。軍中においても称えられたという。

36歳の若さで病死し、愍侯と諡された。子の李禎が後を継いだ。

曹丕(文帝)が帝位に就くと、李典の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられたという。

244年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の霊廟の堂前の広場に功臣達を祭ったが、その中に破虜将軍李典も含まれている。

『三国志演義』での李典

小説『三国志演義』では、曹操が董卓に反旗を翻し、軍を編成した時点で3千の兵を引き連れて参加し仕えている。黄邵を捕虜にするなど曹操の将として早くから武功を挙げ、呂布との戦いや華北4州平定にも参加。禰衡には他の曹操の部下とともに罵られている。

その後に曹仁の配下として樊城に駐屯している。206年、曹仁が劉表の客将として新野に駐屯する劉備を攻撃しようとした時、李典は曹操に援軍を要請するべきだと慎重策を述べ、曹仁と対立している。李典の懸念通り、曹仁は劉備の軍師である徐庶の采配に翻弄され、樊城を奪われてしまう。

207年に、劉備と諸葛亮打倒を曹操に志願した夏侯惇の配下として于禁と共に付けられ、新野付近の博望坡に攻め寄せる。この時も李典は劉備軍の撤退の様子を不審に思い、夏侯惇の追撃を諫めている。夏侯惇は李典の言葉を聞き入れず深追いしたため、案の定諸葛亮の火計に遭い大敗。しかし、李典は夏侯惇をあらかじめ諌めていたことにより曹操から賞賛されている(博望坡の戦い)。

208年、曹操が荊州など南方征伐を行った時も引き続き従軍する。長坂坡の戦いの最中、逃亡する劉備を追跡するが、長坂橋で仁王立ちしている張飛に撃退されている。再び曹操と共に長坂橋に行くと、今度は橋が焼き払われていたため、李典は「橋を落としたのは伏兵のない証拠」と判断して再追撃を命じた曹操に「諸葛亮の罠ではないかと思われます」と進言した。曹操は李典の言葉を聞き入れ撤退している。209年、張遼の副将として合肥の守備を任され、呉の武将の宋謙を射殺し、さらに太史慈を計略にかけて討ち取っている。以降も史実と同様、合肥の守将として張遼を助けた。

以上のように相手の策を見破り進言する知性的な副将としての位置で描かれることが多い。


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Q&A


biohazard_bio_hazard_biohazard5さん

三国志


私は李典が大好きなのですが、諸葛亮は李典の事評価していましたか?

李典が諸葛亮の罠を見破った事で。

曹操は李典の事高い評価を付けてたのでしょうか?




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frogman03544さん


博望の戦いは、諸葛亮が始めて兵法を使った戦いと言われてます。
夏侯惇は案の上策略に引っ掛かりましたが、李典はそれを見破りました。
諸葛亮が、その李典を評価したという記述はありませんが、
机上で考えた策が、その通り実戦で通用しないってことをこの戦いで知ったでしょうから、李典の名前は十分覚えたのではないでしょうか。
曹操も、若い頃学問が好きで「春秋左氏伝」を読み、軍事を好まなかった李典を好ましく思って人民統治に抜擢しましたし、
袁紹討伐後には碑将軍(のぎへんに卑ですね。)。
壺関、長広戦の戦功に対して捕虜将軍に昇進、都亭侯に取り立てられました。
また同族配下3000余家を自発的に魏郡に移住させたことを、曹操はそれを嘉し、破虜将軍に昇進させています。
合肥にて張遼とともに孫権を打ち破ったので、百戸を加増され、三百戸になっています。
正史の記載とおり、大変評価が高かったんではないでしょうか。
ちなみに、儒教の教養を尊び、諸将との功績争いもしなかった謙虚な態度は、軍中で彼の長者ぶりを讃えたとのことなので、
仲間からも尊敬される人物だったんでしょうね。
また、36歳で亡くなったあと、文帝は後継の李禎に、父親の合肥の活躍を讃えて加増してますし、
李典の一子に関内侯、領邑を賜り、李典には愍侯の諡名を送ってますので、
魏王朝でも評価も高かったと思います。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220807682
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lu_xunoさん

合肥の戦いで「国家の大事に私情ははさまん」といったのは李典ですか、楽進ですか?





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frogman03544さん


『李典』です。

張遼と楽進、李典は仲が悪く、
特に李典は、かつて張遼が呂布の部将であり、
そして呂布の勢力に伯父を殺されていたことから張遼と折り合いが悪く、
張遼は李典が自分の命令に従わないのではないかと心配しました。

李典は
『国家の緊急事態にあっては私怨は問わない』と断言し、
張遼と共に出撃することとなりました。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1225394422
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xjg0t0さん

中国の歴史 三国志の質問です。 魏の名将 張遼 と同じく 魏の勇将 李典。 この二人は同じ国(魏)の仲間なのに仲が悪かったと簡単に紹介された記事が有りましたが これは噂 の一例ですか?事実ですか? 詳しい方 教えてください。




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frogman03544さん


不仲だったのは事実とされます。

215年の合肥の合戦において、
張遼・李典・楽進は、共に合肥に駐屯していましたが、
孫権が十万の兵で攻め寄せてくると、軍勢を率いてそれを包囲しました。
上将たる張遼は、命令を奉じ城を出て戦おうと思いましたが、
楽進・李典・張遼・はいずれも平素から仲が良くなかったので、
張遼は二人が従わないことを懸念しました。

李典は憤然としていいます。
「これは国家の大事です。問題は君の計略がどうかという事ですぞ。
我々は個人的恨みによって公の道義を忘れはしませぬ。」
そこで軍勢を引きつれ、張遼と共に孫権を打ち破り敗走させました。
(正史「李典伝」)

李典と張遼は不仲だったため、従おうとしませんでした。
だが、張遼の「個人的な感情で国事を疎かにするのか」との言葉に感服し、
協力して呉軍を退けました。
(正史「張遼伝」)

親族の李乾が呂布への帰順を拒んで殺されていたことから、
呂布の配下であった張遼との間にはわだかまりがあったという怨念説。

古くから曹操に付き従ってきた李典が、
外様で敵将だった張遼が、
自分の上に付いたことが面白くなかったという嫉妬説。

張遼が、丁原→董卓→呂布→曹操と君主を3度も変えたことを、
詰ったという非難説。

とかが原因だとも言われます。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228610702
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馬謖
生誕 190年
襄陽宣城
死没 228年

馬 謖(ば しょく、190年 - 228年)は、後漢末期から三国時代にかけての武将。蜀に仕えた。字は幼常。襄陽宣城(湖北省宜城県)の出身。襄陽の名家である「馬氏の五常」の中の五男(末っ子)として誕生した。白眉で知られた馬良の末弟。


217年頃、荊州従事として蜀に入り、劉備に仕え、各所の県令・太守を歴任した。並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能は諸葛亮に高く評価された。ただ、劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終する間際にも、「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要なことを任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。しかしながら馬謖の才能を愛する諸葛亮は、劉備の死後、彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った。

224年の春に、建寧郡の豪族の雍闓(=ガイ、門の中に豈)らが西南夷の有力者の孟獲を誘って謀反を起こした。馬謖は「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と諸葛亮に助言し、これが七縱七擒などの作戦に繋がり、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与することになった。

228年春3月に諸葛亮は第一次北伐の際、彼に戦略上の要所である街亭(甘粛省安定県)の守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮は道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いてしまう。副将の王平はこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。

その結果、張郃らに水路を断たれ山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫する。翌5月に諸葛亮は敗戦の責任を問い、馬謖を処刑した。諸葛亮はこの為に涙を流し、これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事となった。王平伝には馬謖及びその配下の将軍である張休・李盛を軍規に基づいて処刑したとある。

裴松之が注に引用する習鑿歯の『襄陽記』によると、馬謖は処刑される前、諸葛亮にあてて「明公は私めを我が子のように思ってくださり、私も明公のことを父のように思っておりました。舜が鯀を誅しその子の禹を取り立てたように(私の遺族を遇し)、生前の交遊を大切にしてくださるなら、私は死んでも恨みません」と手紙を書き残し、諸葛亮も馬謖の才能を愛し、目をかけていただけに、彼の処刑に際して涙を流した。馬謖の遺児は処罰されることはなく、以前と同様に遇されたという。

習鑿歯は、諸葛亮が馬謖の起用法に失敗したことや、失敗したにもかかわらず起用され続けて功績をあげた過去の将軍を例にあげ、諸葛亮が馬謖を処刑して、有用な人材を失ったことを批判している。

なお『晋書』陳寿伝には、『三国志』の撰者である陳寿の父は馬謖の参軍であり、この時馬謖に連座して髠刑(=コン刑、剃髪の刑で宮刑に次ぐ厳重な処罰だという)に処されたという逸話が載る。

小説『三国志演義』では、曹丕が死去し曹叡が皇帝に即位した際に、司馬懿が涼州に赴任を志願し、蜀への対策を行っているという話を聞くと、司馬懿が謀反を起こすという噂を流すべきだと諸葛亮に進言、その噂を信じた曹叡らが司馬懿を疑い、司馬懿を役職から外し思惑が成功し、それを聞いた諸葛亮が出師表を出し北伐を行うことになった。


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oyajiniisanさん

「泣いて、馬謖を切る…」
三国志についての質問です。
史実に基ずき、孔明は、街亭の戦いに於いて、言いつけに従わなかった馬謖を斬首してしまいましたが、
孔明は、馬謖を寵愛し、有望視していながら、何故、斬首しないまでも、生き残させる手段としての、
君主である劉禅に命を、仰ぐという、妙計を思いつかなかったのでしょうか??
(劉禅がそれでも馬謖を切れ…と言うなら、意味ありませんが。)
蜀には、人材が不足しているのに、前君、劉備にも仕え、功績もある程度なら、ある馬謖に、蜀の行
く末を想うなら、やはり馬謖を生かし、後の功績によって、償わせる事も出来たと思います…。
孔明に軍師としての才はあったとしても、王佐の才が無かった事は明らかでしょうが、それでも、天才軍師
としては、あるまじき早計、孔明も人の子、やはり街亭での惨敗に怒りを覚え、感情的になっていたのでしょうか??
補足general_hocheさん、
諸葛亮も軍法に従う身であり、…諸葛亮が同様の罪を負うことになるのです。
まさにここなのです。私が聞きたかったのは!!恐らく、その時の丞相であった孔明こそ
が、その軍法を作ったと思うのですが、孔明は軍律を守る為、軍法にのっとて将軍達
の手前馬謖を切らなくてはいけませんが、もし劉備が生きていたら同様に馬謖を切って
捨てたのか?という王佐の才と軍師の違いの事を、聞いているのです…。



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general_hocheさん


それは根本的な間違いです。信賞必罰は、法家あるいは兵家思想的に、絶対的な概念であり、軍法でもあります。馬謖は、「言いつけに従わなかった」という程度でなくて、命令を無視したのであって、これははっきり死罪に値します。お使いにいった子供じゃなくて、命令をうけた将軍ですから・・・。敗北したことが問題ではなく、命令を無視して、独断で行動してさらにそれを理由に失敗したことが、死罪に値する彼の罪になります。これは避けられません。
諸葛亮も軍法に従う身であり、馬謖を溺愛するがゆえに法を曲げるということなれば、諸葛亮が同様の罪を負うことになるのです。韓非子の説話には、眠ってしまった王に善意から着物をかけた冠役人が死刑になる話があるわけで、法と秩序の絶対性は、あなたの思うレベルではないです。
「泣いて馬謖を斬る」の逸話は、そもそも感情に流されることなく、法を守るというものであり、「惨敗に怒りを覚え、感情的になって」という解釈は、完全に見当違いなもので、まったく逆です。泣いて斬るわけですから、感情に逆らうわけです。法の絶対的な優位は、中国思想に頻繁に登場するモチーフで、人間的であることが堕落や癒着、汚職につながるというのが根底にあるわけですから、諸葛亮のこの「泣いて馬謖を斬る」の逸話は"美談"であり、馬謖を斬った判断は彼の株を上げこそしろ、下げることはないです。人情論が好きな日本人には馴染めないかもしれませんが、趣旨が異なります。

あと、三国志演義は(主役側であるため)全般的に蜀を過大評価してます。諸葛亮がどんなにがんばっても、あるいは彼が演義を上回るスーパーマンであっても、中原を制圧することは不可能な命題であって、後半の北伐のところは話半分に読むべきです。人材についてもそうですが、実際問題としてはそれらは問題にならないほど、国力が違いすぎ、魏および晋にかなうものではありませんでした。蜀が延命したのは、単に魏の内紛によるものです。北伐は(馬超の反乱すら長安を包囲したのに)実際には長安に近づくことすらできておらず、大勢に影響ないマイナーな紛争に過ぎません。



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nicknamehaadanaさん

”泣いて馬謖を切る”の孔明の涙の真実、真意
カワイイ部下でも、軍法を破り、罪を犯したら、斬るというので泣いたというのが定説ですけどね。実際、孔明が馬謖を寵愛してたのは事実ですが、その一方で、涙の原因は劉備が死に際に「馬謖は口先だけの中身のない男だから重用するでない」と遺言を言った。 
 孔明はその劉備の諌めも聞かずに馬謖を起用してしまった、自分の人の見る目の無さを嘆いて泣いたとされる説もあるし、こっちの方が説得力とか信憑性があるんですけど、どうですかね?
 確かに人材は不足してたけど、あの街亭の死守は並の武将でも、命令通りにしてくれる人間であれば務まったでしょ?馬謖より、知恵が足りなくても。馬謖の生兵法が敗因だったんだしって結果論ですが・・・。




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amanoamiitoさん


劉備の廻りには人が集まったが、孔明の廻りには人が集まらなかった。

劉備はどちらかと云えば、漢の始祖である劉邦と同じで任侠の世界の大親分の風情があり、一言で云えば「徳」のある人物だった。
一方の孔明は大政治家の一人といえるが、その思想は明らかに法家に根ざしており、一言で云えば峻厳な「法」の人だった。
「徳」とは人の精神を見て情状酌量の余地を残しているが、「法」とは人間の行動のみを見て一律的に対処することを鉄則にしている。
劉備と孔明の関係は、「徳」の人が上に立ち、「法」の権化がその下で腕を振るうという構図だ。
劉備の包容力だけでは今ひとつ伸び悩んでいたところに、孔明の峻厳さで組織としての芯が出来たことが、その後の蜀漢帝国の成立という大きな飛躍につながったのだろう。
劉備が孔明を得たことを称して「魚が水を得たようだ」と言っているようだが、正しくそのような関係だったのだろう。

しかし、劉備亡き後は法家の非人間的な峻厳さだけになってしまった。
劉備が生きていれば、きっと馬謖の命を奪うようなことはさせなかっただろう。部下である孔明に土下座してでも何とか法を曲げて罰を減じてくれるように頼み込んだかもしれない。
とかく、法律の厳格な執行のみで酌量の余地がない世界には人は住みづらい。厳格さは必要でもそこに寛容の精神が働かなくては人は息が詰まってしまう。
厳格に法を執行すれば、自衛隊は憲法違反であり、小銭を賭けたマージャン、トトカルチョの類は勿論、法の抜け穴をかいくぐっただけで法の精神を踏みにじっているパチンコの換金も一律的に罰せられることになるだろう。ソープランドも勿論犯罪だ。

劉備以後、孔明が事実上の最高権力者となった後、蜀漢帝国が次第に人材不足に陥った大きな理由のひとつが、この孔明の峻厳さだろう。
法家思想が国家発展の絶対的支柱だと孔明は信じていた。実際に秦の始皇帝は法家思想で国を強くし、戦国を制したのだ。
法家絶対思想の観点から云えば、自分の親子兄弟や愛する馬謖であろうとも例外なく処断するのが当然で、孔明の個人的な感情も一切入り込む隙がないのだ。
孔明は一瞬たりとも馬謖を助命することは考えなかっただろう。しかし、本当に孔明が涙したなら、「泣いて」の部分は、法家至上主義の孔明にも人間的側面があったことを示している。だとすれば、涙は馬謖が孔明の数少ない心の交わりを伴った側近だったからだろう。自責の念も勿論あっただろう。
しかし、だからといって法を曲げてしまえば、国の安定・発展が損なわれてしまうので例外は認められない。それが法家至上主義者たる孔明ということだ。法の無慈悲を躊躇なく実践してきたものにとって、例外を認めることは己の全人生・全人格を否定してしまうことでもあるのだ。

孔明の誤りをひとつ挙げるとしたら、法家思想に基づいた始皇帝の成功場面を重視し、始皇帝の死後、瞬く間に崩壊した秦帝国という法家思想のマイナス部分を軽視したことだろう。



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am_i_to_believeさん

馬謖を斬ったのは正解でしたか?
諸葛亮の愛弟子であり軍規に背きそして大敗した馬謖は諸葛亮に斬られますが、この処置は適切でしたか?不適切でしたか?個人的には馬謖はとても好きな武将なのでもっと生きて更なる活躍が見たかったです。




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tokyoheart123さん


天下の孔明様の決めたことなので、不正解とはいえませんが。
でも私も、蜀が孔明の死後滅んでしまったことを考えると、馬謖も、何か蜀のために最後やってくれたのではないか、とも思えるので、そのときの馬謖の戦いを見たかったとは思います。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1025777460
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