孔明さんの名前を知ったのはかなり昔、子供の頃に見た時代劇の中の台詞です。内容などは全く覚えていませんが、劇中で「諸葛孔明なら」とか「孔明曰く」とかという言葉が頻繁に出てきて、子供心に、「しょかつこうめい」ってなんだろう?と思ったことが、たぶん、最初です。

 当時は、子供過ぎてそのままにしてしまいました。長じて、ある日、NHKの人形劇{三国志」に出会います。25年前のことです。

 お恥ずかしいことに、当時は「三国志」の内容も知らなければ、登場人物に孔明さんがいることさえ知りませんでした。回を重ね、孔明さん登場のシーンを迎えた時、子供の頃の、あの台詞が浮かんできました。日本の武士はこの人をお手本に生きていたのだろうか。

 親に忠孝、主君に忠誠、義を重んじ、清廉に生きる。これぞまさしく日本の武士道。その武士からお手本とされる人が、諸葛孔明という人なのか。

 その時は子育て真っ最中で、吉川英治作「三国志演義」を読むのが精いっぱい。しかも、ストーリーを追うのみで登場人物の内面を思いやる余裕などありませんでした。人形劇の孔明さんは、いきなり三顧の礼から登場し、赤壁で超人的な才能を披露し、勝利をもたらします。

 これは、人形劇だから、演義の内容だからと、実際の孔明さんはこんな超人的な人のはずはないと、冷静に見ていたつもりです。でも、なぜか、孔明さんへの思いは残っていたのでしょう。

 今年、人形劇「三国志」の再放送に接し、突然、孔明さんが大きな存在となって心に潜んでいることに気付きました。人形劇の孔明さんは確かに魅力的です。でも、私の心にいた孔明さんは、武士のお手本となった人。生身で乱世を生き抜いた人。玄術など使わない、現実の政治を行った人。生まれてから死ぬまで、どんな人生を生きたのか。私は知らなければならないと思いました。しかし、私は浅学な上、資料もわからず、本もやっと「正史三国志」を読んだばかり。ブログを通して、ご紹介いただいた本で、また、新たな発見をしているところです。

 中国の歴史はあまりに長い。幾多の集団が王室を名のり、皇帝と称し、中国の頂点とならんとしたことでしょう。数百年の長きに亘り保ち続けて滅びた朝廷もあれば、群雄割拠の中、泡沫のように消え去った集団もあったでしょう。三国の時代を孔明さんはどう見ていたのか。生き残る集団は、国はどこなのか。劉備を選んだ本当の理由は何か。知りたい。孔明さんのその後の人生は、当にこの一点にあるといっていいのではないでしょうか。

 今,ご紹介いただいた「中国の大盗賊・完全版」を読んでいます。

 中国皇帝の歴史は、食い詰めた農民の中からあぶれでたゴロツキ達が徒党を組んで盗賊となり,集団を組んで勢いを得,武力で他を圧倒し,知識人を登用して文武共に体制を確立し,時の皇室を倒して新しく皇帝を名乗ることの繰り返しだと書いてあります。中でも漢王室の草創者である劉邦は中国で初めて国を盗った大盗賊だということです。
 沛県の吏から盗賊になり,始皇帝の死後仲間から担ぎ揚げられて反秦の旗揚げをした劉邦は,項羽の傘下からしだいに勢力を延ばし,秦を滅ぼし遂には400年も続く漢王室をうちたてるのです。これぞ正しく大盗賊というわけです。
 この後も王室が衰える度に盗賊化した集団による王室交代劇が繰り返されてきたそうです。
 では,私の大好きな孔明さんがいた蜀を建てた劉備や魏の曹操,呉の孫権はどういう存在なのでしょう。
 曹操は元々,漢朝廷の臣であり,曲がりなりにも献帝を奉じて丞相という肩書のもと,賊を討つという名目がありました。結果,曹丕が禅譲の名目で皇帝の座をもぎ取ったのでしたが、これは盗賊の仕業とは言わないのでしょうね。
 また,孫権は父や兄から領土を受け継いだとはいえ,父や兄は武力で江東を我が物とした訳ですから,盗賊の三代目といえるのでしょう。ただ,三代目ともなると,国家の体裁も整い,家臣も優秀な人材を多く得て,もはや,孫権には盗賊の頭目だという意識などなかったことでしょう。
 ところで,我が愛すべき蜀です。陳寿が三国志を書いてくれなければ,当時は蜀の存在すら知られていなかったと「三国志きらめく群像」に書かれていて,孔明さんの命を賭けた北伐は何だったのか、虚しさがさらに募りました。やっぱり劉備は小ものだったのか。どんなに孔明さんが補佐しても,漢王室復興の器ではなかったのか。

 さらに著者は語ります。蜀は国家としての体裁すら整えていなかったと。国家の記録をとることさえもしていなかったと。

 国としての形がない蜀。これは孔明さんの責任になるのでしょうか。孔明さんは仕官をしたことのない人です。史書を学んだとはいえ、実際に政治に携わったことはありません。国家としての機能強化を優先したために、体裁を整えることまでは手がまわらなかったのかもしれません。これは孔明さん贔屓の私の屁理屈でしょうか。
 さて、劉備が劉璋から巴蜀を奪ったのは,盗賊行為です。荊州を手にしたのも,赤壁の戦後の混乱に乗じて奪ったものでした。漢王室末裔という触れ込みがあったにせよ,地方出身の名も知れぬ男が衆を集め,徒党を組んで国を奪えば立派な盗賊です。しかしながら,この盗賊は大盗賊にはなれませんでした。ささやかに,奪った領土をより良く保ち続けることだけを願うしかなかったのです。劉備は大盗賊にはなれなかった。孔明さんはどんな気持ちで劉備の国盗り事業を支えたんでしょう。秦を倒した劉邦のように、漢を倒そうとしたとは思えません。あくまで漢王室の再興を願い、末裔の劉備を建てて逆賊曹操を討つことを目標に、劉備陣営に身を投じたに違いありません。

 どこの盗賊集団も大きくなるに連れ文官をかかえ、ただの盗賊集団から文武に優れた機能を発揮する軍団に成長するとのことですが、そこに仕官する文人たちは自分を盗賊の一味とは思っていないでしょう。もちろん孔明さんだって、自分を盗賊だなんて思っていなかったはずです。それでも、荊州や蜀を奪う時は軍師として知恵もだし,進言や提案もしたことでしょう。その矛盾を抱えて劉備に仕えた孔明さんの心のうちはどうだったのか。民のためと、すっぱりと割り切って内政良化につとめたのでしょうか。それとも、常に矛盾に苦しみ、また、無頼あがりの武将や重臣たちと反目の日々をおくっていたのでしょうか。

 法正の身勝手な私刑行為を止められなかったのは、劉備のお気に入りの法正には孔明さんと雖も手だしできなかったからなのでしょう。これは、国を作りえなかった、大盗賊になれなかった無頼集団の弱みだと思います。

 孔明さんは劉備の死後、ようやく丞相として最高権力を手にして初めて思い通りの国家経営が出来るようになったのでしょう。しかし、天の時はすでに過ぎゆきました。もはや、漢王室復興は手の届かぬところにありました。孔明さんは蜀を守り、守り抜くための北伐を繰り返しては、身を削って五丈原に死に逝くのです。

 もしも、劉備が大盗賊の器であったなら、孔明さんの理想の国家が中原に行き渡ったことでしょう。しかし、天はそれを望まなかったのです。その後の、盗賊たちの国盗りの歴史を続けさせるためだったのでしょうか。

 「中国の大盗賊」はまだ読み終わっていません。明朝の興亡から中華人民共和国建国まで続いています。現代に至るまで続く大盗賊の歴史の一角に孔明さんの功績は燦然と光輝いていると思いたい私です。

 ご紹介いただいた本のうち、一冊をまず、読み終えました。「三国志 きらめく群像」です。この本ははじめに歴史書についての基礎知識を語られているので、無知な私にとっては非常に勉強になりましたし、本文もとてもわかりやすい上に、面白い逸話が散りばめられていて楽しく読ませていただきました。




 やはり、私にとっての関心は孔明さんです。驚いたことに最初に書かれていたことは,孔明さんと瑾が実の兄弟ではないという見解です。私は孤児となった諸葛兄弟が叔父玄に引き取られる時,瑾だけが継母を送って江東に行き,そのまま孫権に仕えたことに違和感を覚え,血の繋がりを疑ったのですが,本書では名前の付け方から見て,父とされる珪と瑾が兄弟で,由緒正しい家柄の血筋。玄と孔明さんと弟の均が別グループで,こちらは格も低く貧しい家柄。故に孔明さんの素姓ははっきりせず,劉備の 三顧の礼を受けるまで,何処にも仕官できずに無為に過ごしていたというものです。確かに父が泰山の丞であったなら,父の死後に叔父を頼って故郷を離れねばならぬほど,暮らしに困っていたとも思えませんし、安全な荊州に避難したというのなら,継母と瑾も移ればよかったのではないでしょうか。

 孔明さんが隆中に暮らした10年間,瑾は呉の重臣として安定を得ていたのでしょうから,弟達を江東に迎えたってよかったんじゃないでしょうか。諸葛家の血筋を絶やさぬよう,数ヶ所に別れて生き延びようとしたとも考えられますが,玄が死んだ時には子供達も生き延びる道を模索し,兄を頼ろうとしたはずでしょう。それを双方ともしていないのは,それほど強い繋がりがなかったのかもしれないと,やはり思わざるをえません。


 そうなると、孔明さんの出自はどこなのか。諸葛という姓は珍しいですから、瑾と全く無関係ではないでしょう。大胆な説を唱えさせていただくと、叔父玄が実は父親というのはどうでしょう。


 中国では父親の名の音すら口にすることを憚るそうです。玄と亮では音が全く違います(よね、日本では。中国語わからないので、自信ありません)。その上、「玄」は黒いという意味ですから、「亮」「孔明」の明るいという意味が玄の暗いイメージを補うことになりはしないでしょうか。息子に自分よりも明るい人生を願って、亮と名づけたとも思えます。すると、玄と珪は兄弟ではなかった。袁術や劉表に仕えた玄と泰山の丞の珪は遠い親戚だったのかもしれません。


 ただ、すると、孔明さんに瑾の二男を養子にくれたことが謎です。遠くても親戚だから?。蜀と呉の友好のためだから?。さらに考えてみます。