劉備の殿の窮地をお救いするために、江東へ。

果たして、江東へ行けば、窮地を脱することができるのか。

江東は援助の手をさし伸べてくれるだろうか。

江東の軍事力は曹操には遥かに及ばない。

いずれ、江東にも曹操の魔の手は伸びてくるだろう。

江東単独では敵わなくとも、我が劉備軍と手を組めば勝利を望めなくはない。

ここに一縷の望みをかけて、江東を説得せねばなるまい。

ともすれば、この私でさえ曹操の恐怖から逃れたいと思う。

なにもかも投げ打って逃げだしてしまいたい。

生身の人間なればこそ、付いて回る恐怖だ。

だが、逃げても曹操は追ってくる。

どこまでも侵略の魔の手は伸びる。

立ち向かっていくしかない。

あの残酷非道な曹操に天下を盗らせてはならない。

荊州を足がかりに天下の覇権を広げようとするは誰もが思うところだ。

領土を持たぬ劉備の殿も、この機会に荊州を盗ることは可能だ。

劉備の殿ならば、平穏な世を実現してくださるにちがいない。

だからこそ、今、私は江東へ行かねばならないのだ。

生き延びるためだけなら、江東に頭を下げて肩身の狭い思いをすることはない。

南の果てまで逃げていけばいいのだ。

うまくいけば逃げ遂せるかもしれない。

だがそれでは、中原の人々は何時まで経っても平和とは無縁の生活を余儀なくされたままだ。

いけない。このままではいけない。

劉備の殿こそ、中原の平和を導いてくださるお方だ。

江東へ。援助を請いに、江東へ。

兄は迷惑に思うであろう。

幼い頃から性格の合わない兄であった。

父の死後、別れて今に至るが、近況報告すら稀である。

それでも私が劉備の殿に仕えたことは知っている。

私が訪れることも察していよう。

第一の難関は兄かもしれない。





今まで、隆中の田舎住まいで、盗賊に襲われたことも、戦に出たこともなかった。

書物などで学んだことは、あくまでも机上の空論にすぎない。

大勢の民に頼られ、身動きのとれないまま、長阪橋でついに曹操に追いつかれた。

張飛の働きで、どうにか虎口を脱したものの、奥方は亡くなり、私たちも命からがら逃げてきたのだ。

百万回書物を読んだとて、実戦の体験にはかなわない。

あの死と背中合わせの逃避行は、恐怖に胆を冷やしただけでなく、生還できた時の爽快感を与えてくれた。

劉備の殿に従っていくことの覚悟ができたのも、あの時だった。

私の知識を持ってすれば、いずれ領主になっていただける。

しかし、知識だけでは世界を動かすことができないことを思い知らされたのだ。

戦を動かすのは、将軍。

社会を動かしているのは民。

民の心を掴んだものこそ、国をも盗れるのだ。

この逃避行こそ、私にとってよい勉強だった。

先ずはボロボロになった劉備軍の立て直しと、天下三分の計の実現に向けての布石を打たねばならぬ。

江東へ援助を願いに行こう。

あそこには兄がいる。

幼い頃から、正反対の性格の兄だ。

気難しい孫権殿に仕えて可愛がられているというが、援助を願っても兄が力を貸してくれるとは思えない。

兄を頼るのではなく、劉備の殿のご仁徳と私の知恵で、援助を引き出さねばなるまい。








三顧の礼を受けて劉備殿の軍師になった時、お仕えすべき主君に遂に出会えた喜びに、我が心は打ち震えた。

この殿は人心を掌握するに優れておいでなのに、あまりに情けをかけ過ぎる。

故に未だに一片の領土すらお持ちでない。

曹操が荊州を狙って南下している今、このまま、黙って捕まるわけにはいかない。

劉表殿の後を継いだ劉琮は重臣の言い成りだ。

いつ、裏切られるか知れない。

なのに、殿は劉琮を討って荊州を盗ろうという進言を受け入れてくださらない。

荊州脱出。

もはや、猶予はならない。

曹操はもう、すぐそこまで来ている。

殿に天下をお盗りいただくために、ここを出よう。

江陵へ。

物資の補給基地へ。

我が軍だけなら、逃げおおせる。

なのに、この人の群れはなんだ!

なんと輜重の列の延々と続くことよ・・・

荊州の民が、家臣が、劉備の殿を慕って、一緒に逃げようとしている。

振り切って逃げようとの進言はもちろん却下された。

これでは曹操に追いつかれる。

捕まれば曹操は我が殿を生かしてはおかない。

しかし、これこそが、殿のご人徳の為せる業。

この難閑を突破してこそ、私の軍師としての器量の見せ所。

管仲になれるかどうか。

命をかけてお仕えするのみ!