これまで私が孔明さんに対して抱いていた印象はそれまでに読んだ本から受けたものだった。
三国志演義・諸葛孔明の世界・諸葛孔明(陳舜臣)である。読み手によって受け取り方は様々だが、私は彼を、幼いときから優秀なスーパースターで、自分の才能を十二分に発揮できる場を求めて、虎視眈眈と情勢を睨んでいる人と思っていた。だから、劉備との出会いも、彼を訪れる多くの諸将たちの一人であり、冷静に分析したうえで劉備を選んだのだろうと思っていた。魏には彼の才能を受け止める余地は既になく、呉には兄がいて自分の思い通りには振舞いにくい。魏でも呉でもなく自分の能力を思い切り発揮できる場所。それこそ天下三分の計によって生じる弟三の国。その国を誰に取らせるか。誰でもいいというわけにはいかない。第一に国を奪うのであれば大義名分が必要だ。第二に軍師を渇望していて自分の構想を黙って受け入れてくれることだ。この二点にまさしく劉備は当てはまった。
三顧の礼に応えるかのように劉備のもとへ飛び込んで行く。赤壁の戦いや益州平定も彼の思惑どおりに動いたのに、関羽とともに荊州を失って計算が狂っていく。天下をとるどころか蜀一国を守ることに汲々とする日々。そして北伐へ。五丈原の死へと続く。
優秀な人であればこそ、当初の思惑と違った人生を生きたことをどう思っていたのか。死に臨んで悔いを残してしまったのか。
これまでの私の想像に対して、孔明さんは違うというのだ。自分はそんな人間じゃないというのだ。私は孔明さんが大好きだよと、どんな人生を生きたのか知りたいだけだよと問いかけても、五丈原に寂しく横たわる孔明さんは、違う違うと言うだけだ。
最近になって正史三国志を読んで、後世の脚色のない、陳寿と裴松之だけの真っすぐな文から、全く別な孔明さんを見つけてしまった。兄とは母違いだというのは私の作り話だが、三国志の文の行間に生身の孔明さんが見えた気がする。優秀であっても、実戦の経験がなければ半分の力しかだせないかもしれないと、そう考えたら、孔明さんが生き生きと動き出した。そうなんだよと、声が聞こえてきた。劉備と会ってから五丈原で死ぬまでは夢中で駆け抜けてきたんだよと。若い時には野望もあったけれど、野望なんて満足することはないものだ。それよりも日々懸命に生きることの積み重ねが自分の命の終わりを飾るものなんだよと。
孔明さん、あなたは無念の思いを残してはいないのだね。持てる力を燃やしつくして後悔することなく、この世を去っていけたのだね。私に向けるその顔は穏やかなんだよね。
ざわめきは消えた、ように思える。孔明さんの最期の様子を思っても、苦しくてたまらないということもなくなった。でも、私の心の中にいる孔明さんはもっと語りたい、もっと理解してほしいと駄々をこねる。これ以上、聞き取ることが、理解できる力が私にあるのだろうか。