色々深い考察や随想等々が好きなところで、

最近また1つの「完成」を悟ったフリをしてみることにした。

 

 

 

幸せであること、とは「どういうこと」なのか??

どうすれば人は幸せになれるのか?

ってお題、

 

相談室でも時折よく例に出す「あしながおじさん」って小説では、

その極意は「道ばたにおちている小さな幸せを見つけ拾い想える感性を持ち続けること」みたいな書き方だったと思う、

 

俺もこれは長年、「ほんとそうだぞな。幸せとはこういうことだ」と思ってたけど、

最近多々考えているうちに俺なりもう1つ別の帰着を得た。

それは、

 

「人でなし」にならないこと。これが幸せの極意。

 

と定義してみたくなった。

 

 

 

 

 

幸せに己を導く要素ってのは、金銭でも環境や状況でも立場でも無い、たかが物質的な多寡はその人の幸福に直接関わりは無い、のは当然だけど、

 

俺はもっと踏み込んでそれよりもっと、人との関わりとか安堵とか喜びとかの「精神世界での多寡」も「関わりは無い」、と悟ってみた。

 

物質的状況的、心の環境的な豊かさ乏しさってのはどれも幸福とは「関係がない」のだ。人生模様がどんな有り様であれ、人として、を「保ち続けること」が幸福の極意だ。

 

 

 

豊か過ぎて腐ったり、貧し過ぎて捻じ曲がったり、という「人、で無し」に、

ならないこと、これが幸福の極意だ、と。

 

どんな模様のときにも、人間的に整った形で多々を見、感じ、想い、考え、決める、

ことが出来る姿勢、で「在る」こと、

 

その姿勢こそが「幸福」の正体であって、他の事柄は「関係がない」のだと悟った。

 

 

 

 

物質的な精神環境的な豊かさは、どちらもその人を「楽」に導く以上は、

必ず同時に「腐敗」をその人にもたらすわけだし、

これは幸福と定義することは不可能だ。

 

逆に、それら2つが「貧しい」場合というのは、苦に導くのみと思えるながらも、反面その人の多くを鍛錬し、苦を体験し凌げる度量を持った人で無い限り得られない強さや知恵や情を育てる以上は、これは不幸とだけで斬ることは短絡が過ぎる。

 

 

 

 

物質、精神、どっちの世界にあっても、それらが豊かであろうが貧しかろうが、

「人として」美しい姿勢を保つ事、これが「幸福」になるための極意。

 

結果として豊かが続こうが、貧しさが続こうが、そういうことは幸福と

「関係が無い」、

 

 

 

 

 

以上のことを1つ、思いついてみたです。

もう1時回ってるのに・・・・。

 

これで今回の土曜も「また!!」2時間しか寝られない。。。><