こんばんは、今日は水曜日。
ふと気まぐれで、自分がいつも相談室の時にいろんな話をするのですが、
そのうちの1つを書いてみようかと思い立ったです。
俺はよく、自作ですが、
「人を扱う極意は2つ。1つは「褒めること」、
もう1つは「お礼を言う事」、です。」
って言います。
「トリセツ」なんて名の曲が昔、邦楽で流行ってたけど、
人の「扱い方」、取扱説明書ってのがもしあれば、きっと書いてあるだろうな、
と思える2つです。
これ、詳細を喋ると実は、「人の扱い方では無く」、
「自分の扱い方」が先ずになる言葉、なんですよね。
人ってのは誰しも、誰かに褒められれば、あとはお礼を言われれば
嬉しいと感じるものですが、
「だから」その2つが極意なのか、って言うと、この言葉の意味は「そうでは無い」
のです。
相手を嬉しがらせるために、自分に好感を持ってほしいから、が動機での2つ
であれば、それは「極意」とは言い得ますまい。
なぜなら「動機が利己的だから」です。
人の善の究極ってのは「利他が動機である」が前提ですものね。
自分は利得を求めずそれを度外視しつつ、「相手のために尽くす」善行、
これこそが他から好感や信頼や、あるいはある場合は尊敬を得る道になっていく
わけですし、
でもその人は、動機が利他である故に、結果として得られたその3つ、好感・信頼・尊敬、も、別に満悦して受ける訳でもない、むしろ逆に相手に有り難い気持ちをもつだろうし、「更にお礼を言いたくなる」だろう、
あとはこの2つ、褒めるとお礼をいう、ってのは、
「見え透いた形」で言っても全然無意味どころか、逆に相手に不信感を持たれる結果しか産まないし、なのでこの2つは「心から」言えるようでないと駄目ですよね。
そう、要は、
「人を心から褒めれる力量、人に心からお礼を言える力量が、
「自分の中に」、あるのかどうか」
そういう形に姿勢に自分を整えていくこと、が、「人の扱い方の極意」であって、
つまり、文面上では「人の扱い方」だけど、実は「自分の扱い方」
なんだよ~、っていうことです。
人に心から、褒め言葉やお礼を言える人間性、
これが周囲からの好感や信頼を得る結果につながりやすい、
そういう意味、です。
人を扱う極意は2つ。1つは褒めること、もう1つはお礼を言う事、、、、
見え透いた形ででもなく、ネジ曲がった気概ででもなく、利己的な動機ででもなく、
そんな心でこの2つを周囲に「出来る」ような人間に、なりたいです、、
なかなか大変ではありますが・・・、でも「目指す」ことはすごい意義がありそう、
そう思えます。
相手に不愉快を与えること一切なく、この2つを言える「タイミングを見つけること」にも長けた人間になれれば、これもすごい嬉しいな、と。
短い文章だし覚えやすいし、こうやって中身は結構掘ると深いし、
ってことで、使いやすい文章だなと思えるので、相談室でも時折よく使ってます。
※ここで言うところの「人」というのは、「悪意を根に持つ人」は
含まれていません。そういう相手にはこの2つを「心から」やったとしても、
なかなか心を通わせるまでに至れないことが多いです・・・、
でも逆に、「通じるケース」もそんなに少なくは無い気もしますが。
こっちで先んじて持つ、相手への「希望的観測」に基づいた接し方は、
相手の悪を「浄化」することがまま、あります。
悪に悪を返しているのみでは、相手の悪はより強固に鍛造されてしまうし、
なおかつこちらの心も毒されてしまい、相手の悪が自分の心に根付くように
なる、、これ、人との関わり方のなかで「一番虚しいカタチ」だと思えます。