おはようです、今日は月曜日。

(※日曜日なら良いのに。。。)

 

 

 

 

 

「思想家」って言葉、そしてそういう事が出来る人、

俺はそういう点にいつも「あこがれ」を持ってます。

 

多分、だけどそういう人ってのは、何か1つ単語とか文章とかを起点として、

ほんといろ~~~んなことを「想える」とか「巡らす」ことが出来るんだろうなと、

 

しかも「無料で」・・・w

 

なんかお得感もすごい気がするし、そして何よりも「楽しい」だろうな、と。

 

 

 

 

 

ちと生意気に自惚れに、俺も1つやってみるかな、とか考えることが

よくあるのですが、

 

何を始発としようか、、例えばこの言葉、「我思うゆえに我あり」、

 

 

 

 

 

まず1つ気がついたのが「おもう」って単語だけど、これ

「思う」なのかあるいは「想う」なのか、

 

どっちなの?、って点で、どっちなのかによって「意味が違う」だろう、

という点です。

 

 

 

勝手な解釈だけど俺は、「思う」よりも「想う」のほうが、

なんか、より「熟考してる」みたいな、そんなニュアンスを感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

あとは、

我おもう、までは良いけど、

なんでそのあとに「故に我あり」なのか、

 

もっと突っ込むと2つ、

 

どうして「ゆえに」で続けるのか、

どうして我が「あり」なのか、

 

 

 

 

 

考える、の果てに自分を見つけてるんだろうか、

そして、そうやって自分を探す自分が「あ~~、ここに居たww」と

あらためて「認識」したのか、

 

 

 

 

「おもいめぐらす」ことで初めて、自分を「カタチ創れるのか」、

 

 

 

 

 

 

じゃぁなんで「そんなこと、するの?」とか、

 

 

 

 

 

 

 

 

あれ、、ちょっと1つ文章かじっただけで、こんなに沢山「お題」がでてきた、

 

そして哲学的に論するとしたら、全然別な解釈なのだろうけど、

俺のこの展開って、学術的に全く「的外れ」なのだろうけど、

 

でも俺はこういう「思索」ってのは、絵画の鑑賞とかと同じであって、

つまり、観る人が何かを思う・想う、それが「自由に出来る」という

 

その「自由度」こそが、思索の「味」であり「コク・深み・うまみ」なのだ、と

 

そう考えたりします、

 

 

 

 

 

 

 

 

あ~あ、、月曜日のしかも朝から、こんな難解なお題をいくつも掘り出しやがって

・・・

 

 

 

 

 

オチだけど、しかもすごい二日酔いで寝不足なのに・・・

 

 

 

 

 

 

まいった、、、でも始動せねばです、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おもう」は「旅」です。

そしてその果てに見いだせるのは「自分」、

 

これが「思索」という姿勢の「究極」なのでしょうね、