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長谷川博己さんの「アンチヒーロー」第一話を観ました。
ってか、家に帰ってから家事終えてあと、平日は俺は大抵「1時間程度しか」
自由時間が無く、もちろん夜ふかしを志せば何時間も取れますけど、次の日が
辛くなるので、、
なので、たかが1時間のドラマなのに、昨日と今日と、2回に分けて観なきゃ
ならなかった。貧乏仕事人の辛いところです。
なかなか良い感じだったかな、と思います。ネタバレは書かない。
でもやっぱドラマって「おぉ~~!」と盛り上がった時点で「また来週~」
となり、これは俺には相変わらず「キツイ」っす、、w
なんでかなぁ、と例によって思想家ならではと言うことで考えてみると、
やっぱ俺は、物語への「没入」とか「感情移入」が凄すぎるのかも、と。
でもこういうのは誰しもそうかもしれませぬが。
ドラマ終わってあと、「また来週!」と強制的に打ち切られたそのあと、
現実に戻るまで「精神力」を必要としてしまうほど、物語に結構「入る」ジジー
なのかも、と思ったです。
ってか、ただ単に「切り替え」が出来ない「子供」ってことでしょう、、、残念w
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「教育・人間」な話題も1つ。
今朝ちょっと思いついてたことなんだけど、そして、なぜこんなことを「ふと思いつく」んだか、やっぱ自称「思想家」ってことかな、などとカッコつけたりだけど、
「想う」と「感じる」ってのは「違いがある」んじゃないか、
想う、ってのは
「頭で考える」こと。そしてその際に「言葉を伴う」。
必ず「文章」を使って行うアクション、と言えるのだろうかな、と。
そして「感じる」ってのは
「心で行う」こと。そしてその際に「言葉は用いない」。
なので「文章に置き換えないと、『自分を統括できなくなる』」んじゃないか、と。
誰にもあることかも、として例えば
「なんかわからないけど、気持ちが沈む・・」とか、あるいは
「理由知らないけどなんかイライラする。。」とか。
「心」がなにか「そういう気持ちになる「理由」」を外部なり内部から得て、
そして「心」はそれに伴って、喜怒哀楽とか何かしらの「アクション」をする。
でもその道中に「言葉・文章」は無い。
これは、音楽や絵画等の「芸術関連」を鑑賞する際に「心が〇〇」と、同じ。
その道中に「言葉」は関わらないけど、何か心に「アクション」を起こさせる。
「心」って当然、そもそもが「こういうもの」なわけだけど、
でも、文章に置き換えて、「なぜ今、自分は気が沈むのか」を自分で「知れない」
場合、自分をどうしても「持て余し」てしまいますよね。
端的に1つ文で、こういう話を総括してみると、
「心、には「通訳」が必要だ」
って文かな、、、でもまだちょっと、しっくりくる文でも無いけど。。。
もちょっと煮詰めれば、もっと上手な文章を見つけられるだろうかな、
とかを想ったです。
「感じた」んじゃなく。w
あ~~21時近くなってる、、、もう寝ねばです、、、
ホントは20時位で寝ないと、っていう生活リズムなんで、ちょっと時間オーバー、
「平日」はどうしてもこのリズム、狂わせないように気をつけてます><