俺はこの世を「地獄」とよく、言ったりする、

 

なぜそう言うのか、

 

 

 

 

 

この世で人は、

楽をだけで生きると必ず人を見下すし、人の弱さへの感性を持てなくなるし、

そして必ずそれら蓄積は、己に帰るから、だ。

 

腐った杭は、如何に打たれたとて、地中深くまで入る度胸も度量も持てぬ。

 

我々は「楽」を目指すも、それを叶えられぬ虚しさを如何に蓄えるかどうか、

のほうが、大切だといつも思うし、価値あると想う。

 

 

 

 

楽をして生きたい、を誰しも必ず願うのに、

それを達成するためには必ず人を踏まねばならず、蹴り貶めねばならず、

そして自分だけ逃げることをし続けないといけないから、だ。

 

自分を逃げず、人を踏まず蹴らず、を志す人は、

この世で成功は決して出来ない。

 

 

 

 

 

生きるを超えて「死ぬ」に面する際に必ず、至上の苦しみを経ねばならず、

それが本来の願い「生き続けたい」とどうしても反してしまって、

死ぬことを、人への「誠」よりも先に持っていく必要性が必ず生じるから、だ。

 

生きる意志は何よりも強い、それは良いとしても、

その過程で何を「逃げるか」の熟考があり、その果てに得られる「生」など、

果たしてどこにどんな価値があろうか・・。

 

 

 

 

「生きる」は最善だ、とは俺はどうしても思えぬ。

「キレイに生きる」ことを捨てて尚「生きる」を選ぶのは、

あまりにも「みじめ」と。

 

 

 

 

 

ただ、同時に俺は、死を簡単に選択する人を敬うことは決して出来ない。

 

なぜなら、

そういう「矛盾満載」の世、つまり「地獄」で、

どれだけ人としてを貫き「続けることが出来るかどうか」を、

 

これこそが我々が目指すべくの「一番」と思うから、だ。

 

それをせず逃げる意気地は、俺は同情をし涙するとて、どうしても「敬う」ことは

出来ない、

 

 

 

 

 

 

 

 

この世は「地獄」。

人間性を全うすることを二番手以降に置かぬ限り、

この地獄での「雅」を得られない、

 

でも、そういう場所で如何に「キレイであり続けられるか」こそが、

我々に課される「試験」だ。

 

 

 

世が汚れているから、という事実は「己も汚れて良い」の言い訳には

とても出来ぬ。単なる逃げや言い訳に過ぎぬではないか?

 

でも、それを「する」のが大多数であって、俺はそういう人間を常に

「虚しい」と想う。

 

 

 

 

 

願う際に垂れる頭は、下を向いてるとて、心は「上」でなければならぬ。

 

どっちも「下」であっては、世はそれでまかり通るが、「その人」は通らぬ。