おはよです、今日は日曜日。
ってか、「ホームポジション」を1つズレて間違うと、「おはよ」が「pがち」になるのかな、と気づいたところです、
硬い硬い話題を1つ・・、
古い映画ですが「真実の行方」ってやつ、を観てる途中でありまして、
1996年のリチャード・ギアさん主演の法廷サスペンス。
リチャード・ギアさんの演技も秀逸ながらも、被告役を演じてるこの若者さん?
エドワード・ノートンさんと仰るそうですが、彼の多重人格者としての演技が
これがまた秀逸・・・、
そしてこの映画から観てても俺が常に思ってることなのですが、
俺は「性善説」ってのをどうしてもそれがホントだ、としか思えない人間でして、
我々人間ってのは「すべての人が」、元々生まれただけのクリーンなカタチなうちは
「善を志向する」姿勢としての形作り、である、みたいな話、
そしてどうしてそうなのに、世に凶悪犯とか出てきてしまうのか、それは生まれてあとの過ごし方、では無くて「過ごされ方」に原因がある、
要は環境とか育てられ方・扱われ方、等々、そういう点のことですが、
これ「絶対にそうだ」としか俺は思えないのです。
生まれ持って悪人、ってのは「絶対に居ない」です。歴史を全部含めてね。
これがあるからこそ、俺はどんな悪人に対しても「同情」ができる・・
ただ、その姿勢故に「自分を後回しにする」機会を「自分で作り出す」ことも多く、
傍目から観れば「損してる」としか思われないような道、でもあると思います、
※補足ですが・・
俺はリア充に育ったせいで人の「弱い」を「どう辛くて苦しいか」を全く知らずに大人になってあと、弱い人をヘーキで嫌ったり避けたりする人間のことも、偏った人間性の「成れの果て・・」としか思えず、「心の底から軽蔑」をしてる、って話は過去にもブログで何度も書いてきてます、
ただ、リア充でないつらい環境で育った哀れ系な「あどん」みたいな人間だったとて、仮にその人がそれと同じ姿勢でしか人を観ない、となれば、これも同様に「心の底から」軽蔑をします。
事情はすごい同情出来るとしても、心が折れてあとのゴーストタウンで「どう己を『創る』か」を、間違えてしまった、までは共感や同情はすごいしますけど、正当化してだけで胸を張ってるような人間は、俺には「無理」だ・・
※を飛ばしてでの話の続き、
が・・・、
俺は「損」とは全く欠片も思わない、
性善説を信頼し、それに徹した上でヒトを観・関われる、ってのは、
そうそう「出来ること」では、無いし、
仮にそれでリアで損をする機会を積み重ねるとしても、
俺は「これ」が「道」としか思えない、
他の人たちが簡単にあるいは絶対に出来ないこと、を、簡単に出来てしまう自身を、
憐れむと同時に「誇れる」とか、そんな面持ちも常に持っています、
もちろん、他の人にこの姿勢を推奨は、したくないし、しない。
当然ながらそれ「いばらの道」になるわけで、そのヒトにまるで「損をし続けろ」
と言ってるようなものですし、
でも俺は俺だけのこととしては、この姿勢を持ってる自分を
「うれしい」と、いつも思います。
社会的な立場や財産や物質的な方面で富むことのみを「幸福」と定義する人が
「過半数」どころか「大半」となっているリアで、
俺は「特異な観点」で人を評価している、
でもやっぱりこれ、俺が慕う3人、ヤン・ウェンリー、緋村剣心、スナフキン、
彼らもそういう姿勢であるはずだ、と
自分をなだめる素材として、常にそれを想いつつ、毎日仕事で夕方になると空を仰いでため息をつく、
日々があるです、
まぁ繰り返しですが、人には絶対にこれは、勧めませぬです、