出会い | @流星号の「人生ツーリングだぁね!」

@流星号の「人生ツーリングだぁね!」

バイクツーリングの備忘録としてヤフーブログで書いていましたが、引っ越してきました。
キャンピングカーを買ってしまったので、ツーリング行かなくなっちゃったなぁ。

バイクを手放して色々と考えた。

 

20代の頃ホンダCB-50を中古3万で購入し、通勤やツーリングで走り回った。とても良いバイクで楽しかった。

そもそも中免で乗るきっかけは得意先の女性が通勤用に中免取ってバイクを買った。その時点では僕は45歳。凄いねと思ったけど今更僕もとは考えもしなかった。

 

その頃新聞チラシに近所の自動車学校のイベントでバイク講習無料のゲーム大会が載っていた。好奇心で行きゲーム参加。結局外れてダメだったけど参加者は通常寄り安い金額で受講出来るというので申し込む。

 

当時上野はバイクの店が建ち並び中古のバイクを見に行った。込み込みで10万くらいなら買おうかなで聞くと、「お客さん、いつの話をしてるの?それじゃぁ原付も買えないよ」僕の頭は3万で買った原付の記憶しか無いのでビックリ。

「お客さん、結婚してるんでしょ?だったら中古は辞めなさい。バイクは事故車でも綺麗に直してプロでも見分け出来ないほどだよ。だけどちゃんと修理出来ていないと軸がぶれて事故るよ。」

そう言う物かぁ。と言って新車は買えないよなぁ。

 

近所のバイク屋でカタログだけ集めて眺めていた。その中でホンダのMAGNA250に一目惚れ。綺麗なフォルムのアメリカンバイク。イージーライダーじゃん!

込み込みで55万くらいだった。手が出ない。涙。

見積書だけ貰って帰宅。

 

帰宅するとモモコサンはビックリした顔で手にした物を後ろに隠した。

「それ何?」

「何でも無い」

強引に隠した物をひったくると葉書で何か金額が記載されている。僕はお金のことは全くノータッチなので分からないけど慌てている様子から僕に内緒で借金したのかと思った。

聞けば僕名義で積み立てした満期の連絡という。

それでも僕は理解出来ていない。

「何だよ、その満期って。借金か!」

「違う、積み立てたお金がそれだけ貯まりましたって連絡の葉書」

「??って事は、僕のお金?」

「違う、積み立てしてるだけ」

「いやいや、僕の名義で貯まったお金なら僕のジャン」

速攻でバイク屋へ電話して

「さっきの見積書手配して下さい」

モモコサンはヨヨと泣き崩れる。

そんな景色には目もくれずMAGNA250に跨がる自分を想像してほくそ笑む僕でした。

 

そんな経緯で手に入れたバイクですが、まだ具体的にどう使うのか想像もつかずでした。

 

納車後恐る恐る走らせ、あっと言う間に虜に。

教習所のバイクと違いアメリカンなので足つきも良く前傾姿勢にならず椅子に腰掛けている様な感じで運転出来る。

 

暫く乗り回し小岩まで小さな納品があったので初仕事。

渋滞も何のそのすり抜けで赤信号の時はいつも前に出られ加速が良いので青になればゼロヨンレースかってスピードで打っ千切り。

帰りは首都高速に初めて乗り風を切って帰宅。サイコ~

 

その後45Lのコンテナを載せサイドバッグも付けてかなりの荷物も積める様になり仕事の出番も多くなった。最終的に60Lと45Lコンテナ積み積載量は多くなり、慣れてきたらその上にも積むので相当な量を積めた。それに慣れたので45Lコンテナを外して娘とタンデムも出来た。

 

流星号と名を付け仕事先に行くと「今日は車?流星号?」と聞かれる様になり、メールの注文に流星号様と書かれる様になりハンドルネームの@流星号が出来た。

 

きっかけを作ってくれた女性にバイクを見せると

「では、ツーリングに行きましょう」

とお誘い。社内で何人かツーリング仲間を集い5-6人で初ツーリング。色々なバイクであちこち立ち寄り食事して解散。メチャ楽しかった。

 

その後も仕事先の大学生達と行ったりライダー仲間も増えていった。

 

毎年夏恒例だった新島クルージングが1997年船長の病で中止になり夏休みの予定が無くなった。

 

そんな時に初ツーリング一緒に行った若者(酉君)が北海道へ行くと聞き「良いなぁ」と言ったら「一緒に行きません?」とお誘い。

その場で酉君はフェリー会社へ会社の電話でかけまくり八戸-室蘭の空きを見つけ予約。もう行くしか無い状況。酉君も同じ航路だけど僕の方が1日早い便しかなかった。僕が先乗り?行けるのかぁ?

 

まず八戸まで行くこと自体が初めてでバイクで行けるの?何時間かかるんだ?フェリーってどうやって乗るの?

 

初のロングツーリングなのでちゃんとしたライダージャケットやカッパ、手袋等など買いそろえないと。

 

キャンプはプロ級だけどバイクツーリング用のキャンプ用品なんて何も無い。手持ちのファミリーキャンプ用品を積み込むので大荷物になった。

 

1997年初北海道、まさか北海道ツーリングが恒例になるとはこの時思わず新島クルージングの代わりだからと思っていた。

翌々年1999年から恒例になり2020年コロナ禍で中止した以外続いている。

 

北海道ツーリングでロングツーリングに填まり日本中走った。北海道で最北端、最東端制覇したので2002年最西端、最南端制覇で九州へ行った。

娘達ともタンデムや併走ツーリングで何度も走った。

 

約25年バイクは身近に有り仕事でも大活躍でした。

バイク雑誌の表紙にも載った。ツーリングの記事も掲載された。

バイクに乗らなかったらどんな人生だったんだろう。多分車でキャンプ楽しんでいたんでしょうが、あの爽快感は経験出来なかったなぁ。

 

きっかけは僕がバイクに乗りたいじゃなく、得意先の女性がバイクを買ったことなので結局人との出会いです。45歳で免許を取りに行きバイクまで買って乗り回す人生送るなんて考えもしなかった。

 

人との出会いで自分の人生が大きく変わりました。

 

そう気が付いて他を考えると、今しているバンドも高校一年の時に同級生だったMとギターを始め放課後教室でかき鳴らして歌っていた。

彼は卒業後ギターはしなくなったけど僕はいつも身近に置いていた。子供が出来て近所のパパ友とバンド(バ舌Q)を組み1997年から毎月練習をしている。Mとは卒業後も年に何度か飲み会で会っており2010年バンド(Masters)を組むことになった。それぞれLIVEもする様になり楽しんでいます。Mとの出会いが無ければここまでしていたかわからない。

 

大学1年の時にスキンダイビングを始めた。

クラスメイトが夏休みに伊豆の妻良港で海流調査のバイト募集が有り希望者はダイビングも教えてくれると言う話を持って来た。彼がダイビング教えてくれた。が今思うとかなり下手くそで口だけだった。

そこでダイビングを覚えかなり上達してあちこちの海で潜った。

お金が無いから素潜り専門だけど20mくらいなら潜って魚を突いてこられた。

 

学生時代は毎年未だ返還前だった沖縄へ行って潜っていた。キャンプ道具一式担いで離島で自給自足生活楽しんでいた。

卒業後は伊豆7島へ行きキャンプしながら潜って魚や貝を捕っていた。

 

1979年に新島へ行き潜っていた時、宿泊先の民宿でY3兄弟と出会う。彼らはクルーザーで来て釣りしたり潜ったりを楽しんでいた。僕が潜れると知り船に誘ってくれた。社会人になった時港湾土木の会社だったので船に乗る機会が多く舫い取ることにも慣れていた。

 

翌日船で沖に出て地内島でダイビング。軽々と20m潜る僕を見て「今まで何人も僕潜れますって奴乗せたけど2mも潜れない奴ばかりだったけど凄いね!」と感心された。毎日船であちこち行って潜り最高の夏休みだった。昨日まで海岸の砂浜から沖を走る船を眺めていたのに今日はクルーザーから海水浴場を眺めてる。海の若大将だ。

 

僕は東海汽船で行っていたから明日戻りますと言うと、彼らは「明後日帰るから一緒に帰らないか?」と誘ってくれた。断る理由もなく便乗して帰ってきた。

「毎年この時期に新島に来るからまた来年も誘うからおいでよ」

それから毎年夏は新島クルージングだった。

 

最初は小さなモーターボートの様な船だったけどドンドン大きくなって最後はバートラム45の大きなクルーザーになり民宿に泊まらずクルーザーで過ごした。

 

逆立ちしたって手が出ない大型クルーザーに乗り夢の様な時間だった。

 

新島の偶々泊まった民宿での出会いが始まりだった。

聞けば定宿の民宿が満室だったので初めて泊まったそうだ。奇跡の様な出会いで夏のクルージングだけでなくキャンプや海外旅行も一緒に行った。

兄が居ない僕にとって兄貴の様な存在で関係は密になった。が、三兄弟は次々癌で先に逝ってしまった。

クルージングに関しては彼らと出会いが無ければどうやっても経験出来なかったことなので感謝しか無い。

 

伊豆の素潜りから沖縄、新島クルージングまで四半世紀のダイビングライフはクラスメイトの出会いだった。彼が誘ってダイビング教えてくれなければその後の出会いも無かった。

 

旅好きで初めての独り旅は高校2年の夏、伊豆の踊子を読みそのコースを歩いたのが始まり。

大学時代は独り暮らしで仕送りして貰っていたが、行きたいと思うと現金かき集めて寝袋ひとつ持って出かけていた。

 

旅好きの原点は「永六輔」のラジオや本だと思う。

永氏曰く「あの角曲がった先には何があるんだろう」で見に行くことが旅と。

わざわざ遠くまで出かけることじゃなく、あの角の先が旅の始まりと言う。未だに旅先であの角曲がるとどんな景色だろうと好奇心に任せてフラフラと歩き回る。永氏のラジオや本に出会わなければここまで旅好きになっていなかったかも知れない。

 

キャンプやスケッチは大好きで未だに続けているけれど、原点は父親でしょう。

 

小学生の時に車に布団を載せ房総半島の富津岬でキャンプした。

今思えばキャンプじゃ無くて野宿だ。

親子4人どうやって車で寝たのか覚えていないが飯盒でご飯を炊き缶詰のおかずで食べた味はとても美味くて覚えている。

朝、松林の向こうに海が広がり水遊び。強烈に楽しかった想い出だ。

高校生になって初めてキャンプへ行きオヤジが戦時中使っていた飯盒で炊飯し缶詰で腹一杯食べた。富津岬の初キャンプが蘇る。

テントと飯盒と固形燃料さえ有れば何処でもキャンプ出来るんだとわかり大学に入ってから本格的にキャンプ三昧だった。

 

家庭を持つと家族でキャンプ三昧。

我が家ではキャンプの時は子供が働く物と教え込んだので実にキビキビと良く働いてくれた。

ある程度大きくなって周りと比べ、どの家庭も子供は王子、姫で両親が奴隷の様に働く姿見て「あれ?うちは違うぞ。」と気が付いたそうですが、何でも出来る自分は両親のお陰と理解してくれました。

 

我が家のキャンプは子供のためではなく僕がしたいから強引に行っていた。子供達が大きくなり家族キャンプが減った頃、僕のバイクキャンプに移行していったので僕はズーッと学生時代から変わらずキャンプ三昧です。

周りの友人達は子供のためにキャンプしていたので家族キャンプしなくなるとキャンプもしなくなりました。

 

スケッチもいつ始めたか記憶に無いけど旅に行くとスケッチしていた。

オヤジの家系は皆絵が上手で叔父は日展の審査員もしていた人だ。

オヤジが絵を描いているところを観た記憶は無いけど若い頃に描いたスケッチを小学生の時に観たことがあってとても上手なのでビックリした。

 

小学校時代図工で絵を描くとクラス代表に選ばれていたし弟も美大目指すくらいだったので家系なんでしょう。

僕が上手いかどうかは別にして描くことは好きです。

娘達も区展や都展に出るまでの腕なので血は引き継がれているようです。

 

僕らしさを示す趣味思考は誰かとの出会いがきっかけで僕の人生の根幹になっている。出会いがまた出会いを呼び多くの人と知り合えて僕を形成してくれた。

 

まぁ、最大の出会いはモモコサンであって彼女が伴侶になってくれたお陰で、僕の好きなこと自由にさせてくれた。新婚時代一人であちこち出かけたりするのは申し訳ないと毎回誘ったら、「わたしはあなたが楽しそうにしているのを見るのが好きだから独りで行って良いのよ」と言ってくれた。誠に感謝申し上げます。

 

これからどんな出会いがあってどんな世界を見られるのか楽しみです。