まず、10月1日から釈尊の生まれた地(ネパール ルンビニ)入滅した地(インド クシナガラ)
に行ってきます。
昨年、釈尊の仏跡を巡る旅で、どんな活動をしていたかを学びながら、インド文化に触れてきました。
だいぶそれだけで、自分の概念がガラッとかわり、
何も変わらない生活、正確には、異動が伴っていますが、
また、見え方が変わり、ストレスの出方が、方向転換しましたし、だいぶ人に感情を見せるようになりました。
その手前、中村元先生や佐々木閑先生のYouTubeなど、それなりに1年間で、なかなかの長さのYouTubeも一通り、現在の配信に追いつき、
背景や環境、何故釈尊は、2500年もの時を経て、
今に繋がるのかを、自分なりに整理したくて、
栃木県那須地区から、田町まで足を運びました。
中村尚人先生の仏教的視点を学ぶことが出来たわけですが、まず概念をどこで切るかのセンスだと感じました。
言葉はどこの視点で見るかで、どうにでもなることや、人の興味や人の歴史背景、生き方で、そもそも、どうにでも解釈が出来てしまう。
その中で、カラダは自然であり、リアルで、
変わっていくものでもあり、そのままを感じれるものでもある。
腸の常在菌との二重生活もある。
引いてみるか、集中したポイントをみるか。
ミクロとマクロの視点。
宇宙まで考えた時、
私には何故釈尊が、本質をついた活動が出来たのかを、勝手にイメージしたのは、
インドの地を歩いて、社会を見て、
気付きを得るとすると、
釈尊の周りの環境は、まず社会であったこと。
カピラ城に今回行きますが、おそらく、王様としての社会システムがそもそもあったこと。
そこから、自然豊かな地で、リアルに自分のカラダを使いながら、マインドを感じていたと言う、心身相関を、ただ観ていたんだと感じました。
自然が周りにあり、どう移ろい行くのかを観て、感じ、ヒトとしての、生きるためのエネルギー、
宅鉢や人の優しさなど、何が人にとって大切であり、苦しみはなんなのかを見抜く力を得ていたのだろうと思います。
幼きころは、人がどう思っているか知りたい、強くそう感じましたが、
歳を重ねると、粗方見える人の心。
社会システムに生きることでの苦しみは、リアルな自然と比べると見えてくるでしょ?
と言うことなのかなと、私なりにイメージしました。
見えたところで、環境や体調により、
苦しみは苦しみだとは思うのです。
釈尊でさえ、死期が近づくと、水が飲みたいんだと、濁った水しか近くにないのに、アーナンダにせがんだのですよね。
生きるってそう言うこと。
自律神経や生きるカラダのシステムが、
そのままの諸行無常であり、一切皆苦であり、
リアルに観ていくと、引いた自分を引き出せる。
まだまだ、気付きは少ないはずです。
生きている間に気付くことなんて、たかがしれている。
それに気付いた中で貪欲に、探究し、経験しながら、生きるを重ねて、終わりに向かうこと、
脳が病気にならなければ、ある程度は、穏やかに社会も観て自分の在り方を模索しながら、
社会に還元する生き方も出来るのではないかと考えます。
それは、孤独ではなく、共存であり、
地球の一部であり、宇宙の一部であり、
流れの中のいっときでしかなく、
ただバタフライエフェクトのように、
生きているだけで、何かに影響を与えている、
ご縁の繋がりである。
満ち足りたときに、慈悲が生まれるらしい。
自分が満ちているかは、人にどんな対応をしたかで、見えるバロメーターかもしれない。
さて、インドとネパールの旅で、何に気付き、経験し、また、新しい自分に出会えるのかとても楽しみです。
それまで、まぁまぁスケジュールパンパンですが、1日1日をむしろ苦しみすらも楽しんで、時を待ちたいなと思います。
どれも好きなことのスケジュールでしかないです。カラダの苦しみにだけは、気にかけて、
労わりつつ、カラダも喜ぶ、日の重ね方をしてみようと思います。
皆さんは、日々の生活の中で気付き、そして、腑に落ちることはありますか?
それは、自身にとって、幸せなことですか?
幸せは、自分のカラダ(自律神経)のようなものかもしれませんね。
に行ってきます。
昨年、釈尊の仏跡を巡る旅で、どんな活動をしていたかを学びながら、インド文化に触れてきました。
だいぶそれだけで、自分の概念がガラッとかわり、
何も変わらない生活、正確には、異動が伴っていますが、
また、見え方が変わり、ストレスの出方が、方向転換しましたし、だいぶ人に感情を見せるようになりました。
その手前、中村元先生や佐々木閑先生のYouTubeなど、それなりに1年間で、なかなかの長さのYouTubeも一通り、現在の配信に追いつき、
背景や環境、何故釈尊は、2500年もの時を経て、
今に繋がるのかを、自分なりに整理したくて、
栃木県那須地区から、田町まで足を運びました。
中村尚人先生の仏教的視点を学ぶことが出来たわけですが、まず概念をどこで切るかのセンスだと感じました。
言葉はどこの視点で見るかで、どうにでもなることや、人の興味や人の歴史背景、生き方で、そもそも、どうにでも解釈が出来てしまう。
その中で、カラダは自然であり、リアルで、
変わっていくものでもあり、そのままを感じれるものでもある。
どんな日だと感じている日があっても、無意識に反応している自分のカラダがある。
腸の常在菌との二重生活もある。
引いてみるか、集中したポイントをみるか。
ミクロとマクロの視点。
宇宙まで考えた時、
私には何故釈尊が、本質をついた活動が出来たのかを、勝手にイメージしたのは、
インドの地を歩いて、社会を見て、
気付きを得るとすると、
釈尊の周りの環境は、まず社会であったこと。
カピラ城に今回行きますが、おそらく、王様としての社会システムがそもそもあったこと。
そこから、自然豊かな地で、リアルに自分のカラダを使いながら、マインドを感じていたと言う、心身相関を、ただ観ていたんだと感じました。
自然が周りにあり、どう移ろい行くのかを観て、感じ、ヒトとしての、生きるためのエネルギー、
宅鉢や人の優しさなど、何が人にとって大切であり、苦しみはなんなのかを見抜く力を得ていたのだろうと思います。
幼きころは、人がどう思っているか知りたい、強くそう感じましたが、
歳を重ねると、粗方見える人の心。
社会システムに生きることでの苦しみは、リアルな自然と比べると見えてくるでしょ?
と言うことなのかなと、私なりにイメージしました。
見えたところで、環境や体調により、
苦しみは苦しみだとは思うのです。
釈尊でさえ、死期が近づくと、水が飲みたいんだと、濁った水しか近くにないのに、アーナンダにせがんだのですよね。
生きるってそう言うこと。
自律神経や生きるカラダのシステムが、
そのままの諸行無常であり、一切皆苦であり、
リアルに観ていくと、引いた自分を引き出せる。
それに対して、私自身、ある程度考えていた内容だったのですが、講座を聞いて、知識を得て、実際に徳を広めようとする師の姿をリアルに体験して、ある程度、腑に落ちてきました。
まだまだ、気付きは少ないはずです。
生きている間に気付くことなんて、たかがしれている。
それに気付いた中で貪欲に、探究し、経験しながら、生きるを重ねて、終わりに向かうこと、
脳が病気にならなければ、ある程度は、穏やかに社会も観て自分の在り方を模索しながら、
社会に還元する生き方も出来るのではないかと考えます。
それは、孤独ではなく、共存であり、
地球の一部であり、宇宙の一部であり、
流れの中のいっときでしかなく、
ただバタフライエフェクトのように、
生きているだけで、何かに影響を与えている、
ご縁の繋がりである。
満ち足りたときに、慈悲が生まれるらしい。
自分が満ちているかは、人にどんな対応をしたかで、見えるバロメーターかもしれない。
さて、インドとネパールの旅で、何に気付き、経験し、また、新しい自分に出会えるのかとても楽しみです。
それまで、まぁまぁスケジュールパンパンですが、1日1日をむしろ苦しみすらも楽しんで、時を待ちたいなと思います。
どれも好きなことのスケジュールでしかないです。カラダの苦しみにだけは、気にかけて、
労わりつつ、カラダも喜ぶ、日の重ね方をしてみようと思います。
皆さんは、日々の生活の中で気付き、そして、腑に落ちることはありますか?
それは、自身にとって、幸せなことですか?
幸せは、自分のカラダ(自律神経)のようなものかもしれませんね。
