龍翁余話(837)「時を大切に」

 

6月もすでに1週間が過ぎた。ご承知のように6月の和名には「水無月(みなづき)」、「風待月(かぜまちづき)」、「凉暮月(すずくれづき)などあるが、詩歌など文芸的作品の中に最も多く使われるのは「水無月」だろう。でも、このまま直訳すれば実におかしな名だ。日本列島の6月は「水が無い月」どころか梅雨入りのシーズンで、大雨などで水災害が心配される「水の多い月」、すでに月初めには各地で線状降水帯による集中豪雨が、また3日には都心にゲリラ豪雨(局地的大雨)が襲い市民生活に大きな混乱を招いた。気象庁の発表だと今年の梅雨入りは、九州・四国・本州は6月中旬頃だと言われている(沖縄地方の梅雨入りは5月21日、東北地方の北部は6月下旬、北海道は梅雨入りはない)。

 

「水無月」の語源を調べて見たら(いろいろあるが)、1つは旧暦の6月は現在の7月頃、この時期、梅雨は明け、暑さの厳しい日が続く時期。そこから「水が涸れ尽きて無くなる」ので「水無し月」と呼ばれるようになった、と言う説。もう1つ、田んぼに水を張る月であること、つまり「水な月」――「な」は「の」と言う意味の古語、つまり「水の月」のことで「無」は“当て字である”と言う説、これが最も有力な説である(そうだ)。

 

ところで6月10日は『時の記念日』だそうだ。この制定は古く、今から104年前の1920年(大正9年)に文部省の外郭団体として「生活改善同盟会」が設立された。その会の活動目標は、国民の衣食住や社交儀礼等、生活各方面の合理化・近代化を目指したもので、活動テーマの中に「時を大切にする意識の高揚」と言うのがあって、同会設立と同時に『時の記念日』が制定された、という次第。『時の記念日』が何故、6月10日か(日付の由来は)――資料によると、今から1353年前の飛鳥時代の中期、671年6月10日、第38代天皇・天智天皇(大化の改新を手掛けた天皇)が、中国で用いられていた水時計を日本で初めて使用した日と言うことが日本書紀に記述されているので、その日を選んだ、とされている。

 

1920年に「生活改善同盟会」が「時を大切に」と訴えた以前、アメリカでは(1776年の「アメリカ独立宣言」の前)に、「時は金なり(Time is money)」と言う言葉が生まれていた。この言葉を生んだ人は“アメリカ建国の父”と言われているベンジャミン・フランクリン(1706年~1790年、政治家・外交官・物理学者・気象学者・著述家)。彼は勤勉性、探求心の強さ、合理主義、社会活動への参加など18世紀における近代的人間像を象徴する人物。彼は「時間を浪費しないように、時間は常に何かを得るために使うべきであり、無用な行動は全て断つべきである」と述べている。

 

実は、翁がかつて(映像制作会社経営の一方で)翁の恩師・佐野元生先生が創設した「財団法人日本余暇文化振興会」(文科省の認可団体)の役員の1人として生涯学習推進委員を担当したことがあるが、その時に学んだ言葉で「自由時間とは、いかなる人間的堕落も、いかなる人間的成長をも認められる時間である」と言うのがある。これは、あるフランスの社会学者の言葉であるが、翁はこの言葉を(翁自身も尊重し)多くの人に提唱して来た。つまり人間一生を(仮に)80万時間とした場合、(おおざっぱな計算で恐縮だが)「社会的生活時間」(仕事・学業・家事など)はわずか約10万時間、「生理的生活時間」(睡眠・食事・その他の生理行動時間)は約35万時間、「自由(余暇)時間」(交友・趣味・遊び・自己研鑽など、社会的生活時間や生理的生活時間を差し引いた自由時間は)約35万時間、すなわち人間が生きている中で誰からも拘束されないで自分が自由に使える時間が約35万時間もあることから(前述のフランスの社会学者が言う)「自由時間とは、いかなる人間的堕落も、いかなる人間的成長をも認められる時間である」と言うことになる。考えてみれば、これは何と人を突き放した冷たい言葉であろうか。しかし人間に与えられた真の”公平“は1日24時間、と言う”時間“だけ。そのうちの(一生の中で)約35万時間もある自由時間を、人間的堕落に使おうが、人間的成長に使おうが、それはあなたの勝手、あなたの自由だ。しかし、それは全てあなたの自己責任だ」と言うことになる――

 

翁は、若い時(30歳代)から映像製作会社の経営を中心に、(40歳代に)生涯学習推進、専門学校教師を経験して来た。考えてみれば(人間、仕事や学習、研究をしている人は、みな同じだろうが)常に時間に追われ、時間に追いかけられたような気がする。現役を退いて“暇人”になってからも、その習性が治らず、超後期高齢者でありながら未だに1日の時間割を考え、明日の行動予定を立てる、その習慣が続いている。現役時代とは違って“自由時間”ばかりになっている今日、時間を追いかけることはないが、反対に(余命を考え)時間に追われる心境になること、しばしば。今更「自由時間とは、いかなる人間的堕落も、いかなる人間的成長をも認められる時間である」などと肩の凝るような定義に捉われることはなく、あくまでも「生きている間、自分的に納得出来る時間を過ごしたい」と思うだけ。現実としては“納得できた日”もあれば「あ~あ、つまらない一日であった」と後悔する日もあるが・・・

 

誰が言ったか知らないが「時間の使い方がうまくなる6つの方法」と言うのがある。①物事には優先順位をつける。②スケジュールを立て管理する。③ポジティブ思考(前向きで積極的な考え)になる。④オン・オフを切り替える(仕事とプライベートを区別して適当に休憩を取り鬱にならないこと)。⑤整理整頓する(これは、物を整理整頓するだけでなく、気持ちの持ち方、合理性を考える、と言う意味だと翁は解釈する)。⑥早起きする(「早起きは三文の徳」と言う諺がある。翁は“早寝早起き族”、早起きしたからと言って三文(小銭)が入ってくるわけではないが、1日の時間を有効に使うことが出来るのは幸いだ)――このように『時を大切に』考える”時“も必要だろう。が【時として時に縛られ時に泣き、 時を恨む時もあり】・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。