龍翁余話(833)「平家の里 平家七人塚」

 

翁、今年5月の連休中は故郷(大分県)で過ごした。2022年の暮れから再三帰省しているが、そのたびに、今まで知らなかった郷土(及び周辺地域)の観光スポットや歴史・文化に触れることが出来、「ふるさとは遠くにありて思うもの」ではなく「ふるさとは近くにありて愛おしむもの」を実感している。

 

今号は宇佐市院内町(いんないまち)の『平家の里 平家七人塚』を紹介する。が、その前に――『平家の里』(平家の落人伝説)は日本各地に伝わっていることはご承知の通り。平安時代の末期、1167年(仁安2年)に平清盛(武将・公卿・貴族)が日本初の武家政権(平氏政権)を樹立、驚異的な栄華を誇り「平家にあらずんば人に非ず」と言う平家一門の傲り高ぶりを象徴する言葉まで横行した。言い出しっぺは平時忠(清盛の妻・時子の弟)だったそうだ。しかし、平家の傲り高ぶりに立ち向かったのが源頼朝と弟の義経、源氏と平家が雌雄を決した戦いは「一の谷の戦い」(1184年3月20日、現神戸市兵庫区・須磨区)「屋島の戦い」(1185年3月22日、現高松市)、「壇ノ浦の戦い」(1185年4月25日、現下関市)の3つ(いわゆる“源平合戦”)であるが、この「壇ノ浦の戦い」(源義経の勝利)をもって18年間の“平家の栄華”は幕を閉じることになる。

 

“平家の落人伝説”は(上記)3つの戦いによって生まれる。これらの戦いに敗れた平家の武士や家族、平家寄りの商人や農民などが各地の山・谷・森の中などに逃げ込み、身を寄せ合って生き延びた人たちを“落人”と呼び、彼らが潜んだ場所や地域を平家谷・平家塚・

平家の隠れ里・平家の落人の里(総じて「平家の里」)と言う。「平家の里」は全国各地に存在しており、東北地方では青森(八戸)・宮城県仙台市・山形県酒田市・福島県南会津郡・岩手県久慈市・北上市・大船渡市、関東地方では茨城県久慈郡・栃木県那須塩原市・

日光市・群馬県利根郡・神奈川県横須賀市・千葉県千葉市、中部地方では新潟県佐渡市・中魚沼郡・岐阜県白川郷・富山県五箇山・石川県輪島・加賀市・福井県福井市・越前市・大野市・長野県伊那市・静岡県富士宮市、近畿地方では三重県津市・伊勢市・志摩市・度会郡・大阪府豊能郡・兵庫県赤穂郡・奈良県吉野郡・和歌山県東牟婁郡・日高郡、中国地方では鳥取県鳥取市・八頭郡・東伯郡・岡山県久米郡・広島県庄原市・福山市・尾道市・山口県岩国市・下関市・萩市、四国地方では徳島県三好市・愛媛県四国中央市・伊予郡・八幡浜市、九州地方では福岡県北九州市・宗像市・糸島市・那河川市・柳川市・長崎県対馬市・佐世保市・佐賀県唐津市・熊本県八代市・球磨郡・大分県宇佐市・宮崎県東臼杵郡(椎葉村=翁はここをよく知っている。宮崎県の代表的な民謡『ひえつき節』発祥の村)・鹿児島県指宿市・薩摩川内市・種子島、硫黄島(この島は実は東京都。太平洋戦争末期、日米が死闘を繰り広げ地獄絵図と化した激戦地。現在、無断上陸禁止の島)翁はこの島に取材で2度行ったが、残念ながら「平家の里」らしき跡を見ることはなかった。それに、奄美大島や沖縄諸島に「平家の里」があったとの文献もあるが(それらの研究者には申し訳ないが)ここでは、いずれも史的根拠の薄い”想像話“としておこう。

 

さて、大分県宇佐市院内町(いんないまち)に在る「平家の里・平家七人塚」――院内町は“石橋”で有名な町。宇佐市から熊本市へ通じる国道387号が院内町を縦断している。この国道は翁が帰省の際に時折ドライブする馴染みの道路である。院内役場から隣接する玖珠町方面へ約1km行った所の分かれ道・大分県道27号(耶馬院内線)のやや登坂を走ると、右手に「龍岩寺」と言う古刹がある。ここは746年(天平18年)に宇佐神宮を参詣した行基(ぎょうき=飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した仏教僧)によって開山された曹洞宗の寺院。奥の院礼堂と白木の三尊像(阿弥陀如来・薬師如来・不動明王)はともに国の重要文化財。翁、そこにも参詣したかったが時間の都合で(龍岩寺の)直ぐ近くに在る『平家七人塚』へと急いだ。

    

     「平家七人塚」           門脇正夫さん      門脇家の墓

 

山奥の『平家七人塚』に到着した時は午後3時を回っていた。他の参詣者はもう誰もいない、翁1人だ。駐車場に車を停め外に出ると、心なしか“心霊スポット”の感を強める。

そこへ1人の初老の男性が近づき翁を案内してくれた。その人・門脇正夫さんと言う『平家の里・平家七人塚』の語り部である。以下、門脇さんの説明による『平家七人塚』の伝説――壇ノ浦の戦いに敗れ、それまで、平清盛の参謀として猛勇ぶりを発揮していた門脇中納言平教盛(たいらののりもり=平清盛の弟で通称“門脇どの”)と家来・家族らは山河を超えて宇佐に落ち延びた。その一族が「平家の里」を築いたのが、ここ院内町大門である。したがって語り部の門脇正夫さんの先祖は門脇中納言平教盛であり“門脇家第35代当主”であるとのこと。訊いてみたらこの院内町大門には“門脇性”が今でも多数あるそうだ。“七人塚”の7人とは?門脇さんいわく「追手の源軍に殺された武将たちですが、その中に教盛が含まれていたか、とにかく7人の名前は分かりません」とのこと。門脇さんの熱のこもったお話は実に楽しかったし“平家落人の悲哀の事実”を学ぶことが出来た。

約30分のインタビューが終わって翁の頭に『平家物語』の冒頭文がよぎった【祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色(盛者必衰の理)、奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し】――そして翁が最も嫌っている今世紀の極悪3人組(プーチン、習近平、金正恩)に「盛者必衰」の声を投げかけた・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。