龍翁余話(818)「プロ野球の日、WBCの興奮を今再び」

 

翁を“にわか野球フアン”にしたのは大谷翔平であった。これまで、あまりテレビの野球中継を観ていなかった翁、大谷が花巻東高校を卒業して北海道日本ハムファイターズで活躍した頃(2013年~2017年)、翁は彼のことを全く知らなかった。テレビ番組で「投手と打者を兼ねる二刀流」が話題になっていたが、そのことにもたいして関心は持てなかった。(それほどに、野球熱はなかった)。確かにアメリカのメジャー・リーガーとして活躍した野茂・松井・イチローの活躍ニュースには“日本人としての誇り”を感じ、拍手を送った。しかし、それでも野球中継を観るほどではなかった。それが2022年から2023年にかけて大活躍した大谷翔平は翁を“にわか野球ファン”にしてしまった。彼が出場するエンゼルスの試合を(テレビで)観る機会が増えた。そしていつの間にか翁は“にわか野球ファン”、と言うより“大谷翔平ファン”になった。あの堂々たる体躯(身長193㎝、体重95kg)で踊るような、しなやかな投球フォームや打撃フォームは、実に美しい。

 

実際に大谷翔平への魅力・根性を感じたのは2023年3月8日に始まった「第5回WBC」であった。侍ジャパン(日本チーム)は1次ラウンドでプールB(東京プール)に入り、3月9日からの4日間、連続で中国、韓国、チェコ、オーストラリアと対戦して大差の勝利、Bプール首位で準々決勝へ進出、ここまでは翁、中継ではなくニュースで戦果を知ったのだが、日本の野球がこんなにも強いのか、を実感。それからというもの、ヒマ人の翁、3月16日準々決勝のイタリア戦から中継の全てを観るようになった。イタリア戦では9対3で勝利したものの、続く3月21日の準決勝の会場は東京を離れ、米国フロリダ州マイアミのローンデボ・パーク、対戦相手はメキシコ。メキシコはプールCの首位で勝ち上がったチームだから強いのだろう、と想像していた。ちょっと調べたら今も続いている「メキシカンリーグ」が創設されたのは1925年(大正14年)、日本のプロ野球の前身「日本職業野球連盟」の創設が(後で述べるが)1936年(昭和11年)だからメキシコの野球の歴史は日本より古い。そうは言っても1976年(昭和51年)の世界選手権から2020年の東京オリンピック(コロナ禍のため実際には2021年に開催)まで日本チームとメキシコチームは20回対戦、その戦績は日本が17勝3敗で圧勝しており、翁は内心、“今回も日本勝利”と予想していた。ところが、いざ試合が始まると、その強さ(粘り)は翁の想像以上で4回表に3点を先取され、侍ニッポンのハラハラ試合が続いた。7回裏、吉田正尚の3ランで同点に追いつくも8回表にまたも2点を取られメキシコが優位に立った。その直後(8回裏)山川穂高の犠飛で1点差に追い上げ4:5の1点差で負けている日本は最終回(9回裏)、大谷翔平の2塁打などでつくった無死1,2塁の好機、それまで打撃不振だった村上宗隆が2点二塁打を放ち逆転勝利(6:5)を収めた。その時、翁は年甲斐もなく涙ポロポロ、掌が痛くなるほど手を叩いて「やった!やった!さすがニッポン」と叫びまくった。3月22日、さあ、いよいよ決勝戦だ。会場は前日の準決勝(メキシコ戦)と同じフロリダ。今更戦況を語る必要はないが、さすがに強豪アメリカとの対戦は緊張の連続。日本は先発の今永から戸郷、高橋、伊藤、大勢と繋いで強力なアメリカ打線を抑えた。準決勝のメキシコ戦に続いて翁の興奮ぶりは異様に思えるほどに高まった。掌は痛み汗をかき、声はかすれた。8回から6人目の投手ダルビッシュ有がマウンドに上がった。この時、翁は“日本勝利”を確信した。根拠はダルビッシュ有のアメリカにおける長年の経験と実績、しかも2点リード。しかし、リードはしていても油断出来ないのがアメリカ打線。ダルビッシュ有に悲壮感が漂う。翁は「頑張れ、ダル!」と叫んだ。1点は取られたが1点リードのまま最終回(9回裏)7人目の投手大谷翔平に代わった。2アウトを奪い最後に迎えたバッターは、エンゼルスで大谷とチームメートのトラウト選手。大谷は160キロ級の剛球を投げ続け、遂にトラウトを三振に討ち取った。その瞬間、大谷は帽子とグローブを投げ捨て、喜びをグランドいっぱいに表現した、そのシーンは今でも鮮明に思い出される。こうして侍ジャパンはWBC5回大会のうち第1回・第2回に続き3回目の優勝を果たした。「バンザイ」である。

 

さて、2月5日は『プロ野球の日』だそうだ。前述の通り1936年(昭和11年)のこの日、「全日本職業野球連盟」(後に「日本野球連盟」と改称、現在の「日本野球機構」)が結成され日本のプロ野球が誕生した。当時の加盟チームは東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)、大阪タイガース(現・阪神タイガース)、阪急軍(現・オリックス・バファローズ)、名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)、東京セネタース(1940年に廃団)、大東京軍(現・DeNAベイスターズの前身)、名古屋金鯱(きんこ)軍(1940年に廃団)の7チームであったそうだ。契約選手の第1号は三原修(後に読売ジャイアンツ・西武ライオンズ・大洋ホエールズなどの監督を務めた)。ちなみに三原の当時の月給は177円。当時の大卒の初任給は64円だったそうだから、かなりの高額ではあったが、今と比べれば・・・三原のほか、後世に名を残した名選手には沢村栄治(名投手)、水原茂(後に読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズなどの監督を務めた)らがいる。

 

ところで翁は「野球」と言えば明治の俳聖・正岡子規を想起する。翁は長年「野球」と言う名称は正岡子規が命名したもの、と思い込んでいた。調べてみると、東京大学野球部員だった中馬庚(ちゅうまんかなえ)と言う人が1894年(明治27年)に発表したそうだ。そうであっても翁は、やはり子規の“野球熱”を見逃したくない。子規は東京大学予備門(現・教養学部)の学生の頃、捕手として野球に熱中した。中馬が「野球」と翻訳する4年前に子規は自分の雅号を、幼名の升(のぼる)をもじって「野球(のボール)」と表記した。そればかりではない、子規は多くの“野球用語”を残した。例えば投手・捕手・野手など。それらの功績が高く評価され、2002年に「日本野球殿堂」入りを果たした。病床にあっても彼の野球愛は変わらなかった。子規の1句【まり投げて みたき広場の 春の草】WBC後の翁の心境でもある・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。