龍翁余話(571)「第125代天皇・皇后両陛下に敬意と感謝!」(拡大版)

 

30年前に、『昭和』の「動乱・戦争・荒廃~奇跡的な復興・繁栄」を経て迎えた『平成』、その『平成』が間もなく終わろうとしている時、翁「平成とはどんな時代であったか」を振り返る。「バブル崩壊、リーマン・ショック、赤字国債の膨大、自然災害多発、他国からの卑劣な挑発、深刻化する少子高齢化」ほか、いろいろと問題が多くあり過ぎて枚挙にいとまがなく、なかなか“平成のイメージ”が捉えにくかった。そんな時、昨年1223日、85歳のお誕生日を迎えられた天皇陛下が記者会見で「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに心から安堵している」と述べられた。翁、そのお言葉を拝聴して思った「ああ、そうだ、平成は“平和が成った時代”であったのだ」と――

 

「平和が成った時代」ではあったが第125代天皇・皇后両陛下は(国の内外を問わず)先の大戦で災禍に見舞われた人々に対するお心の痛みは、昭和天皇・香淳皇后両陛下の御心と同じく片時もお忘れではなかった。毎年815日の「全国戦没者追悼式」では、必ず国内外の戦没者に対する慰霊のお言葉を述べられた。11回もの沖縄訪問をはじめ長崎・広島へも赴かれた。両陛下の“慰霊の旅“は国内ばかりではない、パラオ共和国やサイパン島、フィリピンも歴訪され、激戦地跡と慰霊塔に鎮魂の誠を捧げられた。

 

天皇・皇后両陛下の平成時代は“象徴天皇であること”を基軸にされ、常に国民に寄り添い国民と共に歩まれた30年であった。翁、これまでに両陛下の動静(ご様子)についてはマスコミ報道の範囲でしか知り得なかったが、“ご退位”に際し、改めて天皇・皇后両陛下のご公務・行幸啓・外国ご訪問などを調べて見たら、それは何と超多忙な30年でもあったことを知る。まず『ご公務』(内閣の助言と承認により、国民のために憲法に定められた国事に関する行為)――内閣総理大臣・最高裁判所長官の任命、国務大臣その他の官吏の任免承認、国会の召集、国会開会式ご出席、法律や条約の公布、栄典授与、大使の信任状の承認、外国の大公使の接受・・・これらの事項についての閣議決定の書類は毎回、閣議の後に陛下のお手元に届けられ、陛下はこれらを丁寧にご覧になってご署名やご押印をなさる。その数は年間数百件にものぼると言う。

 

更に陛下は(国事に関連して)内閣総理大臣・最高裁判所長官の新任式、国務大臣などの認証官任命式、外国特命全権大使の信任状捧呈式、勲章親授式などの『宮殿儀式』に臨まれる。これらの儀式のほかに宮殿および御所において拝謁、ご会見、(陛下主催の)茶会、午餐・晩餐など、さまざまな行事が行なわれる。その数、昨年1年間で220件もあったそうだ。これらの行事の中には、長年、社会の様々な分野で地道な努力を続けている人々を励まし功績を顕彰する内容が多い。また、宮殿では国際親善を目的として国賓のための公式晩餐や、外国要人、在日外国大使などとのご引見や午餐・・・昨年1年間に両陛下がお会いになった外国からの王族・賓客・大統領・元首・首相などは55人、外国からの大使の着任・離任の際もその都度お会いになり、昨年1年間で64件もあったとのこと。

 

我々一般国民にとって天皇・皇后両陛下が「常に国民に寄り添い国民と共に歩まれた」を強く印象づけられたのは『行幸啓』(両陛下が皇居からお出ましになり国民と親しくお会いになること。目的地が複数ある場合は“ご巡幸”とも言う)であろう。毎年の全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会へのご臨席、国際学会へのご出席や地方事情視察の行幸啓もある。その際には常に地元の福祉・文化・産業施設などをお訪ねになる。福祉関係施設については、これまでに500か所以上も訪問されているそうだ。それ以上に翁が特に(両陛下に対して)敬意と感謝の念を深めるのは“被災地ご訪問”だ。“被災地ご訪問記録”をざっと調べて見た――平成3年「雲仙・普賢岳噴火」、(以下、元号『平成』)5年「北海道南西沖地震」、7年「阪神・淡路大震災」、12年「三宅島噴火」(翌年、現地被災状況をご視察、島民をお見舞いされた。また、避難した島民が作業に従事していた東京や伊豆下田の避難生活支援施設も訪問された。16年「新潟県中越地震」、19年「新潟県中越沖地震」、23年「東日本大震災」、同年「長野県北部地震」、26年「広島豪雨」、27年「関東・東北豪雨」、28年「熊本地震」、29年「九州北部豪雨(福岡・大分)」、30年「岡山・愛媛・広島豪雨」、同年「北海道胆振東部地震」など、大災害ごとに両陛下は被災地に赴かれ犠牲者を悼み被災者を慰め励まされた。特に「東日本大震災」の際は、3月から5月にかけて7週連続で避難所および被災地をご訪問になり被災者をお見舞いされた。このように両陛下の“行幸啓記録“を見ると、平成がいかに自然災害の多い時代であったか、そしてその都度、両陛下にご心痛、ご苦労をお掛けしたか・・・しかし、それは(前述のように)「常に国民に寄り添われた」両陛下の御心を我々国民が知り、感動・感謝・敬意の念を深めることが出来た機会でもあった。

 

ところで、翁にとって忘れられない“天皇・皇后両陛下『行幸啓』の足跡”がある。それは『龍翁余話』で過去3回(20093月、20183月、20193月)配信した『硫黄島』である。19942月、両陛下は(地獄絵図と評された)激戦地『硫黄島』を訪問された。翁も1999年と2001年に同島を取材した。両陛下が立ち寄られた「擂鉢山」、「鎮魂の丘」、「西大佐戦死の碑」、「兵団指令(栗林兵団長)壕跡」、「天山慰霊碑」、「平和記念墓地公園」などを翁は取材した。両陛下は”硫黄島慰霊の旅”の後、次の御製・御歌を詠まれた。

 

<天皇御製>精魂を込め戦ひし未だ地下に眠りて島は悲しき】

<皇后御歌>【銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき】

 

総兵力21,763人のうち戦傷者1,023を残し20,740人が戦死、その兵士たちの死を悼み、また、過半数の遺骨が収集されずジャングルや壕の中など島の随所に埋もれたままになっている御霊に思いを寄せられる両陛下の深い御心が偲ばれる御製・御歌である。

 

天皇・皇后両陛下の『外国ご訪問』も多かった。平成3年タイ・マレーシア・インドネシア、(以下、元号『平成』)4年中国、5年ベルギー(ボードワン国王のご葬儀にご参列)、イタリア(ローマ法王と会見)・ドイツ、6年アメリカ・フランス・スペイン、9年ブラジル・アルゼンチン、10年イギリス・デンマーク、12年オランダ・スウーデン、14年ポーランド・ハンガリー、17年ノルウー、18年シンガポール・タイ、19年ヨーロッパ諸国、21年カナダ・ハワイ(米国)、24年イギリス、25年インド、26年(皇后陛下)ベルギーのファビオラ元王妃のご葬儀にご参列29年ベトナム。そのほか(前述の通り)17年にサイパン、27年にパラオ、28年にフィリピンへ、いずれも“慰霊の旅”にお出かけになった。両陛下がご即位後、公的外国ご訪問は28か国(お立ち寄り国を加えれば)58か国となる。なお、外国ご訪問の際は、その国の元首をはじめ各界各層の人々と広くお会いになるほか各地で歴史・文化・産業・社会福祉などの施設を多くご訪問されたそうだ。

 

いにしえより『和歌』は皇室の伝統文化として重んじられ継承されている。両陛下はお祝いごとやご旅行などの折りに歌をお詠みになっておられる。宮中では(鎌倉時代に始められたと伝えられている)『歌会始の儀』が毎年1月に行なわれることはご承知の通り。余談だが実は翁、若い時(昭和天皇の御世)、総理府(現在の内閣府)の仕事でこの『歌会始の儀』を取材したことがあった。息がつまりそうに緊張したことを思い出す。

 

天皇陛下は、昭和天皇がお始めになった(我が国の農耕文化の中心)『稲作』の行事をお引継ぎになられ、春に種籾をお蒔きになり、初夏に田植えを、秋に稲刈りをなさっている。皇后陛下は、照憲皇太后(明治天皇の皇后)が明治4年にお始めになった養蚕を、香淳皇后(昭和天皇の皇后)からお引継ぎになられ、皇居内の紅葉山御養蚕所で春から初夏にかけて掃立て・給桑(きゅうそう)・上蔟(じょうぞく=食桑をやめ営繭にかかろうとする塾蚕を蔟(まぶし=繭を作らせる道具)に移す作業)・繭かき(出来上がった繭を蔟から取る作業)など、ご公務の合間や休日に御養蚕所や桑園にお出かけになられた。なお御養蚕所の繭は絹織物として宮中祭祀や外国元首への贈り物などに使われるそうだ。『宮中祭祀』と言えば、両陛下は皇太子・同妃両殿下時代から宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)における祭祀を大切にしてこられ、いつも国民の幸せを祈願しておられると言う。

 

歴代天皇・皇后の中でこれほど国民に親しまれ愛された天皇・皇后は第125代平成天皇・皇后両陛下のほかにおられたであろうか。翁、両陛下に心からの敬意と感謝の念を込めて申し上げたい「お疲れ様でした。ありがとうございました」――畏れ多くも翁 愚句献上 

     【平成の 去り行く春を 惜しむれど 令和の御世を 慶び奉らん】

・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。