「中国で〜」 | 泳ぐ写真家龍之介

「中国で〜」

ちょっと暗い話題ですが、
中国で粉ミルクに、薬物が混入して、
多くの子どもが死んだり、苦しんでいるようです。
なんとも痛ましい事件ですが、
実は、私にとっては、人ごとではありません。

私も、生まれてすぐに、粉ミルクの被害にあったからです。
昭和30年。日本のM乳業の粉ミルクにヒ素が混入して
、多くの乳幼児が死亡したり、脳性麻痺になりました。
私も、その粉ミルクを摂取したせいで発生した
全身の激痛と高熱のせいで、入退院を繰り返し、
病院でモルヒネを打ってもらいました。
その後も高熱がくりかえし襲って来て、
とうとう、左耳の聴力が完全になくなってしまいました。

小学校2年くらいまでは、高熱がたびたび発生して、
学校には半分くらいしか行っていません。
熱とだるさで、ほとんど寝たきりでした。
ある日、父母が、こっそりと、
「この子は、成人までは生きられないだろう」
という会話をするのを、寝ているときに、盗み聞きして
ショックを受けました。
死ぬ恐怖より、死んだ後はどんな世界なんだろう?ということを
ありあまる時間の中で考えました。
家にあった父の蔵書などをとにかく読みあさりました。
私の世界観、死生観は、このときに作られたと思っています。

その後、奇跡的にヒ素が体外に排出され、健康体になりましたが、
体はひ弱でした。学校では、いじめられました。
耳が聞こえないことをからかわれたのが一番つらかったと記憶しています。
喧嘩に負けて泣いて帰って来たら、家に入れない。
と軍人出身の父は厳しく言っていたので、
もう戦うしかありませんでした。

体を強くするためにということで、近所の柔道場に通いました。
猛練習して、大会に出て、賞をもらうまで強くなって、
学校で、私をいじめた連中を全員呼び出して、投げ飛ばして、締め上げたら、
今度は、先生や他の生徒から恐怖の的になり、孤立してしまいました。
とにかく、
粉ミルクのおかげで、私の小学校時代は、波瀾万丈でした。

しかし、小学校という時期に、死生、社会、人間関係等について、
いろいろと考えて、自己をしっかりと持てたのは、
この経験のおかげです。

ジョセフ・マーフィー氏は、何か悪いことがあっても
「私は、ついている、幸運だ」と、考えをポジティブに変えたそうですが、

私の場合は、
「いくらなんでも死ぬ事はないだろう」
と反射的に考えるようになりました。

良く言えば、しぶとい人間になったと思いますが、
悪く言えば、とにかく生きてさえいれば、「御の字」という、
あまり競争心や欲のない人間になってしまったと思っています。