みなさん!お元気ですか?
HALです。
ブログも少しご無沙汰になりました
今日は私の作業場遍歴を書いてみたいと思っています。
私は東京の作業場を住居と別に使用している。
仕事場は西麻布にあるのだが、仕事柄多くの人が出入りするために
中々落ち着かず、仕事場の中にも作業用のスペースを作ったのだが使用せず、西麻布界隈に宿を借りて一人で集中できる場所を確保するようにしている。
作業とは主に、歌を作ったり、運営するカルチャースクールの調べ物をしたり、文章を書いたり、絵を顔いたり、関係するビジネスのアイデアを練ったり、一人行う作業がほとんどだ。
その作業が日中の仕事を終えてからの行うことが多いので、必然的に作業は夜中になる。
流石に家人は規則正しい生活を行なっているので、夜中生活の私に合わせる訳には行かず、SONYから再デビューをきっかけに作業場として
15年くらい前から
横浜みなとみらいのマンションを皮切りにずっと作業場暮らしを行なっている。
みなとみらいでは私のデビューシングルの「もしも涙が溢れても」のカップリング曲
「ココロの鍵」を書いた。
私の住んで居たMMタワーズの前の道が「銀杏通り」という名前だったのだが
その道が好きで歌の中の舞台に使いたくて使わせてもらった。
今でもたまにライブ歌ったりするので知っている人もいるかもしれませんね。
あの歌はみなとみらいの歌なのです。
みなとみらいは通算4年ほど住んで居たのだが、仕事場が西麻布という事もあり、
東京を拠点にした方が良いだろうと、10年前から東京に移ってきた。
東京の最初の作業場は、西麻布の六本木通りの坂の途中のファッションホテルの部屋を1ヶ月借りて使用していた。
しかしホテルという事と、六本木通りという立地の周りの騒がしさに根を上げて、すぐに東麻布の東京タワーの下にあるマンスリーマンションに宿を移した。
東麻布という土地柄、深夜になると空いているお店がなく(あの頃はコンビニも結構遠くにあった)人もほとんど歩いていなかったので不便と寂しい町という印象だった。
車の駐車場は東京タワー駐車場に停めて、いつも歩いて東京タワーを眺めながら宿に戻っていたのを思い出す。
今は麻布台ヒルズも出来て非常に華やかな場所になった。
しかし、寂しいながらも、多くの考えをまとめた場所だったので、とても思い出に残っている場所だった。
今思えばあの頃は本当に色んなことを考えたなぁ
さて、東麻布には3ヶ月くらい居ただろうか?
そこからもっと立地の良い場所をということで、南麻布の韓国大使館の近くのマンションに居を移した。
その場所はたまたま車で走っていて見つけたマンションだったのだけれど
2階が入り口で、階段を降りて一階にベットルームがある不思議な作りのマンションだった。
変わった住居の好きな私は、穴蔵感が気に入り(1階には窓がなかった)
そのマンションには1年以上住んだ。
まぁ毎週日曜の朝10時に起きる右翼の街宣車の演説は少々辛かったけど
夜は静かで、よくマンションの近くを歩いて散歩したりしたし、近くにあるお花屋さんでよくお花を買って部屋に飾ったものだ。
花屋の店主さんも優しくて親切な人だったなぁ
車を止めている契約駐車場までの通り道にその花屋さんはあったので、毎日と通りがかりながらお店にお邪魔して軽く世間話をしていた
あの店主さん
私が何者なのか?最後まで分からなかったと思います。
このマンションに住んでいた頃はNY,台湾と海外へ仕事を頻繁に出かけていた時期で
海外から帰った時にホッとして
「日本に戻ってきたなぁ」と呟きながら部屋で一息ついたものです。
南麻布は閑静な住宅街で麻布十番も近くて、高級な町でした。
そのマンションはとても気に入って居たのだけれど
あるトラブルに巻き込まれて、引っ越しせざる得なくなった。
慌てて次場所を探したので中々見つからず、六本木のマンスリーマンションを見つけて転がりこんだ。
とりあえずの場所として移り住んだのだけれど六本木も2年は居ましたね。
ギタリストの市川祥治さんが遊びに来てくれたり、そのつながりから沢山のミュージシャンと交流を再開したのも六本木ですね。
マンションは六本木交差点寄りではなく飯倉寄りだったので意外に静かで過ごしやすかったです。
マンションの前にフランス料理のバトゥがあり、起きたらバトゥで遅めの朝食を頂いたりしていました。
その後は目黒に引っ越し2018年から現在まで作業場を使っています。
その間に自宅は麻布十番に引っ越して、なんとな東京の住人として少し様になってきたかなぁと考えたりしますね。
目黒については又、今度詳しい近況も含めてご紹介します。
HAL拝