昔から那覇の教会で見るユウナの丸っこい花が気に入っている
オオハマボウ 別名は、ユウナ
佳子さんのお印らしい
咲いてる時は黄色だが
夕方、落ちる時の花弁の色はオレンジ
丸っこい花をつけ、花色は黄色、オレンジ色などがある。葉はハート形で、基部の両側が重なって、ほとんど円形に近くなる。
自生状態では、海岸に多く、砂浜の後ろ側やマングローブの後縁に群落を作る。
その足下にはイボタクサギなどを伴うことが多い。
朝と昼で花の色が変わる。街路樹や公園に植えられることも多い。密に葉をつけたこんもりした樹形になる。
和名の由来は、ハマボウに似て、花も葉も一回り大きいことから
ちなみに、ハマボウは
花期は7-8月で、直径7cm程度の、中心が赤褐色の黄色い花を咲かせる。
花の形態は同属のハイビスカス、ムクゲ、フヨウ等に似る。
5枚の花弁は付け根から回旋して伸び、中心の赤褐色部は船のスクリューのように見える。
左、ユウナだと思うが、近くに寄れなかった
ハマボウだったかも (写真拡大してもよくわからない)
ここからは、興味ある人向け、長すぎるかも
佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?
竹内久美子 X 佐藤優
宗教と科学のガチンコ対談
2016年3月発行
竹内久美子さんの話に、(T)としました
第一次世界大戦の直前って、どの国も戦争をしたいとは思わなかったし、科学技術に関しても人類の幸せにつなげられるはずだと思っていた
誰もが理想的な社会をつくりたいと願っていた
そこに起きたのが第一次世界大戦で、結果、合理主義も啓蒙主義も大きな疑念の下にさらされてしまった
等しく平等であると考えられていた個々の命が、大量に、しかも短期間で失われたわけですからね
これで人類の認識が大きく変えられました
神学は一般人のことには関心がないんですよ、ほとんど。
だって神学は「教会の学」であるわけで、そもそもキリスト教というのは、人類全体の救済にはあまり関心がないんですよね
(T)
「科学とはウソをつくことである」
ウソが見破られない限り、ついてもいいウソが科学上の仮設であり、当面のところの真実なんです
(T)
聖書を一言一句すべて真実だと信じているキリスト教原理主義者たちがアメリカでは大きな勢力になっていて、選挙から教育まで現実に大きな影響を及ぼしている
そもそも、イエス・キリストが実在したかどうかも、分かっていないですよね
実在したかどうかは実証できないです。けれども、一世紀末にはイエス・キリストがいたと信じていた人々がいたことは事実です
(T)
もし実在しなかったとしたら、イエスがああ言った、こう言ったという話は、いつ、どこでつくられたのか……
いわゆる四つの福音書作家たちなんでしょうかね?
いえ、四つの福音書は、それぞれの教団がイエスの死後に書いたもので、組織の文書なんです
すでに一世紀の終わりの時点でいくつかの教団があって、「然り、わたしはすぐに来る」(「ヨハネの黙示録」22章20節)と言い置いてイエスは去ったので、みんな、自分たちが生きているあいだにも復活があると信じていたわけです
ところが、いつまで待ってもイエスは現れない、どうも復活は遅れているみたいだと
これを神学用語では「終末遅延」というんですね
この終末遅延を説明するために、各教団はテキストをつくる必要に迫られたというわけです
順番がありまして、まず最初にマルコができているんです
それとは別に現存していない謎の福音書がある
とりあえずドイツ語で「資料」をあらわすQUELLEの頭文字を取って、Q資料と呼ばれています
図式的に整理すると、まずマルコがあり、マタイによる福音書はマルコとQがベースになっており、それにマタイの独自資料が加わっています
ルカによる福音書もマルコとQがベースになって、それにルカの独自資料が加わっています
そしてヨハネによる福音書だけは、まったく独自の資料からできているんです
マルコ、マタイ、ルカの三つは、見方がだいたい同じだから「共観福音書」と呼ばれています
(T)
ほかの三つとは全然違うヨハネ福音書をつくった人たちは、どういう目的で独自の福音書をつくろうとしたんですか?
彼らの関心は「永遠の命」を得ることにあった
それに対して共観福音書の人達の関心は「神の国」に入ることにあった
社会の秩序も国家の秩序もすべて転換して、新しい神の国に入るのが最大の関心事だったんです
(T)
神の国ということは、人間ではあてにならない、人間ではまともな国をつくれないから神さまに任せましょうということですか?
神を王とする、神権政治ということですね
ただ、神の国が具体的にどういうものかはよく分かっていません
教会だってある意味で「神の国」を先取りしているわけだし、全面的に信頼がおけるコミュニケーション・システムの成立した社会ということでしょうか
(T)
それに対してヨハネ福音書の「永遠の命」というのは、この世でなくあの世で永遠の命を得るということですよね?
この世で永遠の命ならともかく、あの世で永遠の命と言われてもねえ、ちっともありがたくないですが
その要素が強いです
だから、ヨハネによる福音書は此岸性より彼岸性のほうが強く、黙示文学的なものと結び付きやすい
黙示録は、預言者が幻のなかでこの世の終末を見るもので、ユダヤ教にもキリスト教にもありますが、数ある黙示録文学のなかでも唯一、聖書の正典として扱われているのは「ヨハネの黙示録」だけですね
(T)
なるほど。じゃあ、ヨハネ福音書以外は此岸性の強い、この世についての教えといっていいんですか?
そう。最初の三つの福音書と、とくに「使徒言行録」は此岸性が強いですね
(T)
あ、その前に整理しておきますと、新約聖書は大きく四つのパートから成っていて、四つの「福音書」、「使徒言行録」、パウロ書簡などの「書簡」、それに「ヨハネの黙示録」でしたよね
そのうちの「使徒言行録」というのは、初期のキリスト教が広まってゆく様子を記したもので、主にパウロの活躍が描かれている
その通りです。プロテスタンティズムは共観福音書や使徒言行録、さらにパウロの書簡を重視して、この世を強調するのに対して、ロシア正教会や神秘主義者はあの世に重点を置いている
ヨハネによる福音書やヨハネの黙示録も、その傾向が強いですね
(T)
聖書というのは、共観福音書とヨハネ福音書という、まるで成り立ちの異なる文書を一冊にまとめちゃったんですか?
そういうことになりますね。
聖書編集者もいろいろ考えたと思いますよ。
マタイなどは、儀式で読みあげることを想定して作られています
(T)
だったら、四つを一緒にしたダイジェスト版というか統合版をどうして作らなかったのか、素朴な疑問として思うんですよ
無理です。それぞれ、編集方針が違うから。
『世界』と『文藝春秋』と『潮』を一冊にした雑誌ができないのとおなじです
もっといえば、これでも統合版としてはまとまっているほうですよ
ほかにも「トマスによる福音書」とか、変わった文書がいろいろあったんだけど、当時の編集者つまり神学者たちは、キリスト教の根幹となるテキストとして三つの福音書とヨハネとだけを残したわけです
こうして聖書がまとめられたのが、三世紀ぐらいのことですけれども、この頃にはもう各教団もバラバラになって、テキストだけが残っていたような状況でした
そうすると、テキストに書かれた譬え話(たとえばなし)もすでにリアリティを失っていて、なんのための譬えなのかも分からなくなっていたのです
後世の神学者たちがこじつけて解釈するんですが、所詮は、推定の域を出ない
実証性も客観性も通用しないテキストですからね
ところが当時の神学者連中は、自分の解釈だけは絶対だと意地を張った
聖書の解釈学なんて、そうしたほとんど無意味なことにエネルギーを費やしてきたわけですね
だから、ドーキンスが「いかなる神であれ、聖書をその証拠としては認めない」と言って怒るのも当然と思います
本来は、プロテスタントもカトリックも科学を推奨しないですよ
神学的な立場からすると、科学的なものはすべて魔術に見える
神学の立場では、神羅万象に神様の手が働いていると考えるのです
にもかかわらず、ある秘術を会得した場合には、誰がやっても同じ結果が出るでしょう
つまり、秘術も科学的方法も、神学からすれば同じ「魔術」ということになる
プロテスタントは、「どうも科学や魔術には勝てないかも」と思い始めたんです、ある時期から
(T)
ある時期というと?
十八世紀の終わり
(T)
あ、フランス革命かな
そうなんです。どうも啓蒙主義には勝てそうもないなと思った
なかでも最大の問題は「神さまはどこにいるか」が分からなくなったこと
これまでは「神は上にいる」と思っていたのに、ガリレオ、コペルニクスの登場以降、上も下もなくなっちゃった
それでシュライエルマッハーという非常に頭のいいドイツのプロテスタント神学者が「神は心の中にいる」と、神の場所を転換したわけです
そう考えれば、近代的な世界像とのあいだには何の矛盾もなくなった
だから教会や神学者は、自然科学を忌避する必要もなくなったわけです
これを裏返すと、キリスト教は魔術/科学に対して全面的に道を開いたことになるのです
だって、「魔術は魔術で勝手におやりください」ということにしたわけだから
(T)
それはプロテスタンティズムだけですね?それならば科学が盛んなのもわかる
プロテスタントの中でも主流派だけ
カトリシズムや正教は、依然として、魔術/科学を許さないです
プロテスタントが啓蒙主義や近代合理主義などのモダニズムと共存してゆく道を選んだのに対して、カトリシズムと正教はプレモダン(前近代)路線で、今もモダニズムと対決をつづけている
でも、面白いのは、第一次世界大戦でモダニズムが危機に陥ると、プロテスタントも危機に陥ってしまった
それに対してカトリックと正教はプレモダンのままだから、逆にポストモダンになっちゃったわけです
(T)
えっ、プレモダンのままだとどうして自動的にポストモダンになるのですか?
自動的にポストモダンになるというのではなく、モダンの枠以外で思考できるということです
その結果、ポストモダン的な思考が理解できるようになる
(T)
すると、モダンの否定という意味では、プレモダンもポストモダンも同じというわけですか
その通りです
カトリックや正教は近代に背を向けてきたから、近代の危機を迂回できるわけです
対して、プロテスタントは一見、ポストモダンに対応できるように見えるのに、もうボロボロ
近代と運命を共にするつもりできましたから
宗教を動かすのは、実はイエスのような天才じゃなくて、パウロのような使徒なんですよ
使徒というのは、神によって遣わされたイエスに忠実に従った人たちです
自然科学分野の天才は内発的なものに衝き動かされますが、外部にあるものをつかみ取る能力を持つのが使徒たちです
宗教において重要なのは、「外部性」をいかに包摂できるか
例えばシュライエルマッハーは、ある日突然、宗教の本質は直感と感情だと思ったんですよ
(T)
直感的に? それって単に「勘」ですよね
それは心理作用以上のものでも、以下のものでもないです
だから問題は心なんですよ
心がどこにあるか
キリスト教徒は人生に苦しいことがあると、この話(ヨブ記)から何かを汲み取って元気を取り戻すんですよ
試練にはそれなりの意味があるし、悪いことをしていないなら謝ってはいけない、と
だから日本人と違って、欧米の人はトラブってもなかなか謝らないでしょう
キリスト教はすべてを包摂する世界観ではないですからね
キリスト教の関心は、これはカトリックでもプロテスタントでも正教でも一緒だけど、とにかく一人ひとりの個人が救われること
だから、イエスの生涯に関しても関心がない
なぜなら、それが救済の問題とは関係してないから
まあ、今のキリスト教の問題は、終末が二千年も遅延してるから、理論的な整理に困っているともいえますけどね
竹内さんが最初におっしゃったとおり、キリスト教はいい加減な宗教ですし、聖書には矛盾がある
だからこそ二千年以上、時代の変化に耐えて、長持ちしてきたんです
パウロは、近しい隣人でなく、むしろ外部の世界の人間と愛のネットワークをつくっていこうとしたわけです
外部というのは異教徒です
彼の布教の対象はギリシャ人ら外側に向かっていましたからね
しかし、善きサマリア人の話はあくまで同族内の話なんです
だいたい、イエスの説話で、同族を超えた世界における愛情を説いているものは何もない
イエス本人の意識の上で、自分はあくまでもユダヤ教徒だったから、いつもユダヤ人に向かって語っていたのです
よくみんな誤解するんですけど、イエスの活動はユダヤ教の中の改革運動にすぎなくて、弟子たち---イエスを直接知る弟子たちも、ユダヤ教の枠をはみ出した人間は一人もいなかったんです
ところが、その流れは全滅して、結局、イエスと一度も会ったことがなくて、キリスト教徒の弾圧を仕事にしていたパウロが、ダマスカスに行く途中、「イエス・キリストの光を見た」とのふれこみで始めたのがパウロ版キリスト教、つまり”パウロ教”というわけです
パウロが説くキリスト教と、ほかの福音書の距離はけっこう離れていますね
ユダヤ教とパウロ以外の福音書の距離よりも、ずっと離れている
”パウロ教”は世界宣教という形をとりました
インターナショナルな教団になった
イエスは日常的にはアラム語をしゃべり、使っている教典はヘブライ語だったんですが、パウロが、使う言語をすべてギリシャ語に変えてしまったんです
言葉を変えるにしたがって概念も変わるわけで、国家権力との関係においては融和的になっていった
国家権力とは事を構えないのがパウロの姿勢なんです
本来のキリスト教は神の国だけが大事ですから、人間がつくった国家なんか尊重しないんですが
それと似ているのが創価学会で、あの組織は、SGI(創価学会インターナショナル)を作って世界中に布教していますが、その国ごとに姿勢を使い分けている
たとえば旧ソ連では布教しない代わりに文化交流をやるとかね
その国の体制に合わせるところはパウロもおなじです
(T)
うーん、じつに賢いやり方ですね
だからキリスト教は三一三年のミラノ勅令によってローマ皇帝にも公認されたんですね
(T)
だけど、十九世紀にパウロの評判が悪かったのは、どういう経過なんですか?
女性の権利という考えが強くなるとともに、啓蒙主義の影響で実証的に文献を調べるようになり、聖書のテキスト解析も進んだからだと思います
新約聖書でキリストの告知した内容はギリシャ語で「ケリュグマ」と呼ばれますが、実はそのほとんどがパウロがつくり上げた部分だと分かってきた
そしてイエス自身についても、いつ生まれたのか、何をやったのかも実証できないことが明らかになったのです
ただ、一世紀末の時点においてイエス・キリストが救い主である、そう信じている人が大勢いたことだけは確かで、それ以上でも以下でもないですね
パウロに関してカトリック教会は、プロテスタント教会と比較して冷ややかですからね
むしろペトロを重視する
イエスは天国の鍵をペトロに授けたことになっているので、初代の教皇に位置づけられているわけですが、ペトロというのはお調子者で、だから十二使徒の中でも真先に「あなたを信じます」と言ったわけです
イエスが捕らえられても「私はあなたを絶対に裏切りません」と言ったペトロに、イエスは「おまえは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われてしまった
つまり、おまえはそう言うが、自分が官憲につかまったらきっと口を割ってしまうだろうと
(T)
そんなペトロが「使徒言行録」ではパウロと並ぶ主人公になっていませんか?
途中まではね、やはりカトリック教会では、ペトロがイエスの継承者ということになってるので軽視できない
ただ、聖書に書かれているペトロ像は、歴史実証性からはほとんど説明できない事柄です
それでもカトリック教会にすれば、ペトロがイエスから鍵を渡された一番弟子であるということが重要なんですよね
正教会はペトロもパウロもあまり重視せずヨハネを重視していますけど
(T)
だから「ヨハネによる福音書」だけが他とは違ってるのか
そう。キリスト教の系統によって、どこを重視するかが違うんですね
プロテスタンティズムは圧倒的にパウロ教ですから
博愛はストアの発想です
一世紀のギリシャで、ちょうどキリスト教が入ってきたのと同じ頃に流行したのがストア哲学で、心の平静と万人に対する普遍的な愛を説く
この場合の万人とは、すべての人類という意味です
あの当時のギリシャ哲学はみな、観念的、抽象的なんです
だって生活になんの心配もないポリスの知識人がたたかわしていた議論ですから
それに対してキリスト教の隣人愛は万人向けではない
「汝自身を愛するように」という言葉がポイントで、可愛い奴は思いっきり可愛がろう、自分自身を可愛がるように可愛がろうという、いわば依怙贔屓な愛ですからね
(T)
そういうストア哲学みたいな観念的な議論って役に立たないから消え去りませんか?
パウロのような現実的な教えに取って代わられますよね?
消え去ります
現にパウロ教は広まっていきました
そして現在あるキリスト教は、ストア的な博愛を建前としつつ、事実上は偏愛をすすめていくというダブルスタンダードになっている
それらを適宜使い分けるのがキリスト教の特徴です
ずるい宗教なんです
このハイブリッドな構造こそが、キリスト教が長持ちする原因なんですよ
(T)
なるほどお、理想を求めるタイプの人もスカウトできるし、現実的な人もスカウトできる
うまいことやりますね
聖書を読めばよく分かるけれど、キリスト教というのは、そもそもユダヤ教の時代から、人を選別して、気に食わない者は皆殺しにする---ジェノサイドが専売特許ですからね
イエスのキリスト教だって、その伝統は消えてないわけで、博愛でもって人類を等しく愛することなんて考えないですよ
キリスト教にとって重要なのは、あくまでこの世です
この世の中に生きている持ち時間において何をやれるか、それが私の主題になりますね
(T)
でも「永遠の命」とか「神の国」が、福音書ではテーマになってますよね
それは隠れたテーマであって、パウロをはじめとするキリスト教徒の関心はあくまで現世にあるんです
そもそも、あの世に関心のあるキリスト教と、この世の生き方に関心の強いキリスト教の両方あるんです
プロテスタントに限定するならば、比重からいうと九五パーセントぐらいはこの世の側に関心がある人たちです
私のキリスト教(カルヴァン派)もそっち
(T)
アンケートに答えられる欧米の国々で調査したところ、どの国でも、あるいは時代が変わっても、完全に生涯にわたり男性同性愛者だという人の割合は約四%だった
ちなみに女性同性愛者の割合は二%かそれ以下です
この値は、もう見事なくらい同じ
イタリアのパドヴァ大学、ここはガリレオが教授を務めた大学ですが、そこのアンドレア・カンペリオ=キアーニらは原点に立ち返って、男性同性愛者、男性異性愛者、そしてそれぞれの家族を含む、合計で四千六百人以上に家系調査をして繁殖状況を調べたんです
すると、男性同性愛者の母系---母親、祖母、おばさんたちの出生率が、男性異性愛者の母系の女たちの出生率よりも上回ることが分かった
たとえば男性同性愛者の母の出生率が平均二・六九に対し、男性異性愛者の母の場合、二・三二という具合です
一見あまり差がないように思われるかもしれませんが、もし母から娘、娘から孫娘へと女だけのルートで累積していくとあっという間にもの凄い差になります
親戚の中にときどき男性同性愛者が現れても、女たちのがんばりで出産数が保たれている
これがつねに四%である秘密なわけですね
そしてここでも得られる教訓なんですが、動物というのは個人で繁殖するのではなく、一族で繁殖しているということです
自分に子がないと、ひけめに感ずる方もあるかもしれませんが、気にする必要はないんです
むしろ自分が一族のなかでどう振る舞うかと考えればいいのです
ネポティズム(縁故主義)の「ネポ」とは「甥 nephew」
教会に由来する言葉で、もともとは「独身の誓いを立てた聖職者の男の私生児」を指します
聖職者には子どもがいないのがタテマエだから、隠し子がいても権利を継承できない
そこで権力や財産などは甥に移譲されたわけですね
(T)
甥ということにした実の子ですか?
それとも本当の甥ですか?
両方ありますが、ネポティズムはもともと甥にした実の子を想定していると思います
だから
縁故主義も合理的といえば合理的なんです
そもそもイエスが考えたのは、悔い改めて正しいユダヤ教徒になるということだけでした
それを、イエスに会ったこともないパウロが、ここで一丁、新しい宗教でも立てることにするかと
しかし「パウロ教」では、自分の行状を知っている連中は誰もついてこないから、イエスに従うかたちで立ち上げることにしたのかもしれません
いわば会社の乗っ取りのような、キリスト教乗っ取りです
だけど、こういう傑出した人物がいなければ、キリスト教なんてここまで生き延びてこれないわけです
イエスだけでは、いくつもあるユダヤ教の改革運動のひとつに終わっていたでしょうね
「神は存在するか」といえば存在するんです
地獄はあるかといえばあるんです
イメージを持つことがある以上、イメージした人にとっては、それはあるんです
客観的な実在としてあるかどうかは別として