未来屋書店は、イオングループの本屋さん
おすすめの本が展示されていて知った 篠田桃紅さん
本屋さんは店員さん次第だと思う
店内検索機があっても、自由に読める椅子があるからか
本の管理が不充分になる店は、検索機で表示されるところに本がないことがある
大きな店で気持ち良い店でも
買いたくても、本があると表示されて見つからない店は足が遠のく
未来屋書店は、小さな本屋さんだが、教えてくれる展示がいい
篠田桃紅さんの略歴から
2005年
「世界が尊敬する日本人100人」(ニューズウィーク)に選出される。
2015年
『103歳になってわかったこと』(幻冬舎)発刊。ベストセラーとなる。
人生は一人でも面白い と サブタイトルも面白い
昔、知人の女性と話していて
まだ当時30代、若い人だったが、色々不思議な話をしてくれた
それを思い出させるのと、私には到底到達できない年齢でわかることを
教えてもらえる本です
私の部屋の押し入れは衣装、その下の床は、本
すのこや小さな本棚にのせて飾ってます
購入したら処分しないので、本はよほどのことがない限り
買いませんが
それでも買おうと出かけた本はこの本でした
篠田桃紅 一○五歳、死ねないのも困るのよ 幻冬舎文庫
楽観的に生きる
ふっと、なんでもないことから、私はこの歳なのだ、と気がつくことがあります。
普段は、歳のことなど気にしていないのですが、
なにかの拍子に、これはもうとんでもないことで、不思議な現象が起きている。
今はこうしているけれど、明日はダメかもしれないと我に返ります。
今は人と会っていても、明日はもういないかもしれません。それくらいもう歳をとっています。
いつ時間が止まっても不思議ではないのです。
しかし、恐怖心はありません。
私のなかには、自分のことを観察している、非常に理性的で客観的な見方をしている私がいます。
その私は、明日はダメになっても、不思議でもなんでもないことを知っています。
それでも、恐怖と感じずに、こうして平然と生きています。
それは、もう一人の私がいるからだと思います。
その私は、客観的な見方をする私には引っかからず、そして踊らされず、自分というものを持っています。
理性的なもう一人の私の見方を大筋認めていますが、気に留めていません。
人の未来のことは、ほんとうは誰にもわからない、と楽観的なことを思っています。
ですから、私は、二人の私のあいだを行き交い、一人の私が強くなったり、もう一人の私が強くなったり、代わりばんこになっているように思います。
そうやって、なんとなく日々、時間が過ぎて、生きているのだろうと思います。
人は不思議な生き物だと思います。
一人のなかで、客観的なものと主観的なものとが組み合わされて生きているのですから。
客観的には明日死んでもおかしくないと思っている一方で、主観的にはまだ大丈夫だろうと思っています。
私の周りの人は、人の寿命は神秘的なもので、誰にもわかりませんからと言って、私の死期には触れず、はぐらかしてくれます。
確かに、人の命くらいわからないものはありません。
いくら若くても、明日ダメにならないとは限りません。
自分で決められることではありません。
だから悩んでもしかたありません。
楽観的な私に心を置いて生きていようと思っています。
長生きの秘訣
長生きしているヘンな人、なんであんなに長生きしているのだろう、と私は思われていると思います。
長生きの秘訣はなんですか、としょっちゅう尋ねられますので、
一度、大真面目に考えてみることにしました。
私にはまず、私のいい加減なおしゃべりを聞いてくれる人がいます。
だから私は、時間を忘れてしゃべりつづけます。
もうこんな時間? と切り上げるのは、私ではなく来客のほうで、
「すっかり遅くなって、晩ごはんの時間になりましたから」とか、
「ずっとおしゃべりされていて、さぞかしお疲れでしょう」などと言って、
まだまだ話をしたい私を置いて、疲労の色を浮かべて帰っていきます。
批判的な人からしたら、「歳をとった人だからと思って聞いてくれているのよ。
あなたはどれほどそういう人の恩に着ていることか。
なのに、そういうことをやって、当然だと言わんばかりね」
と思うことでしょう。
事実、正直にそう忠告してくれた人もいました。
おしゃべりの自覚はあります。
次に思いつくのは、年に二か月ほど過ごす山中湖の山荘です。
私は結核を患ったことから、肺が丈夫ではありません。
空気が清浄な場所で過ごすことは、私の肺にはとてもいいことです。
医師の日野原重明先生も、年に二~三か月間、標高一千メートル以上の場所で過ごすのは長生きする秘訣だと、生前おっしゃっていましたので、山荘暮らしはお墨付きとも言えます。
それに、私は子どもの頃から暑さにはめっぽう弱く、夏になると、冷蔵箱といって氷で冷蔵する冷蔵庫に頭を突っ込んで冷やしていたほどでした。
暑さで、ぐったりして生活もままならなくなりますが、
山中湖へ行くと、その日から食欲は旺盛になり、くたびれはてている体に体力が少し戻ってきますから、私を大いに救ってくれています。
あとはやはり、私のわがままな性格でしょうか。
私は、一人でやりたいようにやってきました。
美術団体や連盟などに所属することは、私の性格では無理なことでした。
その代わり、自らによって生きることは、とても孤独なことです。
しかし、それが私にとっての自然体でした。
さて、こうして列挙してみたものの、はたしてこれらが、ほんとうに長生きの秘訣なのか、私にはさっぱりわかりません。
ただわかることは、いくら長く生きても、生きることに行き詰まるなんてことはない、ということです。
私の場合、描いても、描いても、まだなんの表現もできていないと感じます。
もうなにも表現するものがない、とはなりません。
人生はやることが尽きないと感じることも、ひょっとして長生きの秘訣なのでしょうか。
長生きに秘訣があるのかすらも、私にはわかりません。
自分で人生を工夫する
よほど私が幸せな晩年を過ごしているように見えるのでしょうか。
長生きの秘訣と合わせて、もっともよく尋ねられる質問が、幸せな晩年の過ごしかたです。
その都度、私は意地悪く思われてもいいので、
「幸せな晩年の過ごしかたは、人から教えてもらおうと思ってはいけません。
自分で見つけなくてはなりません」と答えています。
そしてさらに、
「なんでも教えてもらえばいいと思うのは悪い癖です」
と言っています。
まだ教えてもらったことがないから、まだ習ったことがないから、と言い逃れをする人がいます。
なんでも自分でつかまえていくものです。誰かに与えてもらえると思うのは横着です。
当たり前だと思ってはダメです。
手取り足取り、教えられたようにやっていればいい、人から教えてもらったことだけをただ守っていればいいなんて。
自分で考えて、自分で取り入れて、自分で人生を工夫する。
考える力を放棄してしまってはいけません。
そして、人に相談することは、人を頼りにすることではありません。
相談してその人の話を聞いて、なお自分で考える。
人の話に従うのは相談ではなく、その人の言いなりです。
自分というものを、まずしっかり持ってから相談します。
人の生きかたとして「独立自尊」を提言したのは福沢諭吉でした。
西洋の文明が押し寄せてきた幕末に、日本古来の教え、中国の漢字など、さまざまなものが入り乱れました。
押し流されてしまってはダメ。
一人ひとりが自立しなくてはならない。
学問に励み、学びを自分のものにする。
自分がなにを以て立つかを考えなさいと教えました。
いつの時代も同じです。
あなたの運命を受け入れる
私は、好んで、横紙破りの大島紬を着ています。
大島紬というのは、一日に一寸ぐらい(約三センチ)しか織れない細かい柄が値打ちものとされています。
しかしたまには、伝統を横から破って、自分勝手に織る職人もいるようです。
偶然、それを見つけたとき、大島紬の職人のなかにも、そうした横紙破りをする人がいるのだと気に入り、その場で買い求めました。
古いものに敬意を表して、継いで守っていくことも大切だと思います。だけど私自身がそういう性格ではありません。
別のことをしたい。子どものときから、学校の先生や親の言うことを、ただ守っていることがなんとなく退屈で、自分流でやっていきたいと思っていました。
横紙破りをするのは、その人の性格です。
私などは、生活のなかで、ちょいちょい顔を出していたことを思い出します。
母が、あなたは勝手なことばかり言って困ったねえ、と言っていました。
お正月のときに、母が着せてくれるきものを、私は普通のお嬢さんらしくしたくない。
ちょっとこういうふうに着たいと言うと、生意気言って困るね、と言われました。
父にもよく食ってかかっていましたし、きょうだいのなかで私は困った存在でした。
自分の視点で勝手なことを言う。戦前の学校教育でも、私は問題児でした。
勝手な言動は老いても変わっていない、と私の親戚などは言っているようで、私も、死ぬまでこのままだろうと思います。
これまで何度となく繰り返し書いてきましたが、つくづく、人の「運命は性格の中にある」と言った芥川龍之介は凄いの一言です。
ふと、もし私がこの性格でなかったらと考えます。
もっと幸福な人生を送っていたかもしれません。あるいはもっと、つまらない人生だったかもしれません。どちらともわかりません。
ただこれが運命。運命の前に人は無力で、運命のなかで人は生きています。
取り返しがつくことでも、泣いたりわめいたりして、どうにかなるものでもありません。
そして、人は、それぞれの運命のなかで、苦しみや悲しみを抱えています。
一見、幸福そうに見える人でも、解決しようのない悩みを持っているのではないでしょうか。
だから、人を羨ましがるとか、妬むとか、そういった感情を抱くのは愚かなことだと思います。
みんな、自分の運命のなかで、寂しい、悲しい思いをしていると思います。
期待して生きている
朝起きるとき、人はなにかを期待しています。
でなければ起きる気にもなれません。
しかし、期待どおりに世のなかが動くわけではありませんし、自分にも動かす力はありません。
半分は運まかせで、運がよければなにかに出会わせてもらえるかもしれないと思うから、朝起きているのではないでしょうか。
人によっては、いいことには絶対というくらい出会えないと思っている人もいるようです。
そういう人は、あまり生きていることに期待していません。
ただ生きているままに生きているだけです。歳をとると、だんだんとそうなってしまうのだろうと思います。
期待は、外れることのほうが多いから、期待しなくなります。
しかし、若いうちはなにかいいことがあるかもしれないと思っています。
どこかで出会えるかもしれないと。
はっきりと期待しているわけではないけれど、心のどこかでなんとなく思っています。
私も若い頃を思い出しますと、友人の家を遊びに訪ねたり、
友人とどこかで待ち合わせして出かけたり、
いろんなことをしましたが、なにかに出会えると期待していたと思います。
退屈まぎれに、ただ出かけていたわけではありません。
だけど、大半は別段どうということはなく終わります。
でもそれは、大きな落胆ではありません。
なにかいいことに出会えるかもしれないとなんとなく期待していますが、絶対にいいことが起きるとも思っていません。
ですから、失望もしないし、絶望的にもなりません。
そして次の日になれば、性懲りもなく、また誰かと会ったり、出かけたりしています。
人の生は、なんということもないことに期待を抱いています。
それを日々、失望するために生きている、と言った人もいます。
心のどこかでなにかを期待していますから、生きているあいだに、どんどん絶望してしまうのです。
世のなかはそう思うようにならないことは知っていますが、
それでも、いいことが起きないかと期待しています。
だから私たちは生きています。でなければ生きていられません。
はっきりとこの世はこんなものだ、とわかってしまったら、生きていられなくなってしまいます。
わからない部分があるから、最後まで、どこかで期待して生きていられるのだと思います。
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死にゆく人の心に寄りそう~医療と宗教の間のケア~ (光文社新書)