中根東里 | 猿の残日録

猿の残日録

いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

不思議な人である

読んでいて、若い頃はわかったが、

この年になるとその生き方が

解せない若い人を見ることがある

 

自分ならこうするが、なぜ、しないのだろう というように

 

そんな気持ちが消えていく気がしたのは、この本を読んだから

 

「無私の日本人」 の中の

 「中根東里」 磯田道史 著

 

 

 

「他人のことを、とやかく言うつもりはないのです

ただ、わたしは、おのれの力で食らい、

人から、びた一文受けるのもいさぎよしとしない

そうした生きかたに徹したいのです」

 

「あなたは染まらぬ御仁だ

まわりが黒くなろうと白くなろうと、ちっとも染まらない

かといって、人とあらそうわけでもない 不思議なお人だ」

 

強項にして屈せず、縝黙(しんもく)にして競わず、

能く磨涅(までつ)の中に処して、更に緇磷(しりん)の損なし

 

鳩巣は東里のことを「硬い玉のようだ」と思った

世の中で蹴飛ばされ、

土石ばかりのザラザラの地面を転がされれば

たいていの玉は澄明な光を失ってしまうが、

東里には「擦れる」ということがまったくない

 

むしろ、苦労すればするほど、心が磨かれて美しくなる

 

若い頃の苦労で人間が駄目になっている荻生徂徠とは大違いだ、

と鳩巣は感じている

 

 

「学問をして禄をもらうわけにはいかぬ」

 

 

「わたしが本を読むのは、きっとこの人生を満たすためでしょう

欲が深いのか、本を読んでいなければ自分が保てない

うまいものが喰いたくなったり、

銭がなくなるのを心配したりしてしまうのです

でも、ほんとうは、

いたずらに本を読んで娯しんでいるだけではいけない

もっと思索しなくてはいけない

 

そうすれば、いけないことをしたときに、恥ずかしいと思える

本を読んだだけで、人格を完成できる人は素晴らしい

 

そこまでいかなくても、本を読むと、

いけないことをしたとき、恥ずかしいと思えるようになる

 

わたしのように、本をただ読んで娯しむだけではいけないのですが・・・」

 

 

 

「わたしは病を治せない

それははっきりしている

たしかに医業をひらけばわれわれの暮らしは楽になろう

だが効きもせぬ薬を授けて、薬札をとるのは、人を欺くに等しいと思う」

 

「人のいのちは、書物よりも尊い」

 

「学問は道に近づくためのもので、

書物をたくわえるものではないと思う

聖人君子のことばも、いってみれば、指のようなものにすぎない」

 

「この指の案内によって、まなざしを転じなければ、

このむさ苦しい長屋の中しか

われわれは見ることがない

そこが自分の天地 だと思ってしまう

しかし、指の先をたどれば、

そこには広い空があり、美しい月がある

 

聖人君子のことばは、

われわれを美しい月に案内してくれる指のようなものだ

わたしたちはただ、ひたすらに月をみればよい」

 

「無益の文字を追いかけ、読み難きをよみ、

解し難きを解せんとして

精神を費やし、あたら光陰を失ってはいけない

わたしも、あやうく、指をもって月とするところであった

四書五経は指にすぎない

大切なのはその彼方にある月だ」

 

月を見るものは、指を忘れて可なり

 

この思想は過激といっていい

ほんとうの価値が

聖人の教えである四書五経の外にあり

それをつかめば、案内書は忘れ去ってよい

とまで言い切った人物は

この時代ほとんどいない

 

「楽しくなりますよ

自分をひたすら無にしてごらんなさい

我は彼になり、彼もまた我になるというように、

気もちの垣根をとっぱらってしまえば

自分の物でないものはなくなりますよ

 

自分にこだわれば、

富貴貧賤、長寿短命、幸不幸、生死、福禍、栄辱

みな気になってかえって苦しんでしまいますが、

いっそのこと自分を無しにしてしまえば

みんな同じでしょう

 

人をきちんと育てたり、戦いをとめたり、

乱暴を禁じたり、虐めをなくしたりするのは

ほんとうはちっとも他人ごとではなくて、

自分のやまいを治しているようなものですよ」

 

「なにも、はじめから、聖人だけにかぎることはない

わたしたちも勉めるべきではないでしょうか

みな、それぞれ、できるところで、

心のなかの美しい玉をみがけばいい

玉には大きい小さいがあって、

聖人のように大きな玉は磨けないかもしれないが

小さい玉でも磨けば美しく光る

そういう玉を心のなかに磨いていく

それが人の生きるつとめではないかと思っているのです」

 

「あるいは、ということかもしれません

彼を先にし、我を後にする心

この心でいけば、我を無みして、仁に近づけるかもしれない・・・」

 

 

「みなさん、書物には読み方というものがあります

書を読む人は、読むまえに、まず大どころは、どこかを考え

そこをきちんと読むことを心掛けてください

 

たとえば都会を遊覧するとき、

ちまちまとした木戸や飯屋だけをながめて

城郭や宮殿を観ずに帰ってきたら、

都会を遊覧したといえますか

 

これと同じなんです

 

真実、道を志すということは、

餓えて食をさがすようなものです

 

食べるものがないのに、

いらないところを徘徊している暇はないのです

 

みなさんは道を得るために、

まっしぐらに、書物のなかの大切なところをみつけて

読んでいかなくてはなりません・・・」

 

 

当時の儒者の講義といえば、道を説いているというよりは、

書物のなかの字句を解説しているといったほうがよかった

書物を冒頭から逐条に解いていき、

それで束脩(そくしゅう:月謝)を稼いでいた

 

ところが、東里は、

本は全部読まなくてもよい、と、言った

 

「聖人の学は、なにも難しいものではない

ただ、ひとつのことがわかればよい」

 

戸板をなぎ倒すような迫力で、東里はそういった

天地万物一体の理がわかれば、それでよい、

というのである

 

 

「しかし、かくいう私も、つまらない者です

くりかえし、この説を読み、人にも説いていますが

井のなかの蛙が海を知らないようなものです

 

我と彼のあいだの垣根をとりはらった広い気持ちになろうとしても

なかなかうまくいかず、悩み苦しんでいます

 

それはちょうど、犬猫が自分の尻尾をおいかけて、

くるくる旋回しているのに似ています

 

自分が、自分が、と、

自分にこだわるから、苦しくなるのは、わかっているのですが・・・

今日はここまでにいたしましょう」