曇天の桜 2016 | 猿の残日録

猿の残日録

いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

香流川サイクリングロードの出発点

私が10年間通った道

 

桜が咲くのはほんの1週間、あとはただの緑

 

桜が咲くのは年に1回 そんなのを有り難がる気持ちがよくわからんが

季節的にイベントと重なるから、想い出となって残るのでしょう

 

 

不格好だが色は好きな、枝垂桜というのかな

 

 

手前のピンクは好みの色

その後ろの白っぽいのは一般的な桜です

 

 

一般的な桜がずっと続くのですが、菜の花なのか黄色がキレイでした

 

 

桜の下を通った10年、

サイクリングロードは舗装しても5年もたたずに

根がアスファルトを押し上げて、道路が凸凹、

快適に走れるのは2年くらいのわずかな間、

 

10年の間に2回以上舗装し直してた気がする

これが公共工事なのだろう

 

 

覚王山の日泰寺 が見えた

 五重塔 曇天の中、名古屋にもあったんだなあ

 

 

40年前、京都の先輩が、仏舎利があるお寺は日本に1つだけ

京都のお寺なんて と言ってたのは憶えてます

理系の先輩なので、こんなこと言うんだろうなと、当時は冷ややかに聞いてました

 

 

 

ネットで見た記事 以下、コピーです

 

日本で唯一のいずれの宗派にも属さない日本の全仏教徒のための寺院で、

釈尊(お釈迦さま)のご真骨をタイ国(当時シャム国)より拝受し、

仏教各宗代表が協議し奉安する為に1904年(明治37年)に建立された。

 

釈尊を表す「覺王」を山号とし、日本とシャム(羅)国の友好を象徴して

覺王山 日にっせんじとして創建された。

 

その後、昭和14年(1939年)シャム国のタイ王国への改名に合わせて、

昭和17年(1942年)日寺に改名された。

 

よって、運営に当っては現在19宗派の管長が

輪番制により3年交代で住職をつとめ、

各宗の代表が役員として日常の寺務に携わっている

 

1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い

英領インドのピプラーワーというところで、

イギリスの駐在官ウイリアム・ペッペが古墳の発掘作業中

ひとつの人骨を納めた蝋石の壺を発見した。

 

その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が

側面に刻みこまれており、

それを解読したところ

 「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに

信の心をもって安置したてまつるものである」 と記されてあった。

 

これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、

遺体を火葬に付し、遺骨を八つに分けてお祀りし、

その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置した

とある記載が事実であったことを証明するものである。

 

当時19世紀の西欧の学者の間では、

佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまい

という見方が一般的であって、一部の学者にいたっては

釈尊信仰を太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。

 

そうした状況がこの発掘によって一変し、

「釈尊」の実在が立証され、

まことに19世紀東洋史上の一大発見となった。

 

その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、

舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、

釈尊の御遺骨についてはこれを佛教国である

タイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。

 

時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ

佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、

その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。

 

この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎は

バンコクに於いてこれを見聞し、羨望にたえず、

日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、

その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。

 

稲垣公使の通牒が外相青木周藏によせられ、

直ちに日本佛教各宗管長に対して、受け入れ態勢の要請がなされ、

当時の佛教13宗56派の管長は協議を開いてタイ国々王の聖意を拝受することを決定、

明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、

正使に大谷光演(東本願寺法主)、副使に日置黙仙(曹洞宗、後に永平寺貫首)の他、

藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)等がタイに渡り、

 

6月15日バンコク王宮に於いてチュラロンコン国王より親しく御真骨を拝受し、

又使節団が帰国後、佛骨奉安の寺院を超宗派で建立すると

お約束を申しあげたところ、

完成時の御本尊にとタイ国国宝の一千年を経た釈尊金銅佛一躯を下賜された。

 

奉迎使節団は御真骨を奉持して帰国後、京都妙法院に仮安置し、

佛教各宗の代表が集って新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を協議したが、

候補地をめぐって意見が分れ、これの調整に甚だ難渋した結果、

名古屋官民一致の誘致運動が最後に効を奏し、

ようやく名古屋に新寺院を建立するとの結論を得た。

 

ここに於いて名古屋市民あげての協力によって

現在の地に10万坪の敷地を用意し、

明治37年、釈尊を表す「覺王」を山号とし、

日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の寺号をもって誕生したのである。

 

般若心経を写経したことが1度あったが、2000年頃だったか、それ以来の訪問でした

 

 

覚王山から椙山学園の横を通り山崎川北端に降りてきた

途中、松坂屋伊藤家の家とかあるらしい

グーグルマップで見たらきっとわかるだろう

 

 

桜はピンクではなかった 中心がピンクなだけ

それが多少アクセントになって、ただの白っぽい桜とはちょっとだけ違う

 

 

瑞穂運動場の方まで、ずっと山崎川を通った

 

 

桜を見ると、一人暮らしを始めた頃の寂しさを思い出す

 

 

桜がキレイと思ったのは、山崎川が最初で、それは風に舞い散る桜を見て

 

 

今日も風に舞う花びらが川面に浮かんでキレイでした

 

 

右のピンクの桜が好きです 白っぽいのは寂しげでイカンなあ

 

 

山崎川は、香流川に比べて、川幅が狭いので、

人が密集するとこの混雑

私的に、風情があると感じるのは、

想い出のある覚王山よりの桜 なので

名市大薬学部あたりの桜は、何も感じない桜なのです

 

まことや 味噌煮込み @820 

50円きざみで、玉子870、かしわ920、親子970

えび1070、えび玉子1120、えびかしわ1170、親子味噌えび1220

 

 

えび を向かいの人が食べてた えびふりゃあが1本乗ってるだけ

 

まことや は、鍋を6つ並べてうどんを煮込み、

土鍋に移して提供する

適当に柔らかいので といっても多少は硬いが、他の本家とちがう

 

同じ事をお向かいで食べている男性も、

他は硬すぎると言ってた

 

それと、言ってないが、他は高すぎる 

ただの味噌煮込みなんだからと、私は思う

 

4軒北隣りに山本屋本店だったか、最近出来てる

昔はレストランスイスだった気がする 

一度も入ったことが無いが

 

 

再び、香流川の桜 すっかり夕方です

 

こういう桜のトンネルを10年も通ったんだなあと懐かしい

 

 

これでも午後4時すぎだから、

曇天のヤマトの寂しさは

アルプス山脈の北にあるドイツ並じゃないかと、

イタリアの明るさを懐かしんで

 

そんなわけないか ということで、

日照時間が日本で上位の名古屋市の桜でした

  晴天なら、もうちょっとだけ美しいです(が、こんなものです)